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3,戦闘服
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日が暮れて月がくっきりと空に現れ始めた頃、私は布団の上でぼーっと一点を見つめていた。夜の営業には慣れている。だからムーンライトの仕事も苦ではない。それどころか酒を飲まず朝方に寝るので、午後には目がすっきり覚め、気分も良い。違う生活を歩み始めたのだという実感がしてあの仕事前のどんよりとした気分は感じない。しかし、目は冴えていてもなかなか布団から出れなかった。それもそのはずだ。夜の仕事の店長と元カレに会うというやりたくもない予定が入っている。
そんなことを考えていると、バタンと隣の部屋の扉が開き閉まる音がした。トントンとリズムのいい足音が私の部屋の方に向かってくる。やがて、それは私の部屋の前でピタリと止まった。
「彩香、あんた起きてるの?」
満越がドア越しにそう言った。少し低めのしゃがれ声で、満越も寝起きなのがわかった。
「はい」
私は頷きながらもおもむろに布団から起き上がり、ゆっくりとドアの前まで歩き、それを開けた。
満越は仁王立ちであった。寝起きと思われたが、その顔は化粧が施され、そして洋服も革製のジャケットに黒いパンツでビシッと決まっていた。そしてその手には、彼女が持つにはふさわしくないビニールに包まれた布があった。
「大事な戦いがあるっていうのに、メイクもせずにぼさぼさの寝起きじゃないの。そんなんで訪問者に勝てると思っているわけ?」
「戦いっていっても、服装とか見た目で勝敗が変わるものじゃないですよね。ただ辞めるって伝えるだけだから、辞めるの一点張りでどうにかなるものじゃないですか」
私は失礼だとは思いながらも、満越の前で我慢できずに大きな欠伸をした。それと同時に「ふわあああ」というなんとも情けのない声を漏らした。
満越は、当然のようにそんな私を冷たい眼で見下した。その眼は恐ろしく、凶器の如く鈍い色を放っていた。
「そう簡単に相手が諦めてくれるんだったらいいけどね。私はね、別にあんたに辞めたいって意思があることぐらいわかってるし、それを言えるだろうっても思ってる。でもね」
満越は、一つ間を置くとともにそっと髪をかき上げた。その様子を見て、私はまた月明かりに照らされた彼女の顔に息を呑む。そんなこと知らずに満越は話を続ける。
「きっとそれだけじゃ足りないんだろうなって予感がするのよ」
「それは一体―――?」
満越は、首を傾げる私の横で躊躇う素振りを見せた。迷ったような表情で、私を見つめ、やがて言葉を絞り出すように発した。
「聞いても、いいわよね?元カレについて」
満越のその言葉を聞いて私は動きを止めた。元カレについて聞かれることを予想だにしていなかったからだ。
「なぜ、元カレについて聞くのかって顔をしてるわね」
満越は、私のそんな顔を見て困ったように笑った。
「あんたにとって、その男がきっと重要な気がしたからよ。じゃないと、あの電話の時、あんなに狼狽えないでしょ」
満越のその言葉で、私は完全に凍り付いた。あの時、満越はそこまで電話の内容を聞けるはずがない。私は電話の時、スピーカーで話さないし。それに、あの時も変だった。私の部屋に入ってきた満越は電話の内容を聞いていたかのような対応だった。
「なぜ、私が元カレの話をされたことをご存じなんですか」
私は、恐る恐る満越の顔を見た。満越は余裕の表情を浮かべた。
「さあ、何故かしら。でも間違ってなさそうで何よりよね」
「気味が悪いです。私、満越さんにプライベートなことは何も話してないのに」
「だったら、こういうことにしない?私には相手のことが読めるってことに。そしたら、何も怖くないでしょ」
