時世時節~ときよじせつ~

氷室ユリ

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50 決行

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 俺達は秘かに病院に戻った。車は使わず足で往復したため、誰にも気づかれてはいないはずだ。
 時刻は深夜三時過ぎ。心地良い風が吹き抜けた。

「それじゃ、しばしお休みユイ」
 ユイをベッドに寝かせると、再び手際良くモニターの配線類を装着する。
「薬無しでも眠れそうよ、今なら」
 珍しく眠気を感じているようだ。その表情には、かなり疲労の色が見える。

「今日じゃなかったらそうできたんだが、残念だな」
 軽く言葉を交わしてから、彼女の腕に太い注射針を打ち込んだ。
「ううっ!……やるならやるって一言言ってよぉ。容赦ないわね、相変わらず!」
「済まんね。また明日。愛してるよ、ユイ」注射を終え、詫びも兼ねてキスをする。
「……んっ。また明日、先生。私も、愛して、る、わ……」

 髪を優しく撫でながら、次第に浅くなって行く呼吸を見届ける。
 やがてモニターの警告ランプが点灯した。俺は瞬時に病室を抜け、院内の仮眠室へと移動した。

 程なく音を聞きつけて、ナースが部屋にやってきた模様。
〝ユイさん、どうしましたか?〟
 当然、呼びかけにユイが反応する事はない。
〝大変だわ……。新堂先生を呼んで!誰か!〟ナースコールを連打して叫んでいる。

 仮眠室にいた俺は、携帯の呼び出しを受けて動き出す。

『仮眠中に済みません、ユイさんが急変しました!早く来てください!』
「何ですって?すぐに行きます」慌てた雰囲気を出すべく、白衣を羽織りながら廊下を走ってみる。
「夕方までは落ち着いていたんだが……!」こんなセリフを口にしたり。

 病室に着くと、彼女の唇はすでに紫がかっている。

「酸素が足りていなかったのか?これはマズイぞ!……もう手遅れかもしれない」
「先生!ご指示を!」ナースが泣きそうになりながら指示を仰いでくる。
 差し障りのない薬剤を指示して取りに行かせた時、別のナースが気を利かせて除細動機を運んできた。
「彼女にはそれは使えない。心臓が弱りすぎている」首を横に振って言う。
「ああ、先生!ではどうしたら!」

 誰もが必死で、俺の新妻を救おうとしている。点滴を追加したりの処置を一頻り施すも、やがてモニターは心停止を示す。

 予定通りだ。

「ユイ!ああ……なんて事だ。だが、今まで良く頑張った。ユイ……!」
 悔しげに呟いた後、医師としての勤めを果たす。「午前四時ジャスト。死亡確認」

 いつの間にか室内には、その日当直だったナースと医師達が集まっていた。
 その場の誰もが、落胆の表情で俯いている。そんな彼等の心の声が手に取るように聞こえる。誰一人、この一連の出来事を疑っている者はいない。

「新堂先生、ユイさんのご家族に連絡を入れます。連絡先を……」
 ナースの一人が申し出るが、俺は力なく立ち上がり答える。
「いえ。私がやりますので。皆さんに看取られて、彼女も幸せだったでしょう。ありがとうございました」
 その場で深々と頭を下げる俺に、医師達は口々に慰めの言葉をかけ去って行く。

 手伝うと申し出るナースを追いやるのには苦労した。
「どうか、二人にして貰えませんか、お願いします!」

 ようやく全員を部屋から退室させ終え、無意識にため息が漏れた。ユイに会って以来、こんな必要のないため息が良く出る。
「誰も見てない所でまで、こんな人間の芝居なんてな!」自分でも笑える行為だと思いつつ、ため息はまたも口から漏れ出た。

 ベッドに横たわる青ざめたユイを見下ろす。その顔には何の感情も表れていない。
 携帯を取り出すと、すぐにイタリアへ国際電話をかけた。

「向こうは夜の九時頃か……」時計を見ながら呟く。「あ、もしもし?」
 ミサコはすぐに出た。
『新堂先生?こんばんは!珍しいのね、先生からお電話くださるなんて。何かあった?』
 いつもと変わりない朗らかな声に、思わず言い出すのを躊躇ってしまう。
「ミサコ……いや、お母さん。大変、申し上げにくいのですが……ユイが、」
『先生?ユイがどうかした?』

