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不良の集い
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ピピピピ、ピピピピ
ジリジリジリジリ ジリジリジリジリ
静かな家の中で無性に頭を掻きむしりたくなるような音が突然響き渡った。それは深い眠りについていた私を現実世界へと連れ戻す、そんな音であった。
私はむっくりと布団から起き上がると、ドンと音のなるものに手を置いた。目覚まし時計は従順にもすぐにその音をとめた。いつの間にか、あたりは薄暗く、窓からは沈んでいく太陽が見えた。空は橙色と雲の灰色で何んともいえない色彩をしていた。
私はそっと枕元に放り投げてあったスマートフォンを持ちあげた。その画面は真っ黒で、私は「ああ」と声を上げた。昨日、電源を切ってから一度も怖くて電源を入れられなかったのだと今更思い出す。
私は、少し迷いはあったが、電源ボタンを長押しした。ぱっと白い画面が付いて、目がチカチカする。パスワードを入れて、いつもと同じホーム画面を見た途端、ブブ、ブブとスマートフォンが振動して、お知らせをしてくれる。
そこには“佐倉”の文字が浮かび上がっていた。私は、そっと不在着信をさかのぼると、“佐倉”からの連絡が10件弱来ていた。私は、そっとスマートフォンを握りしめ、耳に寄せた。
プルルルル プルルルル
不快な音が耳に響き渡り、鼓動が早くなるのがわかった。
「はい」
佐倉の低い音が私の耳に届いた。
「彩夏か、なぜ昨日来なかった、何してた」
重低音がじーんと耳に来て私は思わず顔を顰めた。
「昨日は、すいません」
「すいません?フン。本当に悪いと思っているなら電話じゃなくて店まで来て謝るべきだろう?神永さんが昨日指名で来てくださったのに、お前がいないとわかって即帰っていったぞ」
“神永”というワードを聞いて、私は時間が止まったのかと思った。神永、それは私の元カレだった。3カ月前に別れてから一度だって連絡もしなかったし、お客さんとして来ることだってなくなった。
なのに、なぜ今更。
「そうですか」
私は動揺を悟られまいと感情を押し殺して話した。神永には何度だって助けられてきた。痴漢まがいのお客さんに困っていたらさっと手を差し伸べてくれたし、仕事で順位が落ちた時はいつだって励ましに店に来てくれた。
「今日は、遅れずに出勤しろよ」
佐倉は思ったよりも怒っていなかった。今まで私が無遅刻無欠席だったためだろうか。いや、違うだろう。私は佐倉の裏にある感情に何となく気が付いていた。
「ごめんなさい。今日限りでやめさせてください」
私はさらりとその言葉を吐いた。非常識だとか、辞めるなら一か月前に言えとか、アルバイトだったらそんなことを言われる。勿論この業界だって同じだ。しかし、私は何人もいきなり来なくなった女の子たちを見てきた。一人はあまりのセクハラに怯え、もう一人はお金持ちを捕まえてパパ活で生計を立てるようになり、そしてもう一人は結婚相手を見つけてさらりといなくなった。
私は佐倉の一声を息をひそめて待った。しかし、待てども待てども佐倉からの返答はない。
「あの…」
「彩夏、お前はどうしてやめたいんだ?」
その声に憂いが混じっていて佐倉が多少はショックを受けていることがわかった。
「最近のお前は客からも評判がいいし、売上だって伸びてきたし、辞める理由なんて…」
「それは……」
私は言葉につっかえた。言えないこと、そんなことはいつだっていっぱいあった。喉に引っかかってなかなか音にならない。
「やめる理由なんて、ないだろ?もう少し頑張ってみてもいいんじゃないか?お前のことを待ってくれているお客さんはいっぱいいる。最近は指名だって一日に一回以上は入るようになったし、お金に困っているっていうんだったら給料だってもう少し……」
ガチャ
その時、私の部屋の扉が音を立てて開いた。つーっと光が差し込んできて思わず眩しさに顔がゆがんだ。そこには一つの黒い影が浮かんでいた。すらっとした体系でくびれが強調されていた。私はその光景に息を呑んだ。その一瞬で、片耳から聞こえてくる佐倉の引き留める言葉の数々が、理解不能な言葉へと変わってしまった。
