お月さま色した、猫

久世ひろみ

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1章 初めて見た「ニンゲン」

3話

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 白む空から舞い降りた魔法使いを、猫はいつもどおり、ベランダの手すりに座って出迎えた。

 ふわり、と空気が優しく揺れて、彼がベランダの中に降り立つ。それを待って、猫は「おかえりなさい」と嬉しそうに告げた。
 魔法使いが森に帰ってくるのを待ちわびていたように、太陽が地平線から姿を現す。
 金色の光を受けた魔法使いの、きれいな横顔が見える、その一瞬が猫は大好きだった。

 だから、猫は毎日にこにこしながらベランダの手すりで魔法使いを待った。
 魔法使いは口を開くことなく、そっと猫をその腕に抱く。無口な彼の、その背を撫でる大きな手が「ただいま」なのだと知っているのは、猫だけ。

 森の中にぽつんと建つ館は、朝方の冷え込みが激しい。夜中じゅうずっと外にいる猫は、いくらふわふわな毛皮があってもすっかり冷えてしまっていて、ちょっと寒いな、と思った。
 それが聞こえたかのように、魔法使いは猫をマントの中に入れた。しっかりと抱きかかえなおされて、猫を魔法使いの優しい風のにおいが包む。
 猫はうれしそうに微笑むけれど、魔法使いはまるで興味がないような仕草で、室内へと足を向けた。

 朝露に濡れる外よりは暖かいけれど、それでも部屋の中は隙間風や開きっぱなしの窓からの冷気で肌寒い。同じように冷え切ったソファーに猫を置くと、魔法使いは大きな暖炉に火を入れた。
 広くて古い部屋が暖まりきるまでの間、彼はいつものようにホットミルクをどこからか持ってきて、暖炉の前のテーブルに置く。

 ことり、と皿が置かれたのを合図に、猫はソファーから飛び降りた。とてとてと嬉しそうに尻尾をゆらしながら歩いてくるのを、魔法使いはわずかに目を細めて一瞥する。足に擦り寄る猫を抱き上げて、テーブルに乗せてくれる。
 猫がミルクを全部飲み終わるまで彼は何もいわないけれど、ただそこにいてくれて、そばにいさせてくれるから、猫はすごく幸せなのだった。

「あのね」

 猫が口を開いたのは、もうすっかり日が昇り、もう眠ろうかとベッドに入った時だった。
 寝室として使われている部屋は、厚いカーテンをきっちり閉めてもほのかに明るい。だから夜目の利く猫には、上着を脱いだだけの姿でベッドに寝そべる魔法使いがよく見えた。

 魔法使いは、ゆっくりと視線を枕元に動かす。それは酷く面倒臭そうな仕草だったけれど、そんなことには一切構わずに、猫はふさっと尻尾をゆらして言葉を続けた。

「今日ね、森に人間がいたの」

 怪我をして、倒れていたのを見つけたの。
 楽しげに言う猫を、魔法使いは相槌ひとつ打たずに見つめる。聞いているのかいないのかよく分からないけれど、そういう時は聞いてくれているのだと、猫は知っていた。だからそのまま、独り言のように話し続けた。

「血、いっぱい出ててねー。動けなくて困ってたんだよ」

 クッションにころりと寝転がり、猫は自らの前足を見る。
 見つけたとき、手当ての時についてしまった血は、もう無かった。屋敷に帰る前に、クッションや絨毯が、魔法使いの手が血で汚れたら嫌だな、と思って、川で洗い流して念入りに舐め取った。
 だからもう、前足を見てもあの温かい血はないけれど。でもなんとなく、本当に何の意味もなく、猫は血に触れた前足を、見つめ続けた。

 それきり黙りこんでしまった猫だけれど、ふと、前足に触れる手に気付いて、顔を上げる。
 何もいわずに、じっと猫を見つめる魔法使いと目が合って、猫は心の中が優しく和いで行くのを感じた。柔らかな眼差しにうれしくなって、猫は目をそっと細めた。その背を魔法使いの手が包み込むように撫でる。さらさらと滑る暖かな手に誘われるように、猫はゆっくりと瞼を閉じた。

 魔法使いが「おやすみ」と小さな低い声で言った気がする。猫は、いつものように穏やかな気持ちで眠るのだった。




「ねぇ」

 猫がぽつりと呟いたのは、空が茜色に染まり始めた頃だった。
 その時、魔法使いはいつも通り猫を膝に抱いて、絹のような手触りの背中を撫でていた。彼に撫でられるのは、お気に入りの古いゴブラン織りのクッションに寝そべるよりも気持ちが良くて好きだ。
 だから普段、撫でられている間は何も言わずにうっとりしているのだけれど、猫はふと思い立って、口火を切った。