満越はちっとも気味が悪いと言われることを気にも留めていなかった。それどころか面白がっているようだった。ある意味、ユーモアたっぷりの答えではある。しかし、そんな冗談を満越は言わない人間だと少ない時間ながらも感じ取っていただけに、私の中で彼女に対する疑念が浮かんだ。
「部屋の中入ってもいいかしら」
満越は聞いておきながら私の返答は求めていないようで、ズカズカと私の部屋の中に入った。そして、当たり前のように私の勉強机の椅子に腰かけた。私は、そんな満越を静かに目で追いつつも、部屋の扉を閉めた。
「道越さんは元カレの何を聞きたいんですか」
「彩香が元カレに対して感じていること全てよ」
当然のようにさらっと満越が放った言葉は、私を沼に突き落とすかのようだった。ずっと元カレのことは考えないようにしていた。3カ月前に突然いなくなった時から。
「あんたは、元カレのことを愛している。だから、元カレが来るとわかってあの時狼狽えた、そうでしょ?」
満越の口調は優しかった。その瞳は冷たい色など無くて、温かい色で満ちていた。私は、満越のその雰囲気に飲み込まれてしまった。
「ええ、そうですよ。私は彼のことを愛してたんです。今でもそれは色褪せずにずっと残っています」
私の言葉に満越は安堵したような表情を見せた。その表情を横目で見ながらも私はぽつぽつと話し出した。
彼と出会ったのは、私が大学2年生の時、夜のお店をはじめてすぐだった。夜のお店をはじめる前は、大学に通って勉強をして、単位を取って、それが主軸のいたって普通の大学生だった。私は3人兄弟で、年子だったこともあり、家庭は裕福とは言えず、奨学金を借りて大学に通っていた。それでも生活が苦しい部分もあり、アルバイトをしなくてはならなかった。大学1年生の後半くらいだろうか、海外で活躍している卒業生の講演会を聞きに行き、海外で働きたいという夢を持ったのは。私は、その講演会後から留学に行きたいと思うようになり高収入なバイトを探すようになった。はじめは夜のお店ではないがほどほどに給料がいいバイトを試してみた。休みの日、平日でも大学に行かなくていい時間は全てバイトに費やしてみた。でもバイトをすればするほど、心は疲弊し、大学に行く気力も失われていった。そんな時、友達の一人が夜のバイトを紹介してきたのだ。彼女の言葉は今でも忘れられない。
「最近顔色良くないじゃない?仕事しすぎよ。夢のために収入得たいなら、妥協するところは妥協して効率よく稼がなくちゃ」
私は、この言葉に物凄く納得したのだ。夜の仕事なんてやるべきじゃない、そうずっと思ってきたが、夢を叶えるためにはそういう道も考えてみてもいいのかもしれないそう思ったのだ。
体験入店という名目で、初めて夜のお店に入店した時、私はあまりの眩しさに言葉を失った。キラキラしたドレスに身を包んだ女の子が一斉に迎えてくれた。その時、自分の着ていった服装があまりにもお洒落とかけ離れている貧相なものに思われ、恥ずかしかったのを今でも鮮明に覚えている。「そんな煌びやかなドレスなんてない」と心配したのもつかの間で、彼女たちは、衣裳部屋へと私を連れて行った。彼女たちによると、大体のメンバーは自前でドレスを持っているが、新入りは、共用のドレスを着ることが多いとのことだった。
衣裳部屋のクローゼットには確かに多くのドレスが掛かっていた。私は手渡された一つのドレスをもってカーテン付きの試着室へと入った。
正直、手渡された衣装を着た時は絶句した。ドレスの丈が短すぎてパンツが見えそうだったし、体のメンテナンスを怠っていたせいで、足もムチムチで人に見せられるレベルではなかった。「恥ずかしい」と感じながらも、試着室から出ると、お世辞の「かわいい」が降り注いだ。
この日、私は先輩の横について話し方やお酒の作り方を学んだ。大体お客さんは、先輩と楽しそうに話していて私は横で相槌を打っているだけだった。
それが、数週間続いた。その頃は指名ももらえないし仕事に対して私には不向きだと感じていた。