満越はそんな私にかまわずにさっと歩いてきて、スマートフォンを取り上げた。
「どうもー」
陽気な声が部屋に響き渡った。満越は私に見えるようにスピーカーマークを押すと何の躊躇いもなく話し出した。
「あなたが、彩夏の店の店長って人?なら、この際に言っておくけど、彩夏はうちの従業員だからもうあきらめてくれる?」
それは佐倉からしたら理不尽すぎる言葉であった。
「な…なにを?君は誰なんだ?」
混乱していることが伝わるほど佐倉の声は揺れていた。
「はじめましてよね、ムーンライトの満越です。彼女が辞めたいって言っているんだから、そんなに必死になって止めなくてもいいでしょ?だいたいあなたの店は若い子ばっかり雇っているでしょ?だったら今から他の道を探そうとするの人がいてもいいんじゃないの?」
「辞めたいとは、本人ははっきりとは言っていない―――」
「そうねー、あんたには言っていないかもしれないけど、私にははっきりと言ってきてるのよ。なにせ辞めたすぎて私の後をストーカーしてきたぐらいだからね。まあ、店長さんが認めないっていうなら、一度私たちの店に来てごらんなさいよ」
満越は突然そんなことを言い出した。
「は?」
佐倉は驚いたのか、間抜けな声を発した。
「あなたにとって彩夏が重要な人間であることはわかったから、電話越しに話していたって埒が明かないでしょ?それに長電話だって今から営業時間の私とあんたにとっても面倒だし」
佐倉はそんな満越の提案に何も答えなかった。きっと理解が追い付いていないのだろう。
「とりあえず、営業時間が終わったらこっちに顔出しなさいよ。どうせ朝の4時とか5時でしょ?こっちもちょうどそのくらいに終わるから。あと、彩夏に会いたいって来た男もつれて来れるなら連れてきなさい。すべてはっきりさせようじゃないの。じゃあ、そういうことで」
「あ…まて、…まてって……」
満越は言うだけ言って電話を切った。そして、スマートフォンを私に投げ返すとじろりと私を目で捕まえた。
私は縮こまって、満越の方を恐る恐る見た。
「あんたには、意志ってものがないの?」
その言葉は重くて到底太刀打ちできるものではなかった。
「違うわね。辞めたい、その意思を強く表現する術を持ち合わせていないのね。だったら、あんたはどこで何しても同じようなことをするしかないんじゃないの。また夜道をふらふらと歩いて私みたいな人のストーカーして」
「誰もが、満越さんと同じだと思わないでください。誰だって強くなりたいと思っていますよ。でも、本音なんて弱い労働者からしたら吐けないし、ぐっとこらえるしかないんです」
「つまりは、あんたはあんたを傷つけているってことね。選んだ職場もそうだし、あんた自身だってそう自分が感じていることを発する勇気がないんでしょ」
満越は私から背を向けた。そしてつぶやいたのである。「つまんな」って。
私は、私の部屋から出ていった満越の後ろ姿が目に焼き付いて離れなかった。悔しかった。誰にもわかるはずのないと卑屈になっていた感情の裏を暴かれた気がして、無性に腹が立った。
ぐっと握りしめた拳は気づけば感覚がないほどだった。血の気が失せたように真っ白になっていて私は慌てて手の力を緩めた。
さっと時計を見ると19時を示していた。そして、はっとした。満越は私を呼びに来たのだと。19時には下に降りてくるように言われていたのに、初日からやらかしてしまっていた。
いつの間にか、階下からは鼻歌交じりの陽気な歌が流れてきていた。そして、昨日と違ってその雰囲気はダークさを孕んでいた。私は少し気になって階段から身を乗り出した。
がはははは
豪快な笑い声が聞こえてきて、グラスとグラスが鳴る音がした。お客さんがもう入ってきているらしかった。私は急いで部屋着から普段着へ着替えた。そして、スマートフォンをひっつかんで、階下へと急いだ。
一階では、どんちゃん騒ぎが繰り広げられていた。赤や緑、青といったカラーを身にまとった若い男たちがグラスを高々と上げ一気していた。その一人のピンク髪の男が私に気が付いて手を上げた。