「魔法使いには、『名前』ってあるの?」

 言った途端、ぴたりと手が止まった。
 見上げれば、滅多に感情を表さない魔法使いが、猫の背中に手を置いたまま瞠目していて、どうしたのだろうと、猫は首を傾げる。

 固まったまま微動だにしなくなった彼を、猫は心配げに見上げることしかできなかった。
 こんな風になった魔法使いを、猫は初めて見たから、どうしていいか分からない。何かの病気だろうか、それとも目を開けたまま急に寝ちゃったのだろうか。
 おろおろする猫は、そんなことを考えてはもっと、おろおろした。

 声をかけていいのかすら分からず、猫の大きな耳はどんどんしおれて伏せっていく。同時に尻尾も猫の同様を表すようにせわしなく揺れて、リボンの先が魔法使いのローブを掠めた。
 あ、と思った時、一点を見つめたままだったこげ茶色の瞳が、ゆっくりと猫を見下ろす。
 その瞳はいつもの温かさを取り戻していて、猫は知らずにほう、と息を吐いた。

「――名は、あった」

 ぽつり、と。不意に落ちたのは、魔法使いの低くて落ち着いた声だった。

「遥か昔の事だ。……とうに、捨ててしまった、名だ」

 淡々と紡がれる言葉。けれど、その端々ににじむ「何か」に、猫は本能の部分で気付いた。
 気付けた「それ」を、なんと表現すればいいのだろう。悲しそうな、辛そうな――懐かしむような、厳しくて暖かい、そんな色がなんという名前なのか、猫にはわからなかったけれど。

「魔法使いにも、名前があったけど、捨ててしまったの?」
「そうだ」

 僅かに、魔法使いの目が細められる。それをぼんやり見ている内に、猫は胸がきゅっと苦しくなって無意識に口を開いた。
 胸が苦しい、なんて病気かなぁ。ちらりと思ったけれど、魔法使いの手が伸びて猫の頭に触れると、思考は途絶える。

「ヴィアがね。……森にいた人間さんが、ね」

 まっさらになった頭の中で、猫は口を開く。

「名前をくれたの。レイルーンって。ヴィアの、大切な人の名前なんだって」
「そうか」
「でもね。あたし、魔法使いには、ずぅーっと、『猫』って呼んでほしいなぁって、思ったんだよ」
「……」

 猫の歌うような言葉を、魔法使いは沈黙で返した。
 あの時。明るさを増し始めた空の下で、名前をもらった、その時。猫はなぜか、そう思ったのだった。

 「レイルーン」という名前をもらった時、その「名前」がすとんと心の中に落ちてきて、それが自分の「名前」なのだとすぐに理解が出来た。
 ヴィアの大切な人の名前をもらってもいいのかな。そう思ったけれど、きっと今、違う名前を言われても、それが自分の名前になることは無いだろう。そう感じるくらい、その名前は猫の心にあったのだ。

(でも)

 名前を受け入れたと同時に、名前を拒否する気持ちもあった。

 あたしは「レイルーン」で。レイルーン以外ではないけれど、レイルーンであることを心のどこかが嫌だ、という。そんな矛盾。

 どうしてそんな風に思ったのか分からなくて、猫は魔法使いの館に帰る道のりで懸命に考えた。でも考えれば考えるほど分からなくなって、だんだん頭まで痛くなってきて。

(まあ、いいか)

 防衛本能のように、思考を手放した。

 まぁ、いい。
 猫が知らないことはいっぱいあるし、どうせ考えたって分からないから。
 それに、考えたく、無い。そんな気さえするから。
 ただ魔法使いが、今まで通り「猫」と、そう呼んでくれれば、それでよかった。

 そう納得して、考えることをやめたのだった。

「そろそろ、行く」
「あ、うん」

 言われて頷くと、猫は魔法使いの腕からぴょんと飛び降りた。
 ベランダに出て、手すりの上に乗る。そうしてへにゃりと笑いかければ、箒を手にした魔法使いは猫の頭をそっとなでてくれた。
 猫はいつももっと撫でてくれないかなぁ、と思うけれど、手が離れた後には魔法使いが「いってきます」と言ってくれるのを知っているから、「いってらっしゃい」しかいわない。

 そうして毎夜、猫は箒に乗って出かける魔法使いを見送っているのだった。
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