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31.健さんとの邂逅

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謙人けんとさん、おかえりなさい」

 戻るなり奈々子ななこさんが迎えてくれていた。まだこの時間なのに朝早いなぁと思う。

「おはようございます。早いですね」
「ふふ。私達はいつもこのくらいの時間には起きているかな。農家だから朝は早いの」

 奈々子さんは笑いながら、僕におにぎりと麦茶を出してくれる。さすがに小腹が空いていたのでとても助かった。
 ありがたくいただいてから手を合わせる。

「ごちそうさまです」
「どういたしまして。まぁ。でも今日に限っては、春渡しが気になって仕方ないからだけれどね。ねぇ、あなた」

 奈々子さんの視線の先へと僕も顔を向けると、ふすまの向こうからこちらを覗いているけんさんの姿が見えた。

「お。おう。奇遇だなぁ。こんなところであうなんて」
「うちの中だから奇遇でもなんでもないですけけどねー」
「そ、そうだな。ところで謙人」

 おっかなびっくりという感じで話しかけてくる。いつもの強い口調ではなかった。どうしたのだろう。

「デリカットはもうやめたんですか?」
「いや、まぁ……その」

 煮え切らない態度で告げてくる。健さんらしくない。いや、違うな。これはありすと接している時の健さんの態度だ。
 そこに奈々子さんが助け船のように口を挟んできた。

「春渡しが終わっちゃったから、もう四月一日さんでない事にする必要がないからですねー。で、この人は謙人さんに春渡しの事が訊きたいんですよ」
「まぁ、なんだっ。そういう事だ。で、どうなんだ。まぁ、俺はお前とありすを信じているから変な事は無かったと思っているが」

 つまり僕とありすが同衾どうきんしたのか聴きたいのだろう。そうだとは思っていたけれど。
 とりあえず健さんがしてほしいであろう答えは言っておく。

「健さんが心配するような事はありませんでしたよ」
「お、おう。そうかっ。そうだよな。お前は信頼出来る奴だと思っていたよ。うんうん」

 嬉しそうにがはははと笑いながら、僕の背中を叩いてくる。
 少しだけ痛い。
 キスはしたけど、そのことは黙っていよう。
 健さんはそのまま上機嫌で奥の部屋の方へと行ってしまったが、奈々子さんはまだこの場に残って僕の方をじっと見つめてくる。

「ふふ。でも二人はいい関係になれたみたいですね」

 何やら意味深な事を告げてくる。

「いや、別に何もなかったですけど」
「ふふ。そうですか。でも口紅の痕がついてますよ?」
「え!?」

 奈々子さんの言葉に慌てて口をぬぐう。しかしその様子を見て奈々子さんは、すぐに笑みを浮かべていた。

「ごめんなさい。嘘です。あの子はまだ口紅なんてしていませんし。でも、そのくらいの事は合ったかなとは謙人さんの態度で思いました」

 うわ。してやられた。この村の女性陣はどうも僕よりも一枚上手だ。あかねやこずえはもちろん、かなたにもいいようにされていると思う。
 そして恐らくは奈々子さんが一番手強い相手だろう。とても敵わない。

有子ゆうこはずっと謙人さんの事を見ていましたから、またこの村に来てくれるのを楽しみにしていたんです」
「僕の事、覚えていたんですね」
「そりゃあ四月一日わたぬきさんなんて珍しい苗字ですからね。名前まで一緒となったら、ぴんと来ます。謙人さんは私や有子の事は覚えていなそうでしたから言いませんでしたが、その様子ですと思い出したのですよね」

 奈々子さんはくすくすと笑みを浮かべていた。最初にあった時にずいぶん驚いているとは思ったけれど。

「ええ、まぁ」

 曖昧に答える。なんだかとても気恥ずかしかった。

「あの人が一応は春渡しを許したのも、謙人さんの事を覚えていたからですよ。有子がずっと謙人さんの事を想っていたのは知っていましたから」

 言われてみると溺愛している年頃の娘が若い男と夜通し一緒にいる儀式なんて、絶対に反対しそうなものだったが、健さんはなんだかんだいっても、春渡しを無理矢理やめさせるような事はしなかった。
 どこから来たかもわからない旅人の事なんて信用出来る訳が無い。でもそうしなかったのは、僕の事を覚えていてくれたからだ。だから受け入れてくれていたのだろう。
 そして言葉通り信頼してくれていたのだろう。僕はありすに酷い事をしないと。
 だからこそ娘の結婚報告にきた相手のような扱いだったのだろう。
 健さんにとって僕は本当にありすの許嫁のような位置づけだったのかもしれない。

『おーい、謙人。少しこっちにきて俺の相手をしてくれ』

 向こう側から健さんが僕を呼ぶ声がする。
 縁側の方で僕を呼んでいるようだ。

「奈々子さん、すみません。呼ばれているみたいですから」
「ふふ。いってらっしゃい」

 奈々子さんに送られて僕は健さんのいる縁側へと向かう。
 健さんが何やら木の板を取り出していた。

「お。来たか。謙人は少しは指せるか。出来るんだったら俺の相手をしてくれ」

 言いながら僕の前に木の箱を取り出してくる。
 どうやら将棋盤と将棋の駒のようだ。

「いいですけど、平手で指すなら手加減しませんよ」
「なにぃ。言ってくれるな。これでもこの村じゃあ一番の指し手なんだぞ。俺は。じゃあお前の実力を見せてもらおうじゃねえか」

 そうして僕と健さんの戦いは始まった。
 それから少し時間がたって。

「……まけました」

 健さんが深々と頭を下げていた。

「うおおおおっ、なんじゃあこりゃあ……!? なんでこんなことに」

 勝負は僕の圧勝だった。全く相手にならなかった。

「この場面で7七しちしちに指した手が敗着ですね。おかげで楽に攻め込めましたよ」
「お、俺はこの村ではこれでも一番の指し手なんだぞ。なんでこんなことに」

 健さんは信じられないように僕と将棋盤の方へと交互に視線を移していた。

「そりゃあまぁ僕はいちおうアマチュア四段ですからね。奨励会に入ろうか迷った時期もありましたが、まぁ結局今は旅人やってます」

 実は中学生限定の将棋大会で優勝した事もある。優勝者の中からは、何人かプロになるような人が出たことがあるような大会だ。なのでそれなりには強いと思う。
 ただ高校から奨励会に入ってプロになるような人も中にはいるみたいだけれど、残念ながら僕はそこまでは強くない。あとやっぱり地方在住というのは、それだけで大きなハンデだ。

「それ先にいえよっ。ええいっ。なら二枚落ちで勝負だ」
「いいんですか? 二枚で」
「やったらぁぁぁぁぁ!?」

 再び戦いは始まった。ちなみに二枚落ちは将棋の大駒である飛車角を落として戦う勝負だ。
 そしてこの程度のハンデでは全く相手にならないだろう。
 後にはあっという間に僕に駒を奪われて、魂が抜けた健さんの姿が残されていた。
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