天流衆国の物語

紙川也

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7章 峡谷の異変

98 決別、そして

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着地したとたんにズンッと足の裏に体重が乗った。
解はよろめき、二歩三歩と後退したあと身体を支えきれずにしりもちをついた。
一瞬だけ、リュックサックや本を探そうとあたりを見まわして、すぐに解は考えなおした。
(あれは、もう要らないんだ。)
無理矢理にそう思うことにした。
本当は泣きそうだった。
それに要らないと思ったとたんに(まだ役に立つのに。)という反対の考えが浮かんだが、解はその考えを無理やりに押しのけた。
そうする必要があると感じたのだ。
実際に役に立つかどうかと、その考えは、べつのものだった。
解に必要なのはリュックサックに守られたような気になって得られた安心感とわかれることだった。

(ぼくは凱風って人と会うんだ、そのためには、あのリュックサックはもう要らないんだ。)
解はそう考えた。
そして、一体これで何度目になるかわからないほど思いうかべた言葉を、もう一度、頭のなかでくり返した。
(凱風って人に会う。ぜったい会うんだ。)

解はタンを青い岩石のうえにおろした。
タンは殻のなかから足を出した。解はたずねた。
「タン、大丈夫か?」
かえってきたのは返事ではなかった。タンは無言だった。
解はタンのオレンジ色の目をのぞきこんだ。
青い岩石の上で少年とタンは無言で見つめあった。
タンは呆然としているように見えた。
しばらくするとオレンジ色の目に光がやどった。タンの目がきょろりと動いた。
落ちついたのかな、と解は思った。
タンが鼻をヒクヒクとさせた。そしてつぶやいた。

「いいにおイ。」
「ん?」

タンはヒクヒクと鼻を動かして断崖のほうへ身体を向けた。
「うまそウ。」
「はあ?」
タンが川の流れとは反対側、つまり断崖に向かってよろけるように足を踏みだした。
「はみがきコのにおイ。」
解はぽかんと口を開けた。
タンが解に礼を言うことを少しだけ期待していたかもしれない、と気づいた。
だとしたらとんだ間抜けだぞ、と解は自分自身にあきれた。
しかしタンは少なくとも本当のことを言っているのが、すぐに解にもわかった。
わずかにペパーミントのにおいがするのだ。
鼻にスーッと抜けるような刺激を感じた。
歯磨き粉とか虫刺されの薬のにおい。
(なんだ、このにおい。)
そして、まさにその瞬間、解はその場所がふつうでないことに気づいた。

暗いのだ。

はじめ解は、断崖が日ざしをさえぎっているためかと思った。
だがそれにしては暗すぎる。
それは暗いというより黒いというほうが正確だった。
解はこの、影というよりずっと濃い色を知っている。

「シェルギの影……。」

「その通りだ。よく理解しているようだ。」
だれかの声が解のひとりごとにこたえた。
もっとも、どちらかというとその声もひとりごとのように聞こえる。
解はハッとした。
「おや、ずいぶん小さな子だな。えらく強い力で引くものだから、てっきり四使のだれかだと思ったのだが。だが引く力と身体の大きさに相関関係はない、ふむ。」
だれかがシェルギの影からゆっくりと出てくる。
解はつぶやいた。
「引く?」
「なんだ、君はたったいま自分がやったことに気づかんのかね。私を引くとは大したものだと思ったが、気づいていないとは。つまり引く力とは意識の強さではないということだ、ふむふむ。」
やはりひとりごとのような声だった。そしておだやかな声だった。
解は声のするほうをじっと見つめた。
スーッと鼻に抜けるにおいがしだいに強くなった。
解の首の角度がゆっくりと上がった。解の頭の少し上ではなくて、うんと上を向いた。

声のぬしがシェルギの影からゆっくりと姿をあらわした。

その人は花連たちとおなじものを身につけていた。
筒袖の白い着物と袴だ。つまりこの人は四使なんだ、と解は思った。
それにしても、おなじ衣服であっても全然そう見えなかった。
なぜなら大きさがまったくちがうからだ。
解は顎を持ちあげるようにしてその人を見あげた。
あの巨大な雑夙ボラスコよりは小さいぞ、とあたりをつけた。
とはいえ、ふつうの大人の倍ほどもある。
(四メートルくらい。ウソだろ。)
解はその人の顔を見た。
頭は丸く毛がない。
その人の肌は、ふつうの人間の肌とはちがって見えた。
まるで牡蠣の貝殻のようだった。
あちこちがでこぼこして色もわずかに灰色がかり、ところどころ黒ずんで見えた。
二つの耳は先端がとがっている。
鼻は鉤鼻。口は大きい。
解はぽかんとしてその人の目元をながめた。その人は眼鏡をかけていたのだ。
ずいぶん大きな眼鏡だな、と解は思った。
目は琥珀色、カク・シとおなじ色だ、そう気づいて解は一瞬だけドキッとした。
が、すぐに、
(でもカク・シよりずっとおだやかな目だ。)
と思った。
その人が名乗るよりも先に、解はその人がだれなのかに気づいた。
解はその人の名前を口にした。
「凱風――先生、ですか?」

「そう、お察しの通り。私の名は凱風という。」

その人は解を見た。
琥珀色の目が輝いた。
凱風はおもしろいものを見つけた子どもみたいな表情になった。
解は面食らった。この人の年齢がまったくわからないぞ、と思った。
「ふむ、少し前からずっと私を引いていたのは君か。名前は?」
「解です。小松解といいます。」
解はいちど口を閉じ、それからまた開いた。
(なにか言わなきゃ。)と思った。だけどすぐには言葉が出てこなかった。
解は自分の足元へ視線を落として、それからもう一度、この大きな四使を見あげた。
凱風がほほえんだ。
いたずらっぽくて、同時にあたたかい笑顔だった。
解は自分の身体がしゃんとしていくのを感じた。
元気のでる魔法の水をそそがれたような気分だ。

(会えた、会えたんだ。ようやく会えた――。)
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