「あれー?マスター、新人さん?」
「ああ、今日から入ることになった彩夏ちゃんだ」
「なんか、マスターの好みとはちがうねー」
「ほんとだ、どういう風の吹き回しですかー?」
ピンク髪の男の子がからかうようにマスターに言った。
「俺の好みで選んでるわけじゃねぇよ。満越だよ」
「そういえば、今日奏ちゃんは?」
ピンク髪の子がそういうと、青い髪をした男の子が冷たくこういった。
「どうでもいいだろうが」
明らかに不機嫌な声色に私は彼らが普通の大学生ではないと悟った。
「ごめんって、海斗ちゃん、そんな怖い声ださないでよ」
「海斗、お前満越にもそんな口聞いたら許さないからな」
オーナーは釘をさすようにそう言った。
「オーナー、怖っ。いっつもそうだけどさー、いつになったら奏ちゃんに告白するの?」
私はぎょっとしてピンク髪の男の子を見た。男の子は悪びれる様子もなくするめをくちゃくちゃと言わせていた。
「別に、そんなんじゃねぇよ」
オーナーは気まずそうにちらりと私を見た。それを見逃さなかった、ピンク色の男の子がにやりと笑った。
「彩夏ちゃん、もしかして知らないの?じゃあ、俺が教えてあげるよ―――」
そうピンク色の髪の子が言ったとたん、青髪の男の子、海斗がさっと手をピンク色の子の首に回した。そして、その手を首に食い込ませたのである。
「あ、ちょっと…!」
私は驚いて、海斗の手を掴んだ。
「ほっとけ、いつものことだよ」
オーナーはそう言うと、私にこっちに来るように言った。
「今日から、お前も店で働いてもらうんだが、最初の客があいつらなのは残念だったな」
私がオーナーの元に駆け付けると、オーナーは真っ先にそういった。
「あいつら、酒ばっか飲んでつまみはほぼ食べねぇから。まあ、今日はやることないときはあいつらと適当に話してていいよ。なんかやること出来たらまた呼ぶし」
オーナーはそう言うと、自分の持ち場へと戻っていった。こうして私は、店内でカラフルな子たちの話の輪の中に入ることになったのである。
「彩夏ちゃん、何歳なの?」
「隆盛、それ失礼すぎだろ」
ピンク髪の隆盛は、にこにこしながら私に話を振ってきた。
「23歳だけど」
「じゃあ、21歳の俺って恋愛対象に入る?」
「へ?」
「彩夏さん、気をつけなよー。こいつ手ぇめっちゃ早いから」
私は「ははは」と乾いた笑い声を立てながらも、若い男連中を思いっきり軽蔑するような目で見てしまっていた。
「そんな目で見ないでよー?俺別にそんなんじゃないし。ね、海斗」
「うるせえ」
海斗は不機嫌そうにそっぽを向いていた。よく見ると、海斗は鼻筋が通っていてイケている男であった。
「どうして、そんなに不機嫌そうなの?」
私は思わずそう海斗に訊いた。
「はあ?」
海斗は思いっきり私を睨みつけると、席を立った。そして、ポケットからライターとたばこをとりだすと、外へと行ってしまった。
「あーあ。彩夏さん、やっちゃったねー」
「え?」
「あれは、海斗に一番聞いちゃいけないことだよ」
隆盛はニヤニヤしながらもそう言った。
「え、なんで?」
「海斗不機嫌なの、奏ちゃんのせいだもん」
私は首を傾げた。満越は確かに人の深い部分を抉るときはあるが、あそこまで不機嫌になるようなことを言う人間ではないと思ったからだ。
「理解していない顔だね。だから、海斗ね、奏ちゃんがいる時はいつだって穏やかなんだよ」
私は、その言葉を聞いて一瞬で理解した。そして、ふっと笑ってしまったのである。
「単純なのね」
「まあ、男なんてそんなもんでしょ」
私は、まじまじと隆盛の顔を見つめた。チャラチャラしている奴かと思っていたが、意外にもそうではない気がした。
「あ、奏ちゃんだ」
隆盛はポツリとつぶやいた。そこには、外で海斗と話す満越の姿があった。海斗の横顔は先ほどとは違って柔和に見えた。そして、さっきまで一切見せなかった笑顔もそこにはあった。
「海斗ね、ああ見えてもめっちゃモテるんだよ」
隆盛はそう言って切なそうに笑った。どこかうつろな瞳をしつつも私に精一杯話してくれている、そんな気がした。
