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第三十七話:後輩と話す
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暫しの間、場を沈黙が支配した。
藍那はすっかり俯いてしまい、どんな表情をしているのかわからなかった。
「なんで……?」
やがて、重苦しい空気をそのまま纏ったかのような藍那の小さな声が、ぼそりと届いた。
「なんで急にそんなこと言うんですか……? 私、何か悪いことしましたか……?」
たどたどしく話しているように聞こえるのは、大きな感情を堪えているからなのだろうか。
その正体は、勝手なことを言いだした俺に対する怒りか、それとも悲しみか。
なんとなく後者な気がしたが、今の段階では判別がつかなかった。
だけど――俺にとってはそのどちらでもいい。
今はとにかく、こちらの考えを話して納得してもらわなければならない。
「気になる人が出来た」
びくり。藍那の肩が震えた。
「だから……もう藍那とは付き合えない。例え〝お試し〟だとしても、こんな状態のまま交際を続けることはできない」
なるべく平坦に、感情を込めずに事実を語るようにして、藍那に話した。
俺が罪を感じてはいけない。
藍那にそう思わせてはいけない。
藍那の感情のぶつける先がなくなってしまう。
『気になる人が出来たから別れる』というのは仮の交際を解消するにあたって、もっともな理由だと思う。
だから責められる道理は、本来ならない。
だが、そう理性的にいかないのが人間というものだ。
藍那はこんな俺なんかとの交際を楽しんでくれていた。
きっと終わることなんて考えていなかったと思う。
事実、俺も少し前までは、終わらせるつもりなんてなかった。
だけど、こうなってしまった以上、もう仕方がなかった。
〝お試し〟とはいえ、彼氏という存在を欲していた藍那に対して俺が出来るせめてものことは、いつか彼氏が出来たときのことを疑似体験させてやることだけだ。
だから今日はデートに誘った。
これが今まで彼氏らしいことを何一つしていなかった俺の、せめてもの贖罪だと思ったのだ。
二秒、三秒……五秒…………一〇秒。
刻々と時間が過ぎ、そしてがっくりと藍那の肩から力が抜けた。
「気になる人……かぁ……。それなら……仕方ないですね……。だって私と先輩は〝お試し〟ですもんね……」
さっきよりも、よりか細く、声が紡がれていく。
「わかり……ました……。じゃあ、これで……これで……終わ――」
少しずつ、少しずつ声の震えが増していった。
だけど、最後まで言い切る前に、言葉とは別の、感情が溢れた。
はらはらと目端から涙が流れていった。
藍那はすぐにしゃがみ込んで、袖で顔を覆った。
「……っ……ぅぁあ…………」
慟哭ならまだよかったかもしれない。
いっそ罵倒してくれたら、もっと楽だった。
けれど、藍那はそうはしなかった。
ただ時折聞こえてくる、きっと俺に聞かせまいとして、でも隠しきれずに漏れてしまった嗚咽が伝わってきた。
その押し殺すような声が、藍那が自分自身の心を傷つけているように思えて、すごく痛かった。
だけど差し伸べられる手は俺にはなく、ただ唇を強く嚙んでその姿を眺めることしか出来なかった。
もしかして……俺はとんでもない思い違いをしてたんじゃないか?
