時世時節~ときよじせつ~

氷室ユリ

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1 予兆

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 二月に入ったばかりの昼下がり、医務室にて。俺の前では、青い顔をした女子生徒、三学年に在籍中の朝霧ユイが眠っている。

 俺はここ寂れた山奥の高校で校医をしている、新堂和矢しんどうかずや二十七歳。本業は外科医だ。外科医のくせに、なぜこんな仕事をしているのか?
 断っておくが腕が劣っているからでも、他でミスを犯して逃げ出したからでもない。今も近隣の地区から(時には遠方も)オペの依頼が入る。この地域は医者が不足しているため、手の空いた時間だけでもと頼まれたのだ。
 そして今はその、手の空いた時間に相当する。


「う、うう……ん」
 朝霧ユイが呻き声と共に、首を僅かに動かした。目を覚ましそうだ。
「朝霧さん、分かりますか?」

 体育の授業中に突然気を失って倒れたらしい。呼ばれて駆けつけ、彼女だと分かって少々躊躇った。その理由は追々説明して行く。
 見たところ貧血のようだったので、病院への搬送はせずにここへ運んだ。
 彼女が倒れたのは、ここへ転校して以来初めての事だ。朝霧ユイは昨年秋に県外から転入して来たのだが、医務室とは無縁のとても健康的な生徒と認識していた。

「……あれ?私……」
 起き上がろうとして、めまいを感じたのか表情を歪めて動きを止めた。

「血圧も下がっている。急に起き上がらないで。もう少し休んでいなさい」
 セミロングの髪が掛かるその肩に、触れるか触れないかの微妙な位置に手を差し伸べて、声をかける。
「頭が、クラクラする……」
「貧血が酷いようだけど、ちゃんと食事は摂っているのかな?」
「はい。普通に食べてるはずですけど……」

 再度彼女を横にさせて毛布を掛けてやる。

「あの、新堂先生……」
「何ですか、朝霧さん」極力穏やかな口調を心がける。
 彼女は恐る恐るというように口を開いた。「……あの、聞いて、貰えますか?」
「何かな」

 どこか言い出しにくそうだ。
 恋愛相談の類ならばゴメンだぞ?この朝霧ユイに限って、そんなはずはないか。

 俺はこの生徒を避けている。あからさま過ぎる拒絶もしてしまったから、本人も薄々気づいているだろう。だが仕方がないのだ。
 何せ彼女は、俺にとって脅威の存在なのだから!たかが女子高生一人に大袈裟と思うだろうが、その体から立ち昇る香りには、理性を吹き飛ばされそうになるのだ……。

 理性が吹き飛んだらどうなるのか?

 それを説明するには、大きな秘密を打ち明けなくてはならない。誰にも知られてはいけない、恐ろしい秘密を。
 俺は人間ではない。正確に今はもう、と言っておこう。これでも百七十数年前は人間だったのだ。だが今は人間として生きてはいない。
 主食はその人間の生き血。もうお分かりかと思うが、正体はヴァンパイアだ。

 そしてこの朝霧ユイの血は、とてつもなく魅惑的な香りを放っているのだ。周りの人間とはまるで別格の!その首筋に、すぐさま手を伸ばしたくなる。
 そんな訳で、あまりこの生徒と二人きりになりたくはない。いずれこの誘惑に負ける日が訪れそうだから……。

 こんな苦悩も知らずに、目の前の朝霧ユイはすがるような目で俺を見続ける。

「朝霧さん?軽く診察はしましたが、心配なら病院に行きますか」
 口を開かない彼女にこう切り出してみる。
 ヴァンパイアは驚く程耳がいいので、こうしていても朝霧ユイの心音がはっきりと聞こえる。今は若干早いようだが、正常な範囲だ。
 集中すれば血流も聞こえてくる。血圧が安定しない今は少々滞っているか。とはいえ、貧血以外に特段問題はなく、こうして病院を勧めたのは単なる気休めだ。

 ここでもう一つ秘密を教える。これは俺だけの能力らしいのだが、他人の考えている事が読める。それに気づいたのは、生みの親のヴァンパイアがいなくなってからだ。
 読めると言っても、超能力者のように瞬時に理解できるとは限らない。中には支離滅裂で纏まらない感情だったり、場合によっては言葉ではなく映像のみだったりする。

 ところが、目の前の朝霧ユイの心が全く読めない。どんなに意識を集中しても、そこは沈黙の闇空間が広がっているだけで、何一つ見えた試しがない。
 こんな事は今までに一度だってなかった!
 魅惑的な血を持ち、考えが読めないこの娘。もしかしたら、俺を滅ぼすために遣わされた、人の姿をした悪魔かもしれないと思った。
 当初はかなりの警戒心を持って、この娘の動向を探った。だが朝霧ユイは、誘惑してくるでもなく俺に近づく気配はない。至ってごく普通の生徒なのだ。

 全ては彼女の持つ、類い稀な型の血液のせいかもしれないとの考えに至った。
 今では他の生徒と分け隔てなく接している。もちろん、なるべく距離を取るようにはしているが。

「違うんです!きっと、私の体に問題があるんじゃ、ないんです……」
 朝霧ユイは掛けてやった毛布を握り締めて、ポツリポツリと話し始めた。
「毎年、この時期になると、こういう事があるんです。急に体に力が入らなくなって……声も……出せなくなるんです。まるで体から血を奪われて行くみたいに!」

 俺は〝血を奪われる〟のところで硬直した。
 ふいに目の前の芳しい血の香りに目が眩む。どうしてくれる?必死に抑えているというのに。余計な事を言ってくれるな。

「まるで血を奪われた事があるような言い方だね。それは低血糖、低血圧の症状だよ、おかしな事を言っちゃいけない」
「……私は、血を大事にしなきゃならないんです」

 またもドキリとする事を……どういう意味だ?

「新堂先生、知らなかったですか?私の血液型」
「確か、とても珍しい型だったね」そんな事は当然知っている。全校生徒の情報は余さず。輸血用の血液が確保できないから、という事か。
「まさか、誰かが君の血を狙っているとでも言うのかな?」
 面白いから話に乗ってやろうじゃないか。このくらいの余裕は俺にだってある。

「……そうなのかもしれません」
 驚いた事に彼女は否定しなかった。おいおい!俺は狙ってないからな?今は。

「不審者でも君の周りにいるとか?それなら警察に相談した方がいい」
「違うんです!」
 血圧が戻り始めたのか、彼女が大きな声を出した。
「朝霧さん?」
「……ごめんなさい、何でもありません。もう大丈夫です」

 それきり朝霧ユイは口を閉ざした。

 彼女の既往歴に気になる点はない。現時点で疑わしい病の徴候もない。
 この時期に決まって体調が悪くなり、誰かに狙われているなど、どちらも精神的な問題だろう。思春期の女子には良くある話だ。特に神経質で思い込みの激しい性格ならば。

 この時はまだ、何の疑問も持ってはいなかった。

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