「なんていったって、彼のことを知らない人はいないくらい有名だったんだから」
「高校んときの話だろ」
オーナーはそっと口をはさんだ。
「まあ、そうなんだけど。でも、あの時は、女になんて興味なかったのに、なんで今は変わっちゃったんだろ」
「いつまでも、悪さばかりしているわけにはいかないだろ。あいつにとっちゃここで満越に出会えてよかったんじゃないか」
ああ、そうかと私は思った。隆盛の寂しさの一端にはかつての海斗に戻ってほしいという思いがあって、それと同時に今幸せそうな海斗を見てそれでいいのだという矛盾した思いがあるのかと。
「まあ、僕だって奏ちゃんには感謝しているよ。でも、彼女には忘れられない人がいるんでしょ」
私は、その言葉を聞いて固まった。その響きはいかにも不穏な響きをしていた。
「愛してやまなかった人がいたんでしょ?だったら、やっぱり―――」
「隆盛、友情っていうのはなー。そういちいち反対意見言わずに応援するものだろうが」
オーナーは正すようにそう言った。
「友達のことを応援できないような奴は嫌われるぞ」
「そう…だね。そうだよね」
隆盛は自分に言い聞かせるようにそう言った。他のメンバーはそんな隆盛をじっと見つめていた。
「まあ、もう一杯飲もうか」
隆盛はそう言うと、グラスを持って仲間の方へその手を高々と上げた。私はそんな隆盛を見ながら、海斗と満越の方を見た。
大人な雰囲気が漂っていた。それはただならぬ雰囲気で今にも二人の間で一つの物語が始まりそうな勢いだった。
「あの」
私はオーナーにそっと声をかけた。
「どうかしたのか?」
「オーナーは満越さんのことが好きなんですか?」
「……」
オーナーはその問いかけに絶句していから、考え込み、そして口をおもむろに開いた。
「なんで、そんなこと聞くんだよ」
「いや…。だって二人が親密そうだから」
「たかが大学生だろ?俺には気にする必要なんてない」
その言葉は強がっていることがありありとわかる言葉だった。私はそんなオーナーにもう一つこう言った。
「いつか、だれかに取られちゃうかもって思わないんですか。ずっと満越さんが傍にいるとは限らないって」
「そんなこたぁ、わかってるよ」
それは、あまりに低い声だった。そして、それは怒っている声だった。
「言われなくたって、そんなこととっくにわかっている。お前は知らないと思うけどな。あいつはもう誰のものにもならないし、誰にもそういう感情なんて持たないんだよ」
オーナーはそっとグラスを手に持った。それは、先ほど拭いたばかりのグラスで、そこにオーナーの指紋がくっきりとついて浮かんだ。
「だから、気にするも何もねぇよ」
私に話している言葉のはずなのに、その言葉はあきらめるために自分に言い聞かせているかのような言葉だった。私は、オーナーの首に手に汗がにじんでいるのを知った。そして、その手が微かに震えているのもわかった。
そんなオーナーに対して何もかける言葉が見つからなかった。
私はそっとはしゃいでいる大学生連中を見た。カラフルで何の迷いもないように見える彼らの中にも一瞬の迷いを見つけ、そして―――。外にいる二人の影が親密に揺れるのを目の端で捉えた。
海斗の手が満越の手にそっと触れた。私は固唾をのんでそんな二人を見た。そして、海斗が手を離した瞬間、満越の手からたばこが一本現れるのが見て取れて、私はほっと安堵した。
騒がしい店内の中で流れる曲に耳を澄ましながら、自分の馬鹿さ加減が嫌になった。“禁断の愛”なんて文句が頭の中を回って少し期待していたのだと今更ながら気が付いた。しかし、その一言では片づけられないほどの引っ掛かりが私の中にはあった。
満越の「愛してやまぬ人」その一言がつっかえていた。それはきっと、紐解けるまで頭の中に居続けるとなんとなくわかっていた。満越のことは興味があるし、わからないことは何だって知りたかった。
しかし、今は気を取られすぎるべきではなかった。時計の針は既に12時を回っていた。私は大きく頷いて、自分の頬を叩いた。