考えたことがないわけではなかった。
でも、見ぬふりをしてしまっていた。
〝お試し〟という言葉に甘えてしまっていたんだ。
きっと藍那は、俺のことを本気で――。
あまりにも見えていなかった。
いや、見ようとしていなかった。
だってその方が楽だから。
他人と本気で向き合うのは怖い。
だって一度向き合ってしまったら、もう目を背けることなんて出来ない。
また傷つく。また傷つける。
それなら最初から距離を置いて関わった方がいいんだ、と無意識に植え付けられていた。
表面の言葉をそのまま捉えて。
裏面の感情を読もうとせずに。
わかった気になって、だけど全然わかっていなくって。
そして、紗香のときと同じ失敗を繰り返した。
紗香は言わなかった。俺も言わなかった。
藍那は隠して言った。俺はそのまま受け取った。
だけど気づいたときにはいつも遅くて。
今さら問い質すことなんて、伝えることなんて出来るはずがなくて。
だから俺はただ立ち尽くしたまま、藍那を見続けた。
そうするより他なかった。
どのくらい経っただろうか。
数分にも、数十分にも感じられる時間だった。
藍那の声が止まった。
袖でぐしぐしと目の辺りを拭い、そしてゆっくりと立ち上がる。
「先輩」
藍那は真っ赤に腫らした目をこちらに向けた。
「これでお試し交際は終わりです。短い間でしたが……ありがとうございました!」
今度ははっきりと言い切って、こちらに頭を下げた。
なんて強いんだろうか。
その姿に憧憬すら覚えそうだった。
「それでその……先輩」
少々気まずそうに自身の指を絡めながら、藍那は言った。
「ん、なに?」
だから俺も努めて優しい声で応え、続きを促した。
「どうしても言っておきたいことがあるんですけど……聞いてくれますか?」
「ああ。もちろん」
俺が頷くと、藍那は綺麗に笑った。
先ほどまでの感情の残滓とは反対の輝きに、思わずどきりとしてしまった。
「私、先輩のこと、本当に好きなんです――ってさすがに気が付いてますよね?」
「ごめん、さっき気が付いた」
「もう……遅いっ!」
「――悪い」
ばつ悪く顔を顰めた俺に、藍那がいやいや、と手を振った。
「そこは『お前が言わなかったのが悪いんだろ』とか言って笑い飛ばしてくださいよ。じゃないと私の立つ瀬がないじゃないですか」
「そんなもんか?」
「そんなもんです――――っとまあそれはもういいんですけど」
ゴホン、と咳払い。
さっきまでの調子が嘘のように、いつもの藍那だった。
そして「一回しか言わないんで、よーく聞いてくださいね?」と前置きし、息をすぅっと吸い込んでから言った。
「改めて言わせてください。――先輩、大好きです。だから……今度はちゃんとした形で、私と付き合ってください!」
藍那はすっかり俯いてしまい、どんな表情をしているのかわからなかった。
「なんで……?」
やがて、重苦しい空気をそのまま纏ったかのような藍那の小さな声が、ぼそりと届いた。
「なんで急にそんなこと言うんですか……? 私、何か悪いことしましたか……?」
たどたどしく話しているように聞こえるのは、大きな感情を堪えているからなのだろうか。
その正体は、勝手なことを言いだした俺に対する怒りか、それとも悲しみか。
なんとなく後者な気がしたが、今の段階では判別がつかなかった。
だけど――俺にとってはそのどちらでもいい。
今はとにかく、こちらの考えを話して納得してもらわなければならない。
「気になる人が出来た」
びくり。藍那の肩が震えた。
「だから……もう藍那とは付き合えない。例え〝お試し〟だとしても、こんな状態のまま交際を続けることはできない」
なるべく平坦に、感情を込めずに事実を語るようにして、藍那に話した。
俺が罪を感じてはいけない。
藍那にそう思わせてはいけない。
藍那の感情のぶつける先がなくなってしまう。
『気になる人が出来たから別れる』というのは仮の交際を解消するにあたって、もっともな理由だと思う。
だから責められる道理は、本来ならない。
だが、そう理性的にいかないのが人間というものだ。
藍那はこんな俺なんかとの交際を楽しんでくれていた。
きっと終わることなんて考えていなかったと思う。
事実、俺も少し前までは、終わらせるつもりなんてなかった。
