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渋谷かな

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オリンピック、前夜5

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 彼女は入院した。ただ元気はない。ふさぎ込んだかのように病室のベッドの上から窓越しに遠くを見つめている。触らなければ生きているのか死んでいるのか分からない無気力状態。
「エリ子、大丈夫かい? 元気を出してね。がんばって。」
「がんばって!? お母さんには私の気持ちなんか、分からないのよ!?」
「キャア!?」
 触れればパンパンに膨らんだ風船を突いたように爆発する。彼女の心はバランスを崩し壊れかけていた。母親は何も悪くない。自分の母親として、家族として純粋に娘のことを心配してくれている。彼女も分かっているが、当たることができる相手が母親しかいなかった。

「先生、娘は大丈夫ですか?」
「恐らく、白血病にかかり、東京オリンピックでも金メダルを狙える選手だったから、夢を失って見えなくなってしまったのが、よっぽど精神的ダメージになったのでしょう。」
 母親や医師には彼女の気持ちは理解できない。

「もう誰も信じない。」
 彼女は、どんなに水泳選手として優秀であっても、普通の18才の女の子である。まだ漠然としている東京オリンピックに出れないかもしれないということよりも、水泳選手の先輩後輩たちや、水泳協会の人たちのことを信じていた彼女からすると、裏切られたという気持ちがいっぱいで、今は誰も信じられなかった。
「お母さんも、医者も、先輩も、後輩も、教会の人も、みんなみんな、絶対に信じない!」
 彼女は人間不信を極めていった。何もする気力も無かった。彼女はどんどん孤独を深めていった。2、3日は彼女は病室から出ず、ただ何もせずにベットの上で転がったり、立ったり座ったり、テレビを見て過ごした。

「なに? お嬢ちゃん。」
 4日目だった。彼女の病室に一人の女の子がやってきた。
「お姉ちゃんのバーカ!」
「なっ!?」
 言うだけいうと女の子は去って行った。彼女は不意を突かれて何も言い返すことができなかった。あの女の子はいったい何だったのだろう。そう思っても、今の彼女には、女の子を追いかける気力は無かった。彼女も女の子は病室を間違えたくらいに思い気にしなかった。

「お姉ちゃんのバーカ! 何で病院なんかにいるんだよ!」
 次の日も女の子は彼女の元にやってきた。さすがに彼女も、この女の子は水泳選手の自分のことを知っているんだな、と思った。
「ちょっと待って! お嬢ちゃん!」
 彼女は女の子を呼び止めようとするが、女の子の逃げ足の方が早かった。

「今日こそは捕まえてやるんだ。」
 何事にも無気力で一人ぼっちだと自分のことを思い込んでいた彼女に気力が戻ってきた。

 つづく。
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