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6章 閉じこめられた解
74 転機(後)
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解は部屋のなかを見まわした。そしてすぐに目当てのものを見つけた。
リュックサックだ。
解はリュックサックをいそいで開けた。中につめたものがそのまま入っていた。
家の鍵が入っていた。
解は鍵を手にして、床にしゃがみこんだ。
ゴクリとつばを飲んだ。
それから手に力を入れて鍵を床に打ちつけた。
ガツンッと手ごたえがあった。
解は床を見つめた。心臓がドキドキと鳴った。
鍵のそばに青い破片が散った。
そして床は欠けた。
金属の鍵よりも床、つまりこの大峡谷を形成する地質のほうがやわらかいのだ。
(ここに穴を掘ることができるんだ。)
その考えにたどりついたとき、解は呆然とした。
そんなことがあるだろうか、というおどろきで身体も頭も空っぽになったような気分だった。そしてそのおどろきは、まるで深い海の底にどんどん沈んでいくために視界を失いはじめた魚のような、暗く濁りかけていた解の目をさました。
目だけではなかった。
解の手足の感覚がもどりはじめた。肌が空気を感じた。
そのとき窓のすきまから風が差しこんだ。
もうすぐ夏になる季節にしては冷たさを含んだキリっとした風だ。
解の肌はその風を感じて小さくふるえた。
(やった。)という気持ちと、(やれる。)という気持ちと、(やるんだ。)という気持ちが同時にわきおこった。
解は鐘の音を合図にすることにした。
鐘の音がいつ鳴るか、何度も数えたのでよく知っている。
それだけが解にできることだったからだ。
鐘の音は一日に十度鳴る。
朝いちばんに五つ鳴る。
それが最初の鐘で、そのあと二度目に鳴るときは六つ、三度目は七つ、四度目は八つと一つずつ増えていき、太陽がコバルトブルーの断崖の向こうにかくれるころに十五くり返して鳴る。
それが一日のうち最後の鐘だ。
この間にフード付きの上衣を着て青銅のエンブレムをつけた男が交替で解の部屋へ食事を運んでくる。
回鳴ったあとに朝食、十回鳴ったあとに昼食、十四回鳴ったあとに夕食だ。
解が使いおえた食器は、男たちがその次の食事を運んでくるときに下げられた。
朝食の食器なら昼食のとき、夕食の食器ならその翌日の朝食のときだ。
大峡谷の住人はだれも解のいる部屋に近づかないが、それでも部屋から変な音が聞こえたら不審に思う者がいるかもしれない。
だけどここには会堂の鐘がある。
床を傷つける物音を、部屋全体がびりびりと振動するほど大音響の鐘の音が、かき消してくれる。
会堂の鐘が鳴るときだけ、解は床を掘ることに決めた。
解は部屋のすみっこに移動した。
布で仕切った箇所へ入るとその布を元へもどした。トイレだ。
いままで食事を運ぶ男はだれも、一度も、このなかを確かめたことがない。
解は布のすぐそばにしゃがみこんだ。
緊張と期待でドキドキした。
(もうすぐはじまる。)と思った。
やがて実際にはじまった。
鐘が鳴り響いた。
狭い部屋の空気がふるえるほど大きな音が。
解は鍵を仕切りの布近くの床へ打ちつけた。
ガツンッと床が欠けた。
(一回、二回、三回。)
解は鐘が鳴る音の回数を数えた。
数えながらいそいで手を動かして鍵を床へ何度も打ちつけた。
ガツンッ、ガツンッと床が欠けた。
コバルトブルーの破片が舞った。
床にくぼみが生まれた。
(七回、八回――。)
ガツンッ、ガツンッ、ガツンッ。
ひときわ強く鍵が床へ打ちこまれ、小石くらいの欠片がボロッとはがれた。
(――九回、十回――十一回!)
解は手を止めた。
鐘の音が止んだ。
解は床から掘ったコバルトブルーの破片のうち、いちばん大きなものを手にして顔を近づけ、じっと見つめた。よーく見ると、破片には小さな孔がたくさんあった。
スポンジみたいだ、と解は思った。
そしてスポンジ以外のべつのものにも似ている、と思った。
解はリュックサックから、さらにべつのものを取りだした。
ここで役に立つなんて、ぜんぜん、まったく、これっぽっちも期待していなかったものだ。一冊の本。家の本棚から持ちだして、電車のなかで読むつもりだった本。
「かたちの強さ」というタイトルの本だ。
持ちだしたことを解のママは気づいていないはずだ。
五徳ナイフとおなじで本はパパが置いていったものなのだ。
解は電車のなかで少しだけその本を読んでいた。
いそいでページをめくり、おぼえのある写真を見つけた。
そのページには三枚の画像が載っていた。
一枚目の画像は写真だ。
人間のふとももの骨を拡大した写真。
骨の断面にはたくさんのこまかい隙間があった。隙間、小さな孔。
解が手にした青い破片にたくさんある小さな孔に、とてもよく似ている。
二枚目の画像はその骨をイラストで図式化した絵だ。
絵のそばに説明文がある。
「骨のなかには、骨が折れにくいように骨梁という支柱が張りめぐらしてあり、お互いに補強しあって強度を増しています。」
そしてイラストのなかで赤や黄色や青で示してある、
骨梁の名称の説明。専門的なむずかしい言葉だ。
大転子骨梁、主圧縮骨梁、副圧縮骨梁、主引張骨梁、副引張骨梁、アダムス弓。
三枚目の画像はカルマン・クレーンという説明のついた白黒のイラストだ。
これは機械のクレーンを最適のかたちにするために、スイス人のカルマンという人が考えたものだ。
三枚目の画像にも説明文があった。