そんな時に、元カレは現れたのである。いかにもお金持ちであることがわかるようなブランド名が掛かれた服、靴、バッグ、時計。初めて見る顔でブランド品を纏っていたからか、先輩たちも含め、皆がその男に注目した。指名がもらえれば彼女たちにとっては今月一位も夢じゃない、そんな期待が見て取れた。
男は席に案内されると、ボーイに対してそっと二言三言耳打ちをした。
ボーイはその言葉を聞いて、驚いた表情を見せつつも、深く頷いた。そして、ボーイは注目する女たちを他所にそのまま私の方へ歩いてきたのである。
「彩香ちゃん、3番テーブルのお客様から指名なんだけど…」
ボーイは少し困ったように私に耳打ちした。私は呆気にとられつつも「はい」と返事をした。先輩たちのギラギラとした目線が痛かった。
「なんでも、この店でワースト1を出してくれって言うもんで…」
ボーイは失礼な事を言っていると思ったのか声を潜めつつ「大丈夫?」と私の表情を伺うように言った。
「大丈夫って…。何言っているんですか。ありがたいです。行かせていただきます」
私は努めて明るい声を出して、3番テーブルに向って歩を進めた。席に向かってきた私を見たブランド男は立ち上がって軽く会釈をした。その時、彼は紳士的な笑みを浮かべていた。
「御指名ありがとうございます。サイカと申します」
私は卒なく自己紹介をして、職場専用の名刺を渡して、何が飲みたいかを聞いて、お酒をつくる。彼に会話が途切れない程度に話を振って、営業スマイルを振りまく、そんなことをやって一時間が過ぎた頃だろうか。彼が、いきなり私の手を取ったのは。私は驚いて「ふえ…」と頼りない声を出した。先輩たちからお客さんからされたセクハラの話はたくさん聞いていた。でも、指名の来ない自分にそんな日が来るとは思っていなかった。私は何をされるのかと内心ハラハラしながらも彼を見た。
「君は、間違いなく売れるよ」
彼はそう言って、私の手を離した。ただそれだけだった。私は拍子抜けして、「ありがとうございます」と返すことさえできなかった。
そうして、彼と初めて会った一日は終わった。
その後は、毎日のように彼が私に会いに来た。なにかプレゼントを持って、私に愛の言葉をささやきに来た。それが、本当の好意だとわかったのは、大学2年生も終わろうとしていた頃だ。アフターで遊びに行った時のことだ。彼にしては珍しい夜景の綺麗なところに連れていかれた。そこで、彼の気持ちを聞かされた。
私は、その頃彼のおかげでナンバー5に入るようになっていた。そして、紳士的な彼に惹かれるのも当然で、恋愛感情を抱いてしまっていた。
彼に支えられて、生きるようになった私は留学という本来の目的を後回しにするようになった。私が日本を離れれば、彼は寂しさからこの店で他の女の子を指名するようになるかもしれないということが頭を過るようになった。それが嫌で仕方なくて、その決断をできずにいた。
大学4年生の頃には、彼以外の氏名もぼちぼち入るようになり、収入も安定するようになってきた。その頃には、夜のバイトを天職と思うようになり、バイトが楽しくて仕方がなかった。夜のバイトをしつつも、大学に通う生活を続けた結果、貯金もかなり貯まった。無事大学を卒業できる単位も取得したころには、多くの同級生が就活も終わっていた。私は、このまま夜の仕事で生きていくつもりだったから就活などやらずに、大学を卒業した。
それから半年が経った頃、彼がいつもとは違う雰囲気でお店にやって来た。いつものブランドのロゴが見当たらない正装で、いつも以上に髪をセットしていた。そんな彼は、私の前まで来ると、跪いたのだ。
「結婚してください」
その言葉だけ、覚えている。彼は緊張した面持ちで指輪を差し出してきたのだ。私は嬉しくて嬉しくて泣きながら何度も頷いた。夢のような話だった。
彼と婚約した私は、無敵だった。幸せで仕方なかった。全て欲しいものを手にした、そんな心地だった。
