どろあらしの頼みごと

スズキマキ

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いきなり始まった(後)

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 そのあとまた聞こえた叫び声は、さっきと同じで、こうれんへの返事ではないように感じられた。
 こうれんはふと、どろあらしとこうれんの間に、会話らしい会話なんてあっただろうかと考えた。どろあらしは一方的に話をするだけ、こうれんに勝手に命令するか、見えないなにかに向かって叫び声をあげるか、とにかくこうれんの言葉に向けてどろあらしが返事らしい返事をしたことが、ほぼない。
「もういい。」
 こうれんはつぶやいた。頭のなかでぷつんとなにかの糸が切れたみたいな感覚がめばえた。なんの糸だろう、それはもしかして、こうれんが1人で勝手にどろあらしと自分をつなげていたつもりの糸かもしれなかった。もしつながりと言うものが、これまでにあったとしたら、の話だが。
(とにかく出口を探そう。)
 と、こうれんは考えた。どろあらしのことは放っておこう、なにを聞いても返ってくるのは、見当ちがいな言葉ばかりなのだから。
「そうだ、これだ!」
 どろあらしの声がまたひびいた。変な音がした。べちゃっ、という、ぬれた音だ。そのあと、べちゃべちゃと液体のはねる音。いや、液体をなにかでかきまわしている音かもしれない。こうれんはそのべちゃべちゃという音が、どろあらしの声、ほとんどおなじ方向から聞こえていることに気づいた。
(どろあらしは何しているんだ?)
 不意にこうれんは、まっ暗やみの中でどろあらしが自分よりもずっと視界が効いているように感じた。どろあらしはこうれんのように手さぐりで動いているだろうか。あたりの様子がわからずに用心深くなっているだろうか。ちがう、とこうれんは思った。
(そうだ、『もう一回』っていった。)
 どろあらしはここへ来たことがあるのかもしれない、こうれんはそのことに思い至った。急にこうれんの胃のあたりに、なにかが乗せられたみたいな、あるいは肝心なことを見落としていたことに気がついたような、落ちつかない気分になった。こうれんは頭の中に浮かんだ考えを口にしてみた。思いがけない位、かすれた、か細い声が出た。
「どろあらし、見えているの?」
 その声にかぶさるようにして、こうれんの顔にぬれたなにかがぶつかってきた。
「うわあっ。」
 こうれんは悲鳴をあげた。あわてて体を引こうとしたが、髪の毛を引っぱられて、頭と顔の位置が変えられなかった。どろあらしの手だ。一方の手がこうれんの髪をつかみ、もう1本の手がべちゃべちゃとこうれんの顔になにかをぬりたくった。
 こうれんの肌という肌全部がざわっとした。
 気持ち悪いなんてものじゃなかった。いやなにおいがこうれんの鼻の穴から体の中に入ってきた。くさったようなにおい。吐き気をもよおすにおい。でも、かいだことのあるにおい。
 ぬかるみの匂い。雨が降ったあとのにおい。この集落へ来てから何度もかいだにおい。
 どろあらしのにおい。
 泥、とこうれんは思った。
 どろあらしの顔にくっついているやつ。

