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48 覚悟の時(1)
しおりを挟む俺達は病院を抜け出し、一時、自宅に戻った。
月明かりにぼんやり浮かぶ白い壁。明かりを灯していない室内は青白く、どこか夢見心地なユイの目には差し詰め、海の底のようにでも映っているだろうか。
抱きかかえたユイを寝室に運び、ベッドにそっと横たえる。
「気分が悪くなったらすぐに言うんだぞ」
椅子を引き寄せてベッドの側に座ると、ユイが俺の方に手を伸ばした。
すぐにその手を握ってやる。
「そろそろ、覚悟を決めた方が良さそうだ」
薄闇に目が慣れて俺が微笑むのが見えたのか、勝気な瞳が向けられる。
「新堂先生が、でしょ?」私の覚悟は当の昔にできている、と続ける。
「俺の気持ちの問題で、タイミングを逃したくないと思ってね」
「まだ、迷ってるのね……」
俺の躊躇いを断ち切るように、握られた手に力が込められる。
「先生の今の本当の気持ち、聞かせて?」
「覚えてるか?前に、ユイがユイらしくいられる生き方について、話したのを」
「覚えてる。私はとっくに答え、出てたけど」
「いつまでも共に生きたいという想いは、俺だって同じだ。ただ、……」
ああ、ダメだ。新堂和矢!これではまた袋小路だぞ?
俺は一呼吸置いて、話題を変えた。
「ロシアでヴァンパイアにケガを負わされた時の事は、覚えてるな?」
僅かに肩を震わせた後、ユイははっきりと答えた。
「……もちろんよ。それが?」
「転生するためには、あれ以上の痛みに耐える必要がある」
この言葉にユイが明らかに動揺している。そんな中、俺は話を続ける。
「大量の血を吸い取られても、死なずにいる事。毒が体内を巡る激痛に耐え抜く事。この激痛は、肉体を変化させる過程で発生する。それが二、三日かけて完了し心臓が止まる。そして転生する」
ユイは息を潜めて耳を傾けている。
「ユイ、ちゃんと呼吸して」
「あぁ……はい!」
「怖気づいたんだろ。無理もない。無理にする必要はないんだ。考え直し……」
「いいえ!続けて。聞きたいの、お願い!」こんな事でやめたら、キハラに何て説明するの?死んでも合わせる顔がない、とユイが呟く。
全く強がりめ。
俺は数分程無言の診察をした後、する必要のない呼吸を整えてから口を開いた。
「タイミングとしては今だと思う。あまり心機能が落ちると、毒が体内に運ばれる力も弱まってしまう。その分苦しむ事になるし、場合によっては失敗する」
「私的には、死ぬ直前、くらいに思ってたけど。いろいろとあるのね」
「俺が躊躇っているのは、ユイにあの痛みを味わわせなくてはならない事だ。させたくない。できる限り、軽減してやりたい。そう考えてる」
「先生……。ありがとう、嬉しい。そういう事を心配してくれてたのね」
「一つ思いついた事がある。この方法は俺にとっても過酷なやり方だ。全く意味がないかもしれないし、逆効果かもしれない」
「大丈夫、言ってみて」
迷っている俺を、安心させようとでもするように促される。
「痛みを軽減する方法はいくつかある。強力な鎮痛剤を使う方法だ。ただ肉体の痛みは麻痺するだろうが、精神的な苦痛は消えないかもしれない。逆に苦しむ事になりそうだ」
見る見るユイの顔が歪んで行く。
「ううっ……。ほ、他には……?」
「究極の快楽の中では、人は時に痛みを感じない事がある。快楽と痛みを混同させる。つまり脳を欺く方法だ」
首を傾げたユイが、控え目に口を開く。「良く分かんないけど……それってお酒に酔うみたいな事?」
「それに近いかな」
ふいに、ユイが握っていた手を離した。
「ずるいよ、先生……」
「何だって?」心底不安になる。それくらい彼女の表情は悲しげだった。
「私がずっと欲しかったもの、一度にくれるってワケね」
たまたま、そうなってしまっただけだ。欲しかったものが手に入るのに、なぜずるいなどと?疑問符が俺の頭を飛び交う。
だが今は、問いただしている時間はない。俺は念押しのため付け加えた。
「禁欲生活の末の快楽は半端じゃない。何倍にも感じられるはずだ。だがその性的興奮に、今のユイの心臓が耐えられるかが不安だ」
ユイが無言で俺を見つめている。何を考えているのか全く分からず、さらに不安が募って行く。
「ユイ?言いたい事はちゃんと口にして欲しい」
「……うん。先生、……もしかしてだけど、食事、抜いてる?」
どうやら俺が数日間、食事を摂っていない事に気づかれてしまったようだ。
その通り。ユイの血を飲むのは俺にとって禁断の行為だ。自分を追い込んで極限の飢餓状態になれば、躊躇う余裕もなく目の前の獲物に手を掛けざるを得ない。
「気づいてしまったか。……こんな事をして、ユイを逆に傷つけるかもしれない」
「先生……。どうしてそんなに自分を苦しめるの?もっと他にやり方が……!」
「ユイはもっと苦しむんだぞ?俺だって相応の責苦を担うべきさ」
「あなたって、本っ当に律儀すぎるよ……?」
「ユイ。もう後戻りはできない。極力手は尽くす。だが、耐えて貰うしかない」
「もちろんよ。先生がこんなに辛い思いをしてるんだもの。早く解放してあげなきゃ」
ここまで来たら、もう前に進むしかない。
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