同棲をするようになって、結婚式の話をして、婚約届を出す日にちを相談して。これ以上の幸せなんていらない、そう思っていた。
でも、彼は違ったのかもしれない。同棲をして、そういう話を何度かしていくうちに、彼のテンションが低くなっていくことに私は気づいた。
「どうしたの?」
気のせいだとも思ったが、3カ月前、私はそう聞いたのだ。
「俺、間違っていたのかもしれない」
彼はそう言った。私は意味が分からなくて、「何が」と聞いた。
「俺は、彩香を間違った方向に導いてしまったのかもしれない」
私は、そう私に言った時の彼の泣きそうな姿が今でも忘れられない。一度も付き合っていた期間そんな顔を見たことがなかった。
「私は幸せだよ」
私は、彼に微笑みかけてこう言った。本当に幸せだったからそう言うことしかできなかったのだ。でも、彼はその言葉に対して、こう返したのだ。
「ごめん、別れてください」
私は、頭が真っ白になって、感情を失った。色彩豊かだった世界が一瞬にして灰色になった。彼のその真意を普段なら問うはずなのに、その時はどういうわけかできなかった。ただ、この世界で私が行うことが何も意味をなさなくなったと感じた、ただそれだけだった。
その後のことはよく覚えてはいない。でも、「なんで」「どうして」と聞いても、彼は理由を教えてくれなかった。ただ彼は「嫌いになったわけではない」それだけは何度も繰り返し言った。
納得できない別れから私は仕事をする意味を見失った。同棲して毎日顔を合わせていた、私のことを側でずっと支えてくれた人がいなくなった、それだけで心理的負担は大きかった。
彼がいなくなっても、私の指名は徐々に増えていった。ただ、私の心にはぽっかりと大きな穴が空いたままではあったが。
「私はね、元カレのことを恨んでいるわけではなくて。ただ、全てだったから、失って路頭に迷いこんで、ずっと忘れられないんです。それに、別れの理由もわからないから、愛したままなんです」
私が、そう締めくくると無言で聞いていた道越はおもむろに口を開いた。
「あなたが、ここに来た理由はそういうわけね。元カレに振られ、仕事をする意味を見失い、今まで大事だったお客さんも嫌な客にしか見えない、辞めてしまいたい、そういうわけね」
「そうですね。彼がいた時は、セクハラでも何でも耐えられたんです。でも、心の支えがなくなった途端、全て嫌になってしまったんです」
「わかったわ。なら、尚更ね、武装しないと」
道越はそう言うと、ずっと持っていた布を私に手渡した。
「なんですか、これは…」
「戦闘服よ」
道越は当たり前のようにそう言った。ビニールを開け、中をとりだすとそれは黒いポロシャツだった。
「あんたは、ずっと夜の世界で煌びやかな世界にいた。でも、これからはその世界とは無縁の世界で生きるの。だから、それ。まずは服装から変えることで、気持ちも変化するものなのよ」
「でも、この店だって煌びやかですよね」
「へぇ、そういうこと言ってくれんのね。確かにそうかもしれないわね。でもね、この店の主役はあくまで客。私たちは煌びやかな衣装着て競う必要なんてないの。ただ平和に仕事をこなすだけ。だから、煌びやかの意味が違うわ。競争でギラギラするんじゃなくて、こっちはのほほんと夜の街を飾る、そんな感じよ」
道越はそう言うと、椅子から立ち上がった。
「今日、元カレや店長に何か言われたとして、彩香は自分の意思を尊重しなさい」
道越は真面目な顔をして、私を見てそう言った。その言葉は意外な言葉で、嬉しくて思わず口角が上がった。
「私のこと、信用してくれるんですか?」
「信用も何も、あんたの人生だし。それにね、聞いていて思ったのよ。今のあんたなら元カレの真意がどんなものであろうと受け止められるだろうし、店長にどれだけしつこく戻ってくるよう言われても、自分の意志で動けるだろうなって。だから、私が手助けするのはその服ぐらいでいいかなって」