そして、朝になればめぐって来る自分との戦いに備えて、私はそっと目を閉じて数々の言い訳を頭の中に並べたのであった―――。
ジリジリジリジリ ジリジリジリジリ
静かな家の中で無性に頭を掻きむしりたくなるような音が突然響き渡った。それは深い眠りについていた私を現実世界へと連れ戻す、そんな音であった。
私はむっくりと布団から起き上がると、ドンと音のなるものに手を置いた。目覚まし時計は従順にもすぐにその音をとめた。いつの間にか、あたりは薄暗く、窓からは沈んでいく太陽が見えた。空は橙色と雲の灰色で何んともいえない色彩をしていた。
私はそっと枕元に放り投げてあったスマートフォンを持ちあげた。その画面は真っ黒で、私は「ああ」と声を上げた。昨日、電源を切ってから一度も怖くて電源を入れられなかったのだと今更思い出す。
私は、少し迷いはあったが、電源ボタンを長押しした。ぱっと白い画面が付いて、目がチカチカする。パスワードを入れて、いつもと同じホーム画面を見た途端、ブブ、ブブとスマートフォンが振動して、お知らせをしてくれる。
そこには“佐倉”の文字が浮かび上がっていた。私は、そっと不在着信をさかのぼると、“佐倉”からの連絡が10件弱来ていた。私は、そっとスマートフォンを握りしめ、耳に寄せた。
プルルルル プルルルル
不快な音が耳に響き渡り、鼓動が早くなるのがわかった。
「はい」
佐倉の低い音が私の耳に届いた。
「彩夏か、なぜ昨日来なかった、何してた」
重低音がじーんと耳に来て私は思わず顔を顰めた。
「昨日は、すいません」
「すいません?フン。本当に悪いと思っているなら電話じゃなくて店まで来て謝るべきだろう?神永さんが昨日指名で来てくださったのに、お前がいないとわかって即帰っていったぞ」
“神永”というワードを聞いて、私は時間が止まったのかと思った。神永、それは私の元カレだった。3カ月前に別れてから一度だって連絡もしなかったし、お客さんとして来ることだってなくなった。
なのに、なぜ今更。
「そうですか」
私は動揺を悟られまいと感情を押し殺して話した。神永には何度だって助けられてきた。痴漢まがいのお客さんに困っていたらさっと手を差し伸べてくれたし、仕事で順位が落ちた時はいつだって励ましに店に来てくれた。
「今日は、遅れずに出勤しろよ」
佐倉は思ったよりも怒っていなかった。今まで私が無遅刻無欠席だったためだろうか。いや、違うだろう。私は佐倉の裏にある感情に何となく気が付いていた。
「ごめんなさい。今日限りでやめさせてください」
私はさらりとその言葉を吐いた。非常識だとか、辞めるなら一か月前に言えとか、アルバイトだったらそんなことを言われる。勿論この業界だって同じだ。しかし、私は何人もいきなり来なくなった女の子たちを見てきた。一人はあまりのセクハラに怯え、もう一人はお金持ちを捕まえてパパ活で生計を立てるようになり、そしてもう一人は結婚相手を見つけてさらりといなくなった。
私は佐倉の一声を息をひそめて待った。しかし、待てども待てども佐倉からの返答はない。
「あの…」
「彩夏、お前はどうしてやめたいんだ?」
その声に憂いが混じっていて佐倉が多少はショックを受けていることがわかった。
「最近のお前は客からも評判がいいし、売上だって伸びてきたし、辞める理由なんて…」
「それは……」
私は言葉につっかえた。言えないこと、そんなことはいつだっていっぱいあった。喉に引っかかってなかなか音にならない。
「やめる理由なんて、ないだろ?もう少し頑張ってみてもいいんじゃないか?お前のことを待ってくれているお客さんはいっぱいいる。最近は指名だって一日に一回以上は入るようになったし、お金に困っているっていうんだったら給料だってもう少し……」
ガチャ
その時、私の部屋の扉が音を立てて開いた。つーっと光が差し込んできて思わず眩しさに顔がゆがんだ。そこには一つの黒い影が浮かんでいた。すらっとした体系でくびれが強調されていた。私はその光景に息を呑んだ。その一瞬で、片耳から聞こえてくる佐倉の引き留める言葉の数々が、理解不能な言葉へと変わってしまった。
満越はそんな私にかまわずにさっと歩いてきて、スマートフォンを取り上げた。
