闇呼ぶトビラ

橘伊津姫

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闇呼ぶトビラ

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あなたの前には1つのトビラがあります。
それを開けるのも開けないないのも、あなた次第です。

高校生の瑞季さんは、物心ついた頃から同じ夢を見ている。
毎日見るわけではなく、1週間から2週間ほどの間を空ける事もあるが、大体週に1~2度のペースで現れる。
それは「トビラの前に立つ自分」の夢だ。
そのトビラも同じものではなく、教室のドアだったり、自宅のリビングのドアだったり、駅のトイレのドアだったりと様々だ。
しかし「トビラの前に立つ」というシチュエーションだけは変わらなかった。
小学生の時は、まだトビラと自分の間にはそれなりの距離があった。
夢を見るごとに、それが近づいてきていると気がついたのは5年生くらいの時だ。
今では自分とトビラまでの距離は5歩ほどにまで縮まっている。
瑞季さんの後ろに光源があり、自分の影になってトビラの表面は暗い。
ほんの数歩踏み出し、手を伸ばせば届く距離にあるそのトビラを「開けてはいけない」と瑞季さんは夢の中で認識している。
でも彼女の心とは裏腹に、体はトビラに向けて進もうとするのだ。
トビラを「開けたい」自分と「開けてはいけない」と制止する自分。
踏み出そうとする足を踏ん張り、伸ばそうとする腕を押さえつける。
思い通りにならない心と体に振り回されて、疲れ切って目が覚める──。
トビラの夢を見て目覚めた日は、朝から全身がぐったりと疲れ切り、汗だくになっているのが常だった。
今はまだいい。
まだ自分で自分を制する事ができる。
でも、もしかしたら。
いつか──しかもそれほど遠くない──日に、自分はあのトビラを開きたいという誘惑に負けてしまうのではないか。
瑞季さんはそれがとても恐ろしいと言う。
夢に現れるあのトビラは、絶対に開けてはいけないものなのだ。
なぜかは分からないが、それだけは分かる。
トビラの向こうには、よくないモノがいる。
それがコチラにやってきてしまったら、自分はこれまでと同じように暮らしていく事は出来なくなるだろう。
漠然とではあるが、瑞季さんの中では確信に近い。
彼女にとって「夢の中のトビラ」は大きなストレスになっていた。
日に日に元気をなくしていく瑞季さんを気遣って、学校の友人が気晴らしに出かけようと誘ってくれた。
約束をした日曜日に駅前で待ち合わせをし、ショッピングやカラオケを楽しんだ。
友人達と他愛のないおしゃべりに花を咲かせているうちに、瑞季さんも夢の事を忘れていった。
可愛らしい雑貨を取り扱っているお店を物色している時、友人の1人が廊下の角にある占いコーナーを発見する。
「ねえねえ、皆で占ってもらおうよ」
という友人の誘いに、全員で占ってもらうことになった。
片思いの相手の事や自分の将来に対する不安などを占い師に相談する友人達。
その全てに対して、当たり障りのない、それでいて誠実な答えを占い師は返していく。
ラストに瑞季さんが占い師の前に座ると、上品な感じのするその女性は彼女の顔を見て目を見開いた。
瑞季さんの差し出した右手を取るのも忘れ、じっと彼女を見つめる。
やがて深いため息をつき、なんとも言えない表情を浮かべた。
見ようによっては、瑞季さんを哀れんでいるようにも思える。
「あなた……そのトビラは絶対に開けてはダメよ。それを開けてしまったら、あなたは引き返せなくなってしまう。逃げなさい。それに捕まってしまわないように」
それだけを伝えると、女性は頭を振って「ごめんなさい。これ以上は何も見えないわ。真っ暗なの」と小さく呟いた。
瑞季さん自身は占い師に何も告げていない。
それなのに相手は「トビラ」のことを言い当てた。
背筋を冷たいものが伝う。
訳が分からないながらも、彼女の顔色を見て何かを感じたのだろう。
「行こう、瑞季」
「気にすることないよ、所詮は占いだって」
と友人達がなぐさめてくれる。
最初に「占ってもらおう」と言い出した友人にいたっては、オロオロしながら何度も謝ってくれた。
「大丈夫、気にしてないから」
と、どうにか笑顔を作って周囲に声をかけたが……果たして自分はちゃんと笑えていたのだろうか?
駅前で皆と別れ、せっかく気晴らしに誘ってくれた友人達に悪いことをしたな、と瑞季さんは落ち込んでしまった。
それにしても……「真っ暗なの」とはどういう意味なのだろう?
瑞季さんは占い師の言葉をずっと気にしていた。