私はその言葉にまたにやけながらも、必死にその笑みを見せまいと口元に力を入れた。
そんなことも知らずに、道越はそういうだけ言うと、部屋を後にした。私だけが残された部屋は静まり返った。でもそれが心地よかった。私は、道越に差し出された服を見つめた。ラフな格好だなと思った。男性受けも気にしなくていい、動きやすい服装。夜の仕事を始める前、好んで着ていたのと同じような服を見て、思わず心の中で「ただいま」という言葉が浮かんだ。
そんなことを考えていると、バタンと隣の部屋の扉が開き閉まる音がした。トントンとリズムのいい足音が私の部屋の方に向かってくる。やがて、それは私の部屋の前でピタリと止まった。
「彩香、あんた起きてるの?」
満越がドア越しにそう言った。少し低めのしゃがれ声で、満越も寝起きなのがわかった。
「はい」
私は頷きながらもおもむろに布団から起き上がり、ゆっくりとドアの前まで歩き、それを開けた。
満越は仁王立ちであった。寝起きと思われたが、その顔は化粧が施され、そして洋服も革製のジャケットに黒いパンツでビシッと決まっていた。そしてその手には、彼女が持つにはふさわしくないビニールに包まれた布があった。
「大事な戦いがあるっていうのに、メイクもせずにぼさぼさの寝起きじゃないの。そんなんで訪問者に勝てると思っているわけ?」
「戦いっていっても、服装とか見た目で勝敗が変わるものじゃないですよね。ただ辞めるって伝えるだけだから、辞めるの一点張りでどうにかなるものじゃないですか」
私は失礼だとは思いながらも、満越の前で我慢できずに大きな欠伸をした。それと同時に「ふわあああ」というなんとも情けのない声を漏らした。
満越は、当然のようにそんな私を冷たい眼で見下した。その眼は恐ろしく、凶器の如く鈍い色を放っていた。
「そう簡単に相手が諦めてくれるんだったらいいけどね。私はね、別にあんたに辞めたいって意思があることぐらいわかってるし、それを言えるだろうっても思ってる。でもね」
満越は、一つ間を置くとともにそっと髪をかき上げた。その様子を見て、私はまた月明かりに照らされた彼女の顔に息を呑む。そんなこと知らずに満越は話を続ける。
「きっとそれだけじゃ足りないんだろうなって予感がするのよ」
「それは一体―――?」
満越は、首を傾げる私の横で躊躇う素振りを見せた。迷ったような表情で、私を見つめ、やがて言葉を絞り出すように発した。
「聞いても、いいわよね?元カレについて」
満越のその言葉を聞いて私は動きを止めた。元カレについて聞かれることを予想だにしていなかったからだ。
「なぜ、元カレについて聞くのかって顔をしてるわね」
満越は、私のそんな顔を見て困ったように笑った。
「あんたにとって、その男がきっと重要な気がしたからよ。じゃないと、あの電話の時、あんなに狼狽えないでしょ」
満越のその言葉で、私は完全に凍り付いた。あの時、満越はそこまで電話の内容を聞けるはずがない。私は電話の時、スピーカーで話さないし。それに、あの時も変だった。私の部屋に入ってきた満越は電話の内容を聞いていたかのような対応だった。
「なぜ、私が元カレの話をされたことをご存じなんですか」
私は、恐る恐る満越の顔を見た。満越は余裕の表情を浮かべた。
「さあ、何故かしら。でも間違ってなさそうで何よりよね」
「気味が悪いです。私、満越さんにプライベートなことは何も話してないのに」
「だったら、こういうことにしない?私には相手のことが読めるってことに。そしたら、何も怖くないでしょ」
満越はちっとも気味が悪いと言われることを気にも留めていなかった。それどころか面白がっているようだった。ある意味、ユーモアたっぷりの答えではある。しかし、そんな冗談を満越は言わない人間だと少ない時間ながらも感じ取っていただけに、私の中で彼女に対する疑念が浮かんだ。
「部屋の中入ってもいいかしら」