「どうもー」
陽気な声が部屋に響き渡った。満越は私に見えるようにスピーカーマークを押すと何の躊躇いもなく話し出した。
「あなたが、彩夏の店の店長って人?なら、この際に言っておくけど、彩夏はうちの従業員だからもうあきらめてくれる?」
それは佐倉からしたら理不尽すぎる言葉であった。
「な…なにを?君は誰なんだ?」
混乱していることが伝わるほど佐倉の声は揺れていた。
「はじめましてよね、ムーンライトの満越です。彼女が辞めたいって言っているんだから、そんなに必死になって止めなくてもいいでしょ?だいたいあなたの店は若い子ばっかり雇っているでしょ?だったら今から他の道を探そうとするの人がいてもいいんじゃないの?」
「辞めたいとは、本人ははっきりとは言っていない―――」
「そうねー、あんたには言っていないかもしれないけど、私にははっきりと言ってきてるのよ。なにせ辞めたすぎて私の後をストーカーしてきたぐらいだからね。まあ、店長さんが認めないっていうなら、一度私たちの店に来てごらんなさいよ」
満越は突然そんなことを言い出した。
「は?」
佐倉は驚いたのか、間抜けな声を発した。
「あなたにとって彩夏が重要な人間であることはわかったから、電話越しに話していたって埒が明かないでしょ?それに長電話だって今から営業時間の私とあんたにとっても面倒だし」
佐倉はそんな満越の提案に何も答えなかった。きっと理解が追い付いていないのだろう。
「とりあえず、営業時間が終わったらこっちに顔出しなさいよ。どうせ朝の4時とか5時でしょ?こっちもちょうどそのくらいに終わるから。あと、彩夏に会いたいって来た男もつれて来れるなら連れてきなさい。すべてはっきりさせようじゃないの。じゃあ、そういうことで」
「あ…まて、…まてって……」
満越は言うだけ言って電話を切った。そして、スマートフォンを私に投げ返すとじろりと私を目で捕まえた。
私は縮こまって、満越の方を恐る恐る見た。
「あんたには、意志ってものがないの?」
その言葉は重くて到底太刀打ちできるものではなかった。
「違うわね。辞めたい、その意思を強く表現する術を持ち合わせていないのね。だったら、あんたはどこで何しても同じようなことをするしかないんじゃないの。また夜道をふらふらと歩いて私みたいな人のストーカーして」
「誰もが、満越さんと同じだと思わないでください。誰だって強くなりたいと思っていますよ。でも、本音なんて弱い労働者からしたら吐けないし、ぐっとこらえるしかないんです」
「つまりは、あんたはあんたを傷つけているってことね。選んだ職場もそうだし、あんた自身だってそう自分が感じていることを発する勇気がないんでしょ」
満越は私から背を向けた。そしてつぶやいたのである。「つまんな」って。
私は、私の部屋から出ていった満越の後ろ姿が目に焼き付いて離れなかった。悔しかった。誰にもわかるはずのないと卑屈になっていた感情の裏を暴かれた気がして、無性に腹が立った。
ぐっと握りしめた拳は気づけば感覚がないほどだった。血の気が失せたように真っ白になっていて私は慌てて手の力を緩めた。
さっと時計を見ると19時を示していた。そして、はっとした。満越は私を呼びに来たのだと。19時には下に降りてくるように言われていたのに、初日からやらかしてしまっていた。
いつの間にか、階下からは鼻歌交じりの陽気な歌が流れてきていた。そして、昨日と違ってその雰囲気はダークさを孕んでいた。私は少し気になって階段から身を乗り出した。
がはははは
豪快な笑い声が聞こえてきて、グラスとグラスが鳴る音がした。お客さんがもう入ってきているらしかった。私は急いで部屋着から普段着へ着替えた。そして、スマートフォンをひっつかんで、階下へと急いだ。
一階では、どんちゃん騒ぎが繰り広げられていた。赤や緑、青といったカラーを身にまとった若い男たちがグラスを高々と上げ一気していた。その一人のピンク髪の男が私に気が付いて手を上げた。
「あれー?マスター、新人さん?」
「ああ、今日から入ることになった彩夏ちゃんだ」