「カルマン教授が考えたクレーンの最適なかたちは、偶然にも人間のふとももの骨とよく似ていました。
特に似ているのは――」
リュックサックだ。
解はリュックサックをいそいで開けた。中につめたものがそのまま入っていた。
家の鍵が入っていた。
解は鍵を手にして、床にしゃがみこんだ。
ゴクリとつばを飲んだ。
それから手に力を入れて鍵を床に打ちつけた。
ガツンッと手ごたえがあった。
解は床を見つめた。心臓がドキドキと鳴った。
鍵のそばに青い破片が散った。
そして床は欠けた。
金属の鍵よりも床、つまりこの大峡谷を形成する地質のほうがやわらかいのだ。
(ここに穴を掘ることができるんだ。)
その考えにたどりついたとき、解は呆然とした。
そんなことがあるだろうか、というおどろきで身体も頭も空っぽになったような気分だった。そしてそのおどろきは、まるで深い海の底にどんどん沈んでいくために視界を失いはじめた魚のような、暗く濁りかけていた解の目をさました。
目だけではなかった。
解の手足の感覚がもどりはじめた。肌が空気を感じた。
そのとき窓のすきまから風が差しこんだ。
もうすぐ夏になる季節にしては冷たさを含んだキリっとした風だ。
解の肌はその風を感じて小さくふるえた。
(やった。)という気持ちと、(やれる。)という気持ちと、(やるんだ。)という気持ちが同時にわきおこった。
解は鐘の音を合図にすることにした。
鐘の音がいつ鳴るか、何度も数えたのでよく知っている。
それだけが解にできることだったからだ。
鐘の音は一日に十度鳴る。
朝いちばんに五つ鳴る。
それが最初の鐘で、そのあと二度目に鳴るときは六つ、三度目は七つ、四度目は八つと一つずつ増えていき、太陽がコバルトブルーの断崖の向こうにかくれるころに十五くり返して鳴る。
それが一日のうち最後の鐘だ。
この間にフード付きの上衣を着て青銅のエンブレムをつけた男が交替で解の部屋へ食事を運んでくる。
回鳴ったあとに朝食、十回鳴ったあとに昼食、十四回鳴ったあとに夕食だ。
解が使いおえた食器は、男たちがその次の食事を運んでくるときに下げられた。
朝食の食器なら昼食のとき、夕食の食器ならその翌日の朝食のときだ。
大峡谷の住人はだれも解のいる部屋に近づかないが、それでも部屋から変な音が聞こえたら不審に思う者がいるかもしれない。
だけどここには会堂の鐘がある。
床を傷つける物音を、部屋全体がびりびりと振動するほど大音響の鐘の音が、かき消してくれる。
会堂の鐘が鳴るときだけ、解は床を掘ることに決めた。
解は部屋のすみっこに移動した。
布で仕切った箇所へ入るとその布を元へもどした。トイレだ。
いままで食事を運ぶ男はだれも、一度も、このなかを確かめたことがない。
解は布のすぐそばにしゃがみこんだ。
緊張と期待でドキドキした。
(もうすぐはじまる。)と思った。
やがて実際にはじまった。
鐘が鳴り響いた。
狭い部屋の空気がふるえるほど大きな音が。
解は鍵を仕切りの布近くの床へ打ちつけた。
ガツンッと床が欠けた。
(一回、二回、三回。)
解は鐘が鳴る音の回数を数えた。
数えながらいそいで手を動かして鍵を床へ何度も打ちつけた。
ガツンッ、ガツンッと床が欠けた。
コバルトブルーの破片が舞った。
床にくぼみが生まれた。
(七回、八回――。)
ガツンッ、ガツンッ、ガツンッ。
ひときわ強く鍵が床へ打ちこまれ、小石くらいの欠片がボロッとはがれた。
(――九回、十回――十一回!)
解は手を止めた。
鐘の音が止んだ。
解は床から掘ったコバルトブルーの破片のうち、いちばん大きなものを手にして顔を近づけ、じっと見つめた。よーく見ると、破片には小さな孔がたくさんあった。
スポンジみたいだ、と解は思った。
そしてスポンジ以外のべつのものにも似ている、と思った。
解はリュックサックから、さらにべつのものを取りだした。
ここで役に立つなんて、ぜんぜん、まったく、これっぽっちも期待していなかったものだ。一冊の本。家の本棚から持ちだして、電車のなかで読むつもりだった本。
「かたちの強さ」というタイトルの本だ。
持ちだしたことを解のママは気づいていないはずだ。
五徳ナイフとおなじで本はパパが置いていったものなのだ。
解は電車のなかで少しだけその本を読んでいた。
いそいでページをめくり、おぼえのある写真を見つけた。
そのページには三枚の画像が載っていた。
一枚目の画像は写真だ。
人間のふとももの骨を拡大した写真。
骨の断面にはたくさんのこまかい隙間があった。隙間、小さな孔。
解が手にした青い破片にたくさんある小さな孔に、とてもよく似ている。
二枚目の画像はその骨をイラストで図式化した絵だ。
絵のそばに説明文がある。
「骨のなかには、骨が折れにくいように骨梁という支柱が張りめぐらしてあり、お互いに補強しあって強度を増しています。」
そしてイラストのなかで赤や黄色や青で示してある、
骨梁の名称の説明。専門的なむずかしい言葉だ。
大転子骨梁、主圧縮骨梁、副圧縮骨梁、主引張骨梁、副引張骨梁、アダムス弓。
三枚目の画像はカルマン・クレーンという説明のついた白黒のイラストだ。
これは機械のクレーンを最適のかたちにするために、スイス人のカルマンという人が考えたものだ。
三枚目の画像にも説明文があった。
「カルマン教授が考えたクレーンの最適なかたちは、偶然にも人間のふとももの骨とよく似ていました。
特に似ているのは――」
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