 変化が急激におとずれた。

 こうれんは自分のすぐ目の前にどろあらしがいることに気づいた。熱心な目をして。こうれんを見て、熱心な手つきでこうれんの顔にふれている。こうれんもどろあらしも地面に腰をおろしている。地面はおおむね乾いている。そして、固い。でもどろあらしの近くだけぬれている。
 が聞こえた。
『それは後戻りに属する。やめておくことだ、そろそろ先へ進むべきだ。』
「うるさい!」
 どろあらしが叫んだ。こうれんはどろあらしが制止する声に返事をしたのだと、すぐに気づいた。どろあらしがこれまでいきなり叫んできたのは、この制止の声に応じていたのだと、こうれんは気づいた。
 これまで感じなかったいろいろなことがが急にドッとこうれんの中へ入りこんできた。
 こうれんは片手をつき出した。熊手がどろあらしの鎖骨に当たった。グッと押すと、どろあらしの上体がのけぞって手が離れた。こうれんは片手で顔をぬぐった。泥が手のひらにくっついたが、それだけ、つまり、泥が顔から手へ広がっただけだった。顔についた泥は落ちないままだ。
 こうれんは立ちあがった。いまや泥の匂いはどろあらしだけではなく自分からもぷんぷんしている。いやでいやで仕方ない。だけど一方で、顔も手もぬれているために、空気がわずかに流れていることにも気がついた。
 こうれんは早足で、空気の流れの下の方へ向かって歩きだした。
「交代だ!」
 と、背後でどろあらしの叫ぶ声が聞こえた。
「俺は解放された!」
『どうかな。』
 が聞こえた。こうれんはたずねた。
「あなたはだれですか?」
 男の声、とこうれんは見当をつけた。やけによくひびく声だ。こうれんはあることに気づいた。はこうれんの喉のあたりから聞こえるのだ。まるでこうれんが自分でしゃべっている声を聞いているみたいだった。
「もしかしてぼくはひとりごとを言っているのかな。」
 ためしにそう言ってみた。こうれんには自分の声、つまり11歳の子供の声変わりする前の声と、さっきの声は、はっきりと別のものに聞こえた。そしても、こうれんの考えを後押しするように言った。
『ちがう。きみの声はきみのもの、わたしの声はわたしのものだ。』
 こうれんはたずねた。
「どろあらしとずっと話していたのはあなたですか?」
『ずっとというほどではないが、時々はそうだ。』
 こうれんは足を止めた。どうしよう、と思った。
「あなたはだれですか? あ、これはさっきもきいた。人間? ぼくの近くにいる? どうやったらあなたが見える?」
『待て待て、一度にたくさん聞かれると混乱する。』
 から困ったような気配がした。
『こうしよう、きみが一つ質問する。わたしがそれに答える。わたしが答えたら、きみが次の質問をする。わたしがまた答える。一つずつ、順序よく。どうだろうか。』
 けっこう明るい声だな、と、こうれんは感じた。少なくともどろあらしと話をするよりは、まともなやりとりになっていると思った。
 それにしても、とこうれんは思う。たずねたいこと、知りたいことがすごくたくさんある。わからないことだらけだ。
(いちばん知りたいこと。)
 と、こうれんは考えた。そしてその答えがするりと口をついて出た。
「こうじゃくだいらん、ってなんですか?」
 その次に浮かんだ疑問も、こうれんの口から自然に出た。
「もしかしてあなたが、こうじゃくだいらん?」
『質問と回答を順番に一つずつ、そう提案したのに』
 が言った。苦笑の気配を含んでいる。
『きみはせっかちだぞ。はじめの質問とあとの質問、どちらから答えるのがいいのだろうか。』
 こうれんは迷わず言った。
『あとの質問!」
『そうであるとも言えるし、ちがうともいえる。』
 なんとも煮えきらない答えがかえってきた。
「どういうこと?」
『これから起きる出来事がこうじゃくだいらんだ。出来事のすべてを指し、関わるものすべてを指す。だからわたしがこうじゃくだいらんの一部とも言えるし、決してわたしだけを指す言葉ではない。』
 よどみのない言葉だった。
 こうれんはこの言葉を真剣に聞いた。これまで生きてきたなかで、こんなに一つ一つの言葉を必死でおぼえようとしたのは初めて。まるで金属の板にくぎでひっかいて文字をきざむくらい強固に、その言葉を自分の中にきざもうとした。そして聞きながら同時に、言葉の意味も考えようとした。ところがおぼえるのとちがって考えるほうはさっぱりだめだった。
「よくわかりません。あ、いや、ほんとのこと言うと、全然わからないです。」
『そうだね、どうも初めて聞く人間には、むずかしいようだ。』
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