「なんか、マスターの好みとはちがうねー」
「ほんとだ、どういう風の吹き回しですかー?」
ピンク髪の男の子がからかうようにマスターに言った。
「俺の好みで選んでるわけじゃねぇよ。満越だよ」
「そういえば、今日奏ちゃんは?」
ピンク髪の子がそういうと、青い髪をした男の子が冷たくこういった。
「どうでもいいだろうが」
明らかに不機嫌な声色に私は彼らが普通の大学生ではないと悟った。
「ごめんって、海斗ちゃん、そんな怖い声ださないでよ」
「海斗、お前満越にもそんな口聞いたら許さないからな」
オーナーは釘をさすようにそう言った。
「オーナー、怖っ。いっつもそうだけどさー、いつになったら奏ちゃんに告白するの?」
私はぎょっとしてピンク髪の男の子を見た。男の子は悪びれる様子もなくするめをくちゃくちゃと言わせていた。
「別に、そんなんじゃねぇよ」
オーナーは気まずそうにちらりと私を見た。それを見逃さなかった、ピンク色の男の子がにやりと笑った。
「彩夏ちゃん、もしかして知らないの?じゃあ、俺が教えてあげるよ―――」
そうピンク色の髪の子が言ったとたん、青髪の男の子、海斗がさっと手をピンク色の子の首に回した。そして、その手を首に食い込ませたのである。
「あ、ちょっと…!」
私は驚いて、海斗の手を掴んだ。
「ほっとけ、いつものことだよ」
オーナーはそう言うと、私にこっちに来るように言った。
「今日から、お前も店で働いてもらうんだが、最初の客があいつらなのは残念だったな」
私がオーナーの元に駆け付けると、オーナーは真っ先にそういった。
「あいつら、酒ばっか飲んでつまみはほぼ食べねぇから。まあ、今日はやることないときはあいつらと適当に話してていいよ。なんかやること出来たらまた呼ぶし」
オーナーはそう言うと、自分の持ち場へと戻っていった。こうして私は、店内でカラフルな子たちの話の輪の中に入ることになったのである。
「彩夏ちゃん、何歳なの?」
「隆盛、それ失礼すぎだろ」
ピンク髪の隆盛は、にこにこしながら私に話を振ってきた。
「23歳だけど」
「じゃあ、21歳の俺って恋愛対象に入る?」
「へ?」
「彩夏さん、気をつけなよー。こいつ手ぇめっちゃ早いから」
私は「ははは」と乾いた笑い声を立てながらも、若い男連中を思いっきり軽蔑するような目で見てしまっていた。
「そんな目で見ないでよー?俺別にそんなんじゃないし。ね、海斗」
「うるせえ」
海斗は不機嫌そうにそっぽを向いていた。よく見ると、海斗は鼻筋が通っていてイケている男であった。
「どうして、そんなに不機嫌そうなの?」
私は思わずそう海斗に訊いた。
「はあ?」
海斗は思いっきり私を睨みつけると、席を立った。そして、ポケットからライターとたばこをとりだすと、外へと行ってしまった。
「あーあ。彩夏さん、やっちゃったねー」
「え?」
「あれは、海斗に一番聞いちゃいけないことだよ」
隆盛はニヤニヤしながらもそう言った。
「え、なんで?」
「海斗不機嫌なの、奏ちゃんのせいだもん」
私は首を傾げた。満越は確かに人の深い部分を抉るときはあるが、あそこまで不機嫌になるようなことを言う人間ではないと思ったからだ。
「理解していない顔だね。だから、海斗ね、奏ちゃんがいる時はいつだって穏やかなんだよ」
私は、その言葉を聞いて一瞬で理解した。そして、ふっと笑ってしまったのである。
「単純なのね」
「まあ、男なんてそんなもんでしょ」
私は、まじまじと隆盛の顔を見つめた。チャラチャラしている奴かと思っていたが、意外にもそうではない気がした。
「あ、奏ちゃんだ」
隆盛はポツリとつぶやいた。そこには、外で海斗と話す満越の姿があった。海斗の横顔は先ほどとは違って柔和に見えた。そして、さっきまで一切見せなかった笑顔もそこにはあった。
「海斗ね、ああ見えてもめっちゃモテるんだよ」
隆盛はそう言って切なそうに笑った。どこかうつろな瞳をしつつも私に精一杯話してくれている、そんな気がした。
「なんていったって、彼のことを知らない人はいないくらい有名だったんだから」
「高校んときの話だろ」
オーナーはそっと口をはさんだ。
