お月さま色した、猫

久世ひろみ

文字の大きさ
上 下
9 / 35
2章 銀色姫物語

8話

しおりを挟む

 夜明けを告げるように帰ってきた魔法使いに、猫はいつも通り「おかえりなさい」を言って、その腕の中におさまった。

 毎夜繰り返してきたように、彼に抱かれて館へ入り、ミルクをもらって、日が昇るとベッドに入る。その間猫は何も話さず、うつむき加減でぼんやりとしっぽの先の青いリボンを眺めていた。
 それは、ヴィアが別れ際に「魔法使いがくれたの?」と問うたリボンだった。でも、魔法使いがくれたものじゃなかったから、猫はふるふると首をふる。
 どうして付け続けるのかわからないけれど、なんとなくはずす気にもなれない。だからずっと付けたままいるのだと答えると、ヴィアは少し泣きそうな表情で笑った。
 どうしてそんな顔をするのかな、と思ったけれど、ふと、気付く。

(そういえば、ヴィアの髪にも、おんなじリボンが付いてる)

 そう思った途端、なんだか胸の奥がざわざわと波立つ感じがして、猫は目をしばたたかせた。
 何だろう。頭の奥が、甘くしびれているようだった。
 じんじんと胸のどこかが熱い。ヴィアの髪にそよぐ青いリボンが、思考を巡る。

(思い出すな)

 頭の中で、誰かがそう命令する。
 どこかで聞いたことがある声だったけれど、魔法使いともヴィアとも違った。

 思い出すな。忘れていろ。
 それは、忘れていていいことだ。

 ちらり、自分のしっぽのリボンを一瞥すると、耳の奥がきんと痛い。

「……『星くず』を、渡したのか?」

 痛みと熱でぼんやりしていた猫は、ぽつりと落ちた声にびっくりして顔を上げた。
 ベッドに座っている魔法使いは、まんまるの猫の目を一瞥すると、そのまま窓の外に視線を投げた。それきり口を閉ざしてしまったけれど、魔法使いの声を聞いた刹那に、頭痛が引いて行く。ぐるぐと廻っていた思考が凪いで、猫は小さく息を吐いた。

「――あの、」

 落ち着くと、猫はそろりと声を出した。
 魔法使いから話し出すのは、本当に珍しい。まして、何かを問われるなんて、今まででも両手で数えられるくらいしかない。
 だから、猫は一生懸命になって言葉を探した。

「あの、ね。ヴィアに、『預けた』んだよ」

 考えて考えて、結局なんとか紡げたのは、ヴィアが言ったそのままだった。
 魔法使いは相変わらず返事をしてくれない。でも眉間にしわを寄せて、訝しげな視線が猫のほうに向いたので、うれしくなった。だから嬉々として言葉を続けた。

「また森にくるって、約束なの。だから預けた、んだけど……だめ、だった、かなぁ」

 弾んでいた声が、だんだん尻すぼみになった。
 言いながら気づいたのだ。あの「星くず」は猫の宝物だったけれど、くれたのは魔法使いだから、もしかしたら渡しちゃいけなかったのかもしれない、と。
 それで、急に不安に襲われたのだった。

 もし、だめなことだったらどうしよう。
 もう抱っこしてもらえなくなるのかな。いってきますを、してくれなくなるのかもしれない。そう思うと、なんだか胸がズキンと痛んで、猫はこそりと魔法使いを見上げた。

 彼は、ただじっと猫を見ていた。怒るでもなく、叱るでもなく、ただ無表情に――いつもと、同じように。
 目が合えば猫を抱き上げて、膝の上においてくれた。猫が躊躇いがちに彼を見れば、優しく背をなでてくれた。いつもと、何も変わらない優しい仕草だったから、

(だめじゃ、ないんだ)

 全身に感じるぬくもりに、そう言われた気がして、猫はゆっくりと体の力を抜いた。見上げた彼の顔が、僅かに微笑んでいるように見えて、条件反射のようにへらりと笑う。
 そんな猫から、魔法使いはふと目をそらした。

 魔法使いは、よくこうして窓から空を眺める。よくあることだったけれど、どうしてだろう。猫は、不安になったのだ。
 彼が、空を見ているわけじゃないと、そう思ってしまったから。

 空も、何も見ていないような。何か見えないものを見つめているような、そんな気がして、猫は動けなくなった。何も言えなくて、泣きそうになりながら魔法使いを見つめる。

「――寂しい、か?」

 猫を見ないまま、魔法使いは声を落とす。

「あの人間と、一緒にいたいか? 人の――。いや。なんでもない」

 忘れてくれ、と魔法使いは猫をクッションの上に下ろした。
 そのまま、何を言うでもなくベッドに寝転がる。静かに目をつむる魔法使いを、猫はじっと見つめていた。

 人間と一緒にいる。
 それは、ヴィアも言っていたこと。森を、出るということだった。

 でも猫は森にいる。そういうものだと思っているし、これからも、それは変わらないのだと、そう思ってきた。

 魔法使いが何を言いたかったのかは、猫にはわからない。
 でも、何となく魔法使いがつらそうで、苦しそうで、だから猫は彼の襟元にすりすりとすり寄った。

「あのね。今日は、魔法使いにぎゅってされたまま、寝たい」

 そう告げれば、魔法使いはそっと息を吐いて、自分の腕を枕にごろりと横向きに寝転がった。
 あいている片手がポンポンとシーツの上をたたき、誘われるまま寝転がれば、大きな掌が猫を守るように抱きこんでくれた。

 温かい安心感に包まれて、すぐに眠気がやってくる。ぼんやりしながら、明日はどこへいこうかな、なんて考えた。
 ずっとヴィアのところに行っていたから、きっと夜にしか咲かないお花はもう咲いてしまっただろう。ちょっと残念だけど、まあ、いいか。そう思いながら、猫は幸せな気持ちで、静かに眠りに落ちた。

 そんな猫を、魔法使いは相変わらず感情の読めない顔で、見つめ続けていたのだった。
しおりを挟む

処理中です...