 演技ではなく、実際に言い出せなかったのだ。
 ヴァンパイアは涙を流す事はない。ここで涙声にでもなれれば話は早かったのだが。

 意を決して口を開く。「ユイがたった今、亡くなりました。私がついていながら、何も力になれず……申し訳ありません」
 回線が切れたかと思う程の沈黙になる。

「あの、聞こえ、ましたか?」二度言う気にはなれない。どうか理解してくれ。
『新堂先生。それは本当の話なの?またあの子が変な冗談を言ってるんじゃ?』だってついこの間の結婚式で、あんなに元気だったじゃない!とミサコは続ける。
「本当です。私も、何かの冗談であって欲しいのですが」心からそう思う。俺はきっぱり答えた。

 ここで返ってきたミサコの言葉は、意外なくらいに冷静だった。

『今日の便はもうないの。明日一番で行くわ。着くのは早くても明後日の昼前よ。新堂先生、それまで娘の事、お願いできるかしら』
「もちろんです。お待ちしております」これだけ言って電話を切った。

 力なく丸椅子に腰を降ろす。こんな疲労感は初めてだ。ここまでの遣る瀬無さは!
 仮死状態のユイを前に、ただ呆然とするのだった。


 朝が来ても太陽は顔を出さなかった。

「新堂先生、後は私達がやりますから、少し休まれては?」
 ナースがユイの身の回りの片付けなどを申し出た。
「いや。大丈夫だ。昼前には部屋を空けるよ」
「そんな!病院に気遣いはいりませんよ。無理なさらないで」看護部長まで割って入る。

 俺はお得意の魅惑の微笑みで、彼女達の心を鷲掴みにする。
「早く妻と、二人になりたいんです」
 新妻に先立たれた憐れな夫。気丈に振舞うそんな男を前に、どう接するのが正しいのかなど誰が分かろうか。俺の要求が通らない訳がないのだ。

 こうして邪魔が一切入る事無く、ユイを無事に家に連れ帰る事に成功した。


 昼過ぎ、自宅にてユイが目を覚ます。

「起きたか。万事上手く行ったよ。体調は問題ないか?」
 顔を覗き込んで様子を確認する。
「新堂先生……。頭がぼんやりする。体が、何だか痺れてる感じ。ねえ私、大丈夫?」
 目を閉じて耳を澄ます。ユイは話すのをやめて静かになった。

「よし。大丈夫、全ては血流が滞っているせいだ。少しすれば戻る。急に起き上がるなよ?横になってるんだ」診断の結果を優しく諭すように伝える。
「はい。ああ……、もう生きた心地しないわ……って、死んだのか、私」

 それについては、あまりコメントしたくない。身勝手な俺を許してくれ……。
「……ミサコさんは、予定通り明日の昼前には着く。空港まで迎えに行くから、その前にまた仮死状態にするよ」
「うん、分かった。お母さんが来るのに、会えないんだね、私」
 寂しそうに言うユイに胸を打たれた。
「済まない……」
「イヤだ!なんで先生が謝るのよ?」

 自分と巡り逢わなければこんな事にはなっていない。ユイとその周りの人間をこんなにも振り回して、自分は一体何なのだろう?

「これは私達二人の未来のための行為よ?あなた一人のじゃないんだからね?」
「ああ、分かってるよ」
 彼女を安心させるべく、穏やかな笑みを浮かべる。
「さて。今晩は人間として最後の夜になる。心残りのないように過ごそう」全てを吹っ切るように立ち上がる。「手始めに何をしようか?」
「先生のピアノが聞きたい。最近聞いてないもの。何か弾いて?」
「喜んで。一晩中でも弾いてやろう」
 
 俺との最後の夜は、ピアノコンサートとなった。
 この晩、ユイは眠らなかった。どうせこれから嫌でも眠らなければならないのだ。

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