「まあ、そうなんだけど。でも、あの時は、女になんて興味なかったのに、なんで今は変わっちゃったんだろ」
「いつまでも、悪さばかりしているわけにはいかないだろ。あいつにとっちゃここで満越に出会えてよかったんじゃないか」
ああ、そうかと私は思った。隆盛の寂しさの一端にはかつての海斗に戻ってほしいという思いがあって、それと同時に今幸せそうな海斗を見てそれでいいのだという矛盾した思いがあるのかと。
「まあ、僕だって奏ちゃんには感謝しているよ。でも、彼女には忘れられない人がいるんでしょ」
私は、その言葉を聞いて固まった。その響きはいかにも不穏な響きをしていた。
「愛してやまなかった人がいたんでしょ?だったら、やっぱり―――」
「隆盛、友情っていうのはなー。そういちいち反対意見言わずに応援するものだろうが」
オーナーは正すようにそう言った。
「友達のことを応援できないような奴は嫌われるぞ」
「そう…だね。そうだよね」
隆盛は自分に言い聞かせるようにそう言った。他のメンバーはそんな隆盛をじっと見つめていた。
「まあ、もう一杯飲もうか」
隆盛はそう言うと、グラスを持って仲間の方へその手を高々と上げた。私はそんな隆盛を見ながら、海斗と満越の方を見た。
大人な雰囲気が漂っていた。それはただならぬ雰囲気で今にも二人の間で一つの物語が始まりそうな勢いだった。
「あの」
私はオーナーにそっと声をかけた。
「どうかしたのか?」
「オーナーは満越さんのことが好きなんですか?」
「……」
オーナーはその問いかけに絶句していから、考え込み、そして口をおもむろに開いた。
「なんで、そんなこと聞くんだよ」
「いや…。だって二人が親密そうだから」
「たかが大学生だろ?俺には気にする必要なんてない」
その言葉は強がっていることがありありとわかる言葉だった。私はそんなオーナーにもう一つこう言った。
「いつか、だれかに取られちゃうかもって思わないんですか。ずっと満越さんが傍にいるとは限らないって」
「そんなこたぁ、わかってるよ」
それは、あまりに低い声だった。そして、それは怒っている声だった。
「言われなくたって、そんなこととっくにわかっている。お前は知らないと思うけどな。あいつはもう誰のものにもならないし、誰にもそういう感情なんて持たないんだよ」
オーナーはそっとグラスを手に持った。それは、先ほど拭いたばかりのグラスで、そこにオーナーの指紋がくっきりとついて浮かんだ。
「だから、気にするも何もねぇよ」
私に話している言葉のはずなのに、その言葉はあきらめるために自分に言い聞かせているかのような言葉だった。私は、オーナーの首に手に汗がにじんでいるのを知った。そして、その手が微かに震えているのもわかった。
そんなオーナーに対して何もかける言葉が見つからなかった。
私はそっとはしゃいでいる大学生連中を見た。カラフルで何の迷いもないように見える彼らの中にも一瞬の迷いを見つけ、そして―――。外にいる二人の影が親密に揺れるのを目の端で捉えた。
海斗の手が満越の手にそっと触れた。私は固唾をのんでそんな二人を見た。そして、海斗が手を離した瞬間、満越の手からたばこが一本現れるのが見て取れて、私はほっと安堵した。
騒がしい店内の中で流れる曲に耳を澄ましながら、自分の馬鹿さ加減が嫌になった。“禁断の愛”なんて文句が頭の中を回って少し期待していたのだと今更ながら気が付いた。しかし、その一言では片づけられないほどの引っ掛かりが私の中にはあった。
満越の「愛してやまぬ人」その一言がつっかえていた。それはきっと、紐解けるまで頭の中に居続けるとなんとなくわかっていた。満越のことは興味があるし、わからないことは何だって知りたかった。
しかし、今は気を取られすぎるべきではなかった。時計の針は既に12時を回っていた。私は大きく頷いて、自分の頬を叩いた。
そして、朝になればめぐって来る自分との戦いに備えて、私はそっと目を閉じて数々の言い訳を頭の中に並べたのであった―――。
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