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2章 銀色姫物語
8話
しおりを挟む夜明けを告げるように帰ってきた魔法使いに、猫はいつも通り「おかえりなさい」を言って、その腕の中におさまった。
毎夜繰り返してきたように、彼に抱かれて館へ入り、ミルクをもらって、日が昇るとベッドに入る。その間猫は何も話さず、うつむき加減でぼんやりとしっぽの先の青いリボンを眺めていた。
それは、ヴィアが別れ際に「魔法使いがくれたの?」と問うたリボンだった。でも、魔法使いがくれたものじゃなかったから、猫はふるふると首をふる。
どうして付け続けるのかわからないけれど、なんとなくはずす気にもなれない。だからずっと付けたままいるのだと答えると、ヴィアは少し泣きそうな表情で笑った。
どうしてそんな顔をするのかな、と思ったけれど、ふと、気付く。
(そういえば、ヴィアの髪にも、おんなじリボンが付いてる)
そう思った途端、なんだか胸の奥がざわざわと波立つ感じがして、猫は目をしばたたかせた。
何だろう。頭の奥が、甘くしびれているようだった。
じんじんと胸のどこかが熱い。ヴィアの髪にそよぐ青いリボンが、思考を巡る。
(思い出すな)
頭の中で、誰かがそう命令する。
どこかで聞いたことがある声だったけれど、魔法使いともヴィアとも違った。
思い出すな。忘れていろ。
それは、忘れていていいことだ。
ちらり、自分のしっぽのリボンを一瞥すると、耳の奥がきんと痛い。
「……『星くず』を、渡したのか?」
痛みと熱でぼんやりしていた猫は、ぽつりと落ちた声にびっくりして顔を上げた。
ベッドに座っている魔法使いは、まんまるの猫の目を一瞥すると、そのまま窓の外に視線を投げた。それきり口を閉ざしてしまったけれど、魔法使いの声を聞いた刹那に、頭痛が引いて行く。ぐるぐと廻っていた思考が凪いで、猫は小さく息を吐いた。
「――あの、」
落ち着くと、猫はそろりと声を出した。
魔法使いから話し出すのは、本当に珍しい。まして、何かを問われるなんて、今まででも両手で数えられるくらいしかない。
だから、猫は一生懸命になって言葉を探した。
「あの、ね。ヴィアに、『預けた』んだよ」
考えて考えて、結局なんとか紡げたのは、ヴィアが言ったそのままだった。
魔法使いは相変わらず返事をしてくれない。でも眉間にしわを寄せて、訝しげな視線が猫のほうに向いたので、うれしくなった。だから嬉々として言葉を続けた。
「また森にくるって、約束なの。だから預けた、んだけど……だめ、だった、かなぁ」
弾んでいた声が、だんだん尻すぼみになった。
言いながら気づいたのだ。あの「星くず」は猫の宝物だったけれど、くれたのは魔法使いだから、もしかしたら渡しちゃいけなかったのかもしれない、と。
それで、急に不安に襲われたのだった。
もし、だめなことだったらどうしよう。
もう抱っこしてもらえなくなるのかな。いってきますを、してくれなくなるのかもしれない。そう思うと、なんだか胸がズキンと痛んで、猫はこそりと魔法使いを見上げた。
彼は、ただじっと猫を見ていた。怒るでもなく、叱るでもなく、ただ無表情に――いつもと、同じように。
目が合えば猫を抱き上げて、膝の上においてくれた。猫が躊躇いがちに彼を見れば、優しく背をなでてくれた。いつもと、何も変わらない優しい仕草だったから、
(だめじゃ、ないんだ)
全身に感じるぬくもりに、そう言われた気がして、猫はゆっくりと体の力を抜いた。見上げた彼の顔が、僅かに微笑んでいるように見えて、条件反射のようにへらりと笑う。
そんな猫から、魔法使いはふと目をそらした。
魔法使いは、よくこうして窓から空を眺める。よくあることだったけれど、どうしてだろう。猫は、不安になったのだ。
彼が、空を見ているわけじゃないと、そう思ってしまったから。
空も、何も見ていないような。何か見えないものを見つめているような、そんな気がして、猫は動けなくなった。何も言えなくて、泣きそうになりながら魔法使いを見つめる。
「――寂しい、か?」
猫を見ないまま、魔法使いは声を落とす。
「あの人間と、一緒にいたいか? 人の――。いや。なんでもない」
忘れてくれ、と魔法使いは猫をクッションの上に下ろした。
そのまま、何を言うでもなくベッドに寝転がる。静かに目をつむる魔法使いを、猫はじっと見つめていた。
人間と一緒にいる。
それは、ヴィアも言っていたこと。森を、出るということだった。
でも猫は森にいる。そういうものだと思っているし、これからも、それは変わらないのだと、そう思ってきた。
魔法使いが何を言いたかったのかは、猫にはわからない。
でも、何となく魔法使いがつらそうで、苦しそうで、だから猫は彼の襟元にすりすりとすり寄った。
「あのね。今日は、魔法使いにぎゅってされたまま、寝たい」
そう告げれば、魔法使いはそっと息を吐いて、自分の腕を枕にごろりと横向きに寝転がった。
あいている片手がポンポンとシーツの上をたたき、誘われるまま寝転がれば、大きな掌が猫を守るように抱きこんでくれた。
温かい安心感に包まれて、すぐに眠気がやってくる。ぼんやりしながら、明日はどこへいこうかな、なんて考えた。
ずっとヴィアのところに行っていたから、きっと夜にしか咲かないお花はもう咲いてしまっただろう。ちょっと残念だけど、まあ、いいか。そう思いながら、猫は幸せな気持ちで、静かに眠りに落ちた。
そんな猫を、魔法使いは相変わらず感情の読めない顔で、見つめ続けていたのだった。
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