「それで終わりですか?」
私はアイスコーヒーのグラスに手を伸ばしながら、目の前に座る女性に声をかけた。
「はい、話はこれで終わりです」
女性はせわしなくテーブルの上に置いた紙ナプキンを弄りながら、低い声で答える。
「その後も、瑞季さんはトビラの夢を見ていたんでしょうか?」
「そうですね……。見ていたのではないかと思います。姉は私以外の誰にも夢の話をしていませんでしたから、それ以上の事は分かりませんが」
氷が溶け出し、薄くなってしまったアイスコーヒーを飲み干して私は視線を宙に彷徨わせた。
「今もお姉さんはお元気なんですか?」
内心では(これはハズレだ)と思いながら、暗い空気をまとう彼女に問いを投げかけた。
友人の伝手で「奇妙な体験談を持っている人物がいる」と紹介された女性に話を聞こうと、わざわざ出向いたのだが──私が求めていた「怖い話」とはどうも毛色が違うようだ。
「姉は……どうなんでしょう。元気、なんですかね? その占い師の話を聞いた半月後に、大型トラックの前に飛び込んで死んでしまいましたから」
「は!?」
思わず素っ頓狂な声が出る。
「姉は占い師に会った数日後、『夢のトビラを開けてしまった』と私に話してきました。どうしても誘惑に勝てなかったと。それからどんな事が起こるのか、とても怯えていました。でも、何も起こらなかったんです。だから私も姉も安心していました。所詮は夢の中の話なんだと。でも、本当は違ったんです。徐々に姉は人が変わったようになっていきました。些細な事で激高したり、いきなり泣き出したり、何を話しかけても無表情で反応しなくなったり。これまでの姉からは考えられないような行動をとるようにもなっていきました。私には姉が、だんだんと違う人間になっていくように思えて。ふとした時に見る姉の顔は、知らない誰かの顔に見えました」
堰を切ったように、女性は話し続ける。
「両親は不思議に思っていないようでした。私だけが姉の変化に気がついていたんです。姉の変化は、きっと夢の中の『トビラ』を開けてしまったからだと。このまま姉が知らない誰かになってしまう、そう思いましたが誰も信用してくれませんでした。そして母と私と一緒に買い物に出かけた先で……姉は車に飛び込んだんです。本当に突然で、私も母も姉を止める事が出来ませんでした」
そこまで話して、彼女はゼンマイが切れてしまったように黙り込んだ。
指だけは別の生き物のように、テーブルの上で動き回っている。
私は無理矢理に唾液を喉に流し込むと、かすれた声を絞り出した。
「じゃあ、お姉さんは自殺……という事になるんですか?」
「そう、ですね。一般的には自殺という形で落ち着いています。誰にも言えない悩みがあって、衝動的に自殺してしまったんだと。両親は姉の死ぬほどの悩みに気がついてやれなかったのかと、自分達を責めています。でも違うんですよ。だって姉はトラックに飛び込む寸前、私の方を見たんです。しっかりと私の目を見て嘲笑ったんです。とても……とても厭な顔で」
彼女は深い深いため息を吐き出した。
「奇跡的に、姉の頭部はきれいなままでした。葬儀の時には、弔問に来て下さった方に最期のお別れをして頂く事も出来ました。でも私は姉に最期の別れを告げる事ができませんでした。だって……棺に横たわっていた姉の顔は……全然知らない人の顔だったんです」
俯きながら話していた女性は、そこで初めて顔を上げ私を見た。
その顔は土気色で、瞬きを忘れたように見開かれた両目は血走っている。
ギュッと収縮した瞳孔が、追い詰められた彼女の精神状態を如実に物語っていた。
何とも言えない後味の悪さを抱えながら、私は言葉少なに女性に礼を述べた。
荷物を持ってテーブルを離れようとする女性に、私は思いついたように最後の質問を投げてみた。
「お姉さんの瑞季さんは、夢のトビラを開けた時に何を見たんでしょうか?」
女性は立ち止まると、肩越しに振り返って答えてくれた。
「トビラの向こうには、姉がいたそうです。自分と同じ顔をした、でも確かに自分ではない『姉』がいたと言っていました」
私は立ち去る女性の背中を見つめながら、彼女が振り返りざまに彼女が見せた厭な嘲笑いを果たして忘れる事が出来るのだろうかと考えていた……。


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