だけど、こうなってしまった以上、もう仕方がなかった。
〝お試し〟とはいえ、彼氏という存在を欲していた藍那に対して俺が出来るせめてものことは、いつか彼氏が出来たときのことを疑似体験させてやることだけだ。
だから今日はデートに誘った。
これが今まで彼氏らしいことを何一つしていなかった俺の、せめてもの贖罪だと思ったのだ。
二秒、三秒……五秒…………一〇秒。
刻々と時間が過ぎ、そしてがっくりと藍那の肩から力が抜けた。
「気になる人……かぁ……。それなら……仕方ないですね……。だって私と先輩は〝お試し〟ですもんね……」
さっきよりも、よりか細く、声が紡がれていく。
「わかり……ました……。じゃあ、これで……これで……終わ――」
少しずつ、少しずつ声の震えが増していった。
だけど、最後まで言い切る前に、言葉とは別の、感情が溢れた。
はらはらと目端から涙が流れていった。
藍那はすぐにしゃがみ込んで、袖で顔を覆った。
「……っ……ぅぁあ…………」
慟哭ならまだよかったかもしれない。
いっそ罵倒してくれたら、もっと楽だった。
けれど、藍那はそうはしなかった。
ただ時折聞こえてくる、きっと俺に聞かせまいとして、でも隠しきれずに漏れてしまった嗚咽が伝わってきた。
その押し殺すような声が、藍那が自分自身の心を傷つけているように思えて、すごく痛かった。
だけど差し伸べられる手は俺にはなく、ただ唇を強く嚙んでその姿を眺めることしか出来なかった。
もしかして……俺はとんでもない思い違いをしてたんじゃないか?
考えたことがないわけではなかった。
でも、見ぬふりをしてしまっていた。
〝お試し〟という言葉に甘えてしまっていたんだ。
きっと藍那は、俺のことを本気で――。
あまりにも見えていなかった。
いや、見ようとしていなかった。
だってその方が楽だから。
他人と本気で向き合うのは怖い。
だって一度向き合ってしまったら、もう目を背けることなんて出来ない。
また傷つく。また傷つける。
それなら最初から距離を置いて関わった方がいいんだ、と無意識に植え付けられていた。
表面の言葉をそのまま捉えて。
裏面の感情を読もうとせずに。
わかった気になって、だけど全然わかっていなくって。
そして、紗香のときと同じ失敗を繰り返した。
紗香は言わなかった。俺も言わなかった。
藍那は隠して言った。俺はそのまま受け取った。
だけど気づいたときにはいつも遅くて。
今さら問い質すことなんて、伝えることなんて出来るはずがなくて。
だから俺はただ立ち尽くしたまま、藍那を見続けた。
そうするより他なかった。
どのくらい経っただろうか。
数分にも、数十分にも感じられる時間だった。
藍那の声が止まった。
袖でぐしぐしと目の辺りを拭い、そしてゆっくりと立ち上がる。
「先輩」
藍那は真っ赤に腫らした目をこちらに向けた。
「これでお試し交際は終わりです。短い間でしたが……ありがとうございました!」
今度ははっきりと言い切って、こちらに頭を下げた。
なんて強いんだろうか。
その姿に憧憬すら覚えそうだった。
「それでその……先輩」
少々気まずそうに自身の指を絡めながら、藍那は言った。
「ん、なに?」
だから俺も努めて優しい声で応え、続きを促した。
「どうしても言っておきたいことがあるんですけど……聞いてくれますか?」
「ああ。もちろん」
俺が頷くと、藍那は綺麗に笑った。
先ほどまでの感情の残滓とは反対の輝きに、思わずどきりとしてしまった。
「私、先輩のこと、本当に好きなんです――ってさすがに気が付いてますよね?」
「ごめん、さっき気が付いた」
「もう……遅いっ!」
「――悪い」
ばつ悪く顔を顰めた俺に、藍那がいやいや、と手を振った。
「そこは『お前が言わなかったのが悪いんだろ』とか言って笑い飛ばしてくださいよ。じゃないと私の立つ瀬がないじゃないですか」
「そんなもんか?」
「そんなもんです――――っとまあそれはもういいんですけど」
ゴホン、と咳払い。
さっきまでの調子が嘘のように、いつもの藍那だった。
そして「一回しか言わないんで、よーく聞いてくださいね?」と前置きし、息をすぅっと吸い込んでから言った。
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