満越は聞いておきながら私の返答は求めていないようで、ズカズカと私の部屋の中に入った。そして、当たり前のように私の勉強机の椅子に腰かけた。私は、そんな満越を静かに目で追いつつも、部屋の扉を閉めた。
「道越さんは元カレの何を聞きたいんですか」
「彩香が元カレに対して感じていること全てよ」
当然のようにさらっと満越が放った言葉は、私を沼に突き落とすかのようだった。ずっと元カレのことは考えないようにしていた。3カ月前に突然いなくなった時から。
「あんたは、元カレのことを愛している。だから、元カレが来るとわかってあの時狼狽えた、そうでしょ?」
満越の口調は優しかった。その瞳は冷たい色など無くて、温かい色で満ちていた。私は、満越のその雰囲気に飲み込まれてしまった。
「ええ、そうですよ。私は彼のことを愛してたんです。今でもそれは色褪せずにずっと残っています」
私の言葉に満越は安堵したような表情を見せた。その表情を横目で見ながらも私はぽつぽつと話し出した。
彼と出会ったのは、私が大学2年生の時、夜のお店をはじめてすぐだった。夜のお店をはじめる前は、大学に通って勉強をして、単位を取って、それが主軸のいたって普通の大学生だった。私は3人兄弟で、年子だったこともあり、家庭は裕福とは言えず、奨学金を借りて大学に通っていた。それでも生活が苦しい部分もあり、アルバイトをしなくてはならなかった。大学1年生の後半くらいだろうか、海外で活躍している卒業生の講演会を聞きに行き、海外で働きたいという夢を持ったのは。私は、その講演会後から留学に行きたいと思うようになり高収入なバイトを探すようになった。はじめは夜のお店ではないがほどほどに給料がいいバイトを試してみた。休みの日、平日でも大学に行かなくていい時間は全てバイトに費やしてみた。でもバイトをすればするほど、心は疲弊し、大学に行く気力も失われていった。そんな時、友達の一人が夜のバイトを紹介してきたのだ。彼女の言葉は今でも忘れられない。
「最近顔色良くないじゃない?仕事しすぎよ。夢のために収入得たいなら、妥協するところは妥協して効率よく稼がなくちゃ」
私は、この言葉に物凄く納得したのだ。夜の仕事なんてやるべきじゃない、そうずっと思ってきたが、夢を叶えるためにはそういう道も考えてみてもいいのかもしれないそう思ったのだ。
体験入店という名目で、初めて夜のお店に入店した時、私はあまりの眩しさに言葉を失った。キラキラしたドレスに身を包んだ女の子が一斉に迎えてくれた。その時、自分の着ていった服装があまりにもお洒落とかけ離れている貧相なものに思われ、恥ずかしかったのを今でも鮮明に覚えている。「そんな煌びやかなドレスなんてない」と心配したのもつかの間で、彼女たちは、衣裳部屋へと私を連れて行った。彼女たちによると、大体のメンバーは自前でドレスを持っているが、新入りは、共用のドレスを着ることが多いとのことだった。
衣裳部屋のクローゼットには確かに多くのドレスが掛かっていた。私は手渡された一つのドレスをもってカーテン付きの試着室へと入った。
正直、手渡された衣装を着た時は絶句した。ドレスの丈が短すぎてパンツが見えそうだったし、体のメンテナンスを怠っていたせいで、足もムチムチで人に見せられるレベルではなかった。「恥ずかしい」と感じながらも、試着室から出ると、お世辞の「かわいい」が降り注いだ。
この日、私は先輩の横について話し方やお酒の作り方を学んだ。大体お客さんは、先輩と楽しそうに話していて私は横で相槌を打っているだけだった。
それが、数週間続いた。その頃は指名ももらえないし仕事に対して私には不向きだと感じていた。
そんな時に、元カレは現れたのである。いかにもお金持ちであることがわかるようなブランド名が掛かれた服、靴、バッグ、時計。初めて見る顔でブランド品を纏っていたからか、先輩たちも含め、皆がその男に注目した。指名がもらえれば彼女たちにとっては今月一位も夢じゃない、そんな期待が見て取れた。
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「なんでも、この店でワースト1を出してくれって言うもんで…」
ボーイは失礼な事を言っていると思ったのか声を潜めつつ「大丈夫?」と私の表情を伺うように言った。
「大丈夫って…。何言っているんですか。ありがたいです。行かせていただきます」
私は努めて明るい声を出して、3番テーブルに向って歩を進めた。席に向かってきた私を見たブランド男は立ち上がって軽く会釈をした。その時、彼は紳士的な笑みを浮かべていた。
「御指名ありがとうございます。サイカと申します」
私は卒なく自己紹介をして、職場専用の名刺を渡して、何が飲みたいかを聞いて、お酒をつくる。彼に会話が途切れない程度に話を振って、営業スマイルを振りまく、そんなことをやって一時間が過ぎた頃だろうか。彼が、いきなり私の手を取ったのは。私は驚いて「ふえ…」と頼りない声を出した。先輩たちからお客さんからされたセクハラの話はたくさん聞いていた。でも、指名の来ない自分にそんな日が来るとは思っていなかった。私は何をされるのかと内心ハラハラしながらも彼を見た。
「君は、間違いなく売れるよ」
彼はそう言って、私の手を離した。ただそれだけだった。私は拍子抜けして、「ありがとうございます」と返すことさえできなかった。
そうして、彼と初めて会った一日は終わった。
その後は、毎日のように彼が私に会いに来た。なにかプレゼントを持って、私に愛の言葉をささやきに来た。それが、本当の好意だとわかったのは、大学2年生も終わろうとしていた頃だ。アフターで遊びに行った時のことだ。彼にしては珍しい夜景の綺麗なところに連れていかれた。そこで、彼の気持ちを聞かされた。
私は、その頃彼のおかげでナンバー5に入るようになっていた。そして、紳士的な彼に惹かれるのも当然で、恋愛感情を抱いてしまっていた。
彼に支えられて、生きるようになった私は留学という本来の目的を後回しにするようになった。私が日本を離れれば、彼は寂しさからこの店で他の女の子を指名するようになるかもしれないということが頭を過るようになった。それが嫌で仕方なくて、その決断をできずにいた。
大学4年生の頃には、彼以外の氏名もぼちぼち入るようになり、収入も安定するようになってきた。その頃には、夜のバイトを天職と思うようになり、バイトが楽しくて仕方がなかった。夜のバイトをしつつも、大学に通う生活を続けた結果、貯金もかなり貯まった。無事大学を卒業できる単位も取得したころには、多くの同級生が就活も終わっていた。私は、このまま夜の仕事で生きていくつもりだったから就活などやらずに、大学を卒業した。
それから半年が経った頃、彼がいつもとは違う雰囲気でお店にやって来た。いつものブランドのロゴが見当たらない正装で、いつも以上に髪をセットしていた。そんな彼は、私の前まで来ると、跪いたのだ。
「結婚してください」
その言葉だけ、覚えている。彼は緊張した面持ちで指輪を差し出してきたのだ。私は嬉しくて嬉しくて泣きながら何度も頷いた。夢のような話だった。
彼と婚約した私は、無敵だった。幸せで仕方なかった。全て欲しいものを手にした、そんな心地だった。
同棲をするようになって、結婚式の話をして、婚約届を出す日にちを相談して。これ以上の幸せなんていらない、そう思っていた。
でも、彼は違ったのかもしれない。同棲をして、そういう話を何度かしていくうちに、彼のテンションが低くなっていくことに私は気づいた。
「どうしたの?」
気のせいだとも思ったが、3カ月前、私はそう聞いたのだ。
「俺、間違っていたのかもしれない」
彼はそう言った。私は意味が分からなくて、「何が」と聞いた。
「俺は、彩香を間違った方向に導いてしまったのかもしれない」
私は、そう私に言った時の彼の泣きそうな姿が今でも忘れられない。一度も付き合っていた期間そんな顔を見たことがなかった。
「私は幸せだよ」
私は、彼に微笑みかけてこう言った。本当に幸せだったからそう言うことしかできなかったのだ。でも、彼はその言葉に対して、こう返したのだ。
「ごめん、別れてください」
私は、頭が真っ白になって、感情を失った。色彩豊かだった世界が一瞬にして灰色になった。彼のその真意を普段なら問うはずなのに、その時はどういうわけかできなかった。ただ、この世界で私が行うことが何も意味をなさなくなったと感じた、ただそれだけだった。
その後のことはよく覚えてはいない。でも、「なんで」「どうして」と聞いても、彼は理由を教えてくれなかった。ただ彼は「嫌いになったわけではない」それだけは何度も繰り返し言った。
納得できない別れから私は仕事をする意味を見失った。同棲して毎日顔を合わせていた、私のことを側でずっと支えてくれた人がいなくなった、それだけで心理的負担は大きかった。
彼がいなくなっても、私の指名は徐々に増えていった。ただ、私の心にはぽっかりと大きな穴が空いたままではあったが。
「私はね、元カレのことを恨んでいるわけではなくて。ただ、全てだったから、失って路頭に迷いこんで、ずっと忘れられないんです。それに、別れの理由もわからないから、愛したままなんです」
私が、そう締めくくると無言で聞いていた道越はおもむろに口を開いた。
「あなたが、ここに来た理由はそういうわけね。元カレに振られ、仕事をする意味を見失い、今まで大事だったお客さんも嫌な客にしか見えない、辞めてしまいたい、そういうわけね」
「そうですね。彼がいた時は、セクハラでも何でも耐えられたんです。でも、心の支えがなくなった途端、全て嫌になってしまったんです」
「わかったわ。なら、尚更ね、武装しないと」
道越はそう言うと、ずっと持っていた布を私に手渡した。
「なんですか、これは…」
「戦闘服よ」
道越は当たり前のようにそう言った。ビニールを開け、中をとりだすとそれは黒いポロシャツだった。
「あんたは、ずっと夜の世界で煌びやかな世界にいた。でも、これからはその世界とは無縁の世界で生きるの。だから、それ。まずは服装から変えることで、気持ちも変化するものなのよ」
「でも、この店だって煌びやかですよね」
「へぇ、そういうこと言ってくれんのね。確かにそうかもしれないわね。でもね、この店の主役はあくまで客。私たちは煌びやかな衣装着て競う必要なんてないの。ただ平和に仕事をこなすだけ。だから、煌びやかの意味が違うわ。競争でギラギラするんじゃなくて、こっちはのほほんと夜の街を飾る、そんな感じよ」
道越はそう言うと、椅子から立ち上がった。
「今日、元カレや店長に何か言われたとして、彩香は自分の意思を尊重しなさい」
道越は真面目な顔をして、私を見てそう言った。その言葉は意外な言葉で、嬉しくて思わず口角が上がった。
「私のこと、信用してくれるんですか?」
「信用も何も、あんたの人生だし。それにね、聞いていて思ったのよ。今のあんたなら元カレの真意がどんなものであろうと受け止められるだろうし、店長にどれだけしつこく戻ってくるよう言われても、自分の意志で動けるだろうなって。だから、私が手助けするのはその服ぐらいでいいかなって」
私はその言葉にまたにやけながらも、必死にその笑みを見せまいと口元に力を入れた。
そんなことも知らずに、道越はそういうだけ言うと、部屋を後にした。私だけが残された部屋は静まり返った。でもそれが心地よかった。私は、道越に差し出された服を見つめた。ラフな格好だなと思った。男性受けも気にしなくていい、動きやすい服装。夜の仕事を始める前、好んで着ていたのと同じような服を見て、思わず心の中で「ただいま」という言葉が浮かんだ。
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