お月さま色した、猫

久世ひろみ

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7章 星くずの森のふたり

30話

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「……ヴィア。王、さま」

 お城で見ていたふたりは、いつもきれいな服を着ていた。服はいつもぱりぱりして皺ひとつなかったし、どこをみても汚れひとつない。けれど今、ふたりはびっくりするくらい、あちこちボロボロだった。
 服は枝や草で引っ掛けたのかほつれて破れていたし、足元は土で黒く汚れていた。布のない頬や手の甲には浅い傷がたくさんあったし、髪もほつれて、汗で顔や首にまとわりついていた。

 そんな状態でも、ヴィアは猫の困惑した顔を見つけて、ほぅ、と息をついた。その顔には確かな安堵が浮かんでいて、猫はちくりと胸が痛む。

「急に、いなくなるから――心配した」

 無事で、良かった。弱く微笑みながら言うヴィアに、猫はくしゃりと表情を歪めた。
 黙って出てきてしまったから、きっととても心配したのだろう。声も手も、全部振り切って飛び出して、だからヴィアも、王さまも追いかけて来てくれた。あんな、傷だらけになってまで。
 そう考えると、猫はいたたまれない気持ちになって、しゅん、と目じりを下げる。

「……貴殿が、魔法使いなのか?」

 ぽつり、と声を落としたのは、ヴィアの後ろにいた王さまだった。
 その声は固く、魔法使いをじっと見据えていたけれど、魔法使いはちらりと彼を見るだけだった。一瞬の沈黙の中で、猫とヴィアの視線が王さまに集まる。その中で、彼は視線を逸らさないまま、きゅっと唇を噛んだ。

「話はすべて、聞かせていただいた。二年、彼女を……レイルーンをそばに置いてくれて、感謝する。レイルーンを、愛してくれて、ありがとう」

 そうして、すっと頭を下げた。
 隣に立つヴィアは、その行動に目を見張ったけれど、声を上げたりはしなかった。魔法使いも何も言わず、何もしない。その部屋にはただ静謐な空間が広がり、誰も、動くことができなかった。

「王、さま」

 痛いくらいの沈黙を、猫は小さな声で破った。
 王が顔を上げるのを待って、猫は息をひとつ吸い込み、ゆっくりと口を開く。

「……ありがとう。ママを、愛してくれて」

 その言葉を告げた彼女の目に、涙はなかった。ただ薄く、笑っていた。

「ママは、最期にあなたを呼んでいました」

 淡々と告げる、それは思い出した記憶のひとつ。
 生まれてからの事を、ママに愛された五年を。独りぼっちになってしまった日。王さまに連れられてお城に来たことも、殺されそうになったことも、寂しくて悲しかった十年も、なにもかも。
 だから、伝えなくちゃいけないと思った。思い出したことを。
 ママの――エステルの娘である自分にしか、伝えることは、出来ないのだから。

「ママは、そばにいられなくてごめんってずっと泣いてました。あなたを、ずっと愛してたんですね」

 だからきっと、ママは幸せだった。
 愛する人のそばにいられなかったけれど、愛する心を、ずっと持っていたから。愛する人がいたから、ママはきっと、幸せだったのだろうと思う。
 そう告げれば、ゲイツは小さな声で「そうか」とだけ呟いて、そっと顔を伏せた。その肩が小刻みに震えていて、だからレイルーンはそっと目を伏せた。

「――あたしを十年もお城に置いてくれたこと、感謝してます」

 それは、嘘偽りのない言葉だった。
 十年、確かに独りぼっちだったけれど、守ってくれていたから。身よりのない子どもを引き取って、育ててくれた。そうして今、こうしてあたしの幸せを願い、全てを話してくれた。だから、ありがとう。
 そう言って猫が笑えば、彼の瞳からぽろりと涙がこぼれた。

「幸せを、見つけたんだな」

 君だけの、幸せを。言うゲイツの顔にもまた、小さく笑みが浮かんでいた。眉間にしわは、もうない。柔らかな顔で猫を見守る顔は、まるで父親のようだった。
 レイルーンの記憶に「父」というものはないけれど、父親って、こんな感じなのかな、と思う。どんなものか分らないけれど、父と呼ぶのなら、この人がいい。そんな風に思って、猫は少しだけ照れ臭そうに微笑んだ。

「――レイルーン」

 名を告げられて、猫ははっと顔を上げた。
 ドアの前にはヴィアが立っていて、優しい笑顔が、猫に向けられていた。

「君は、どうしたい?」

 短く問われて、猫はヴィアを見る。ヴィアも、王さまと同じように柔らかな笑顔を湛えていて、それに勇気づけられるように、魔法使いを見つめる。

「あたしは……魔法使いと、一緒に、いたい」

 はっきりと告げる猫に、ヴィアは少しだけ瞑目する。
 ああ、こんな顔ができるのか、と思う。そのくらい、瞳には強い意志と、決意が光っていたから、ヴィアは優しく、惚けるくらい優しく笑った。

 初めて彼女を見たときの事を、ヴィアは不意に思い出す。
 痩せ細って酷い身なりの少女の、その美しい髪から目が離せなかった。思えば、一目見たときから、恋をしていたのかもしれない。そう思うと、なんだかおかしかった。

 会えない十年の間に心を壊しかけていた彼女の、笑顔が見たかった。そのために必死だった。初めて彼女に名前を呼んでもらって、驚きすぎて声も出なかった自分を笑った、あの笑顔が愛おしくて、仕方がなかった。
 一緒にいて、幸せにしてあげたい。そう強く願ったのは、彼女が初めてだった。
 彼女が幸せになることが、自分の幸せだと思った。それが愛なのだと知った。
 「好き」なんかじゃ足りないくらい、初めて愛した人だった。だからこそ、幸せになってほしい。できるなら自分が幸せにしたかったけれど、彼女はもう、幸せを知っていた。それを教えてあげられたのは、与えてあげたのは、きっと魔法使いだったのだろう。

 だから、自分が彼女のためにできるのは、もう、手放すことだけ。
 それは辛い決断だったけれど、そんな風に思える恋ができたことが、なんだか誇らしかった。
 だから、もう、大丈夫。そう思って、ヴィアは優しく猫に微笑みかけた。
 そうして、そっと魔法使いに視線を移す。相変わらず彼は何も見てはいなかったけれど、ヴィアは口を開いた。

「魔法使い。昔、聞いたことがあるんだ」

 君が、元は人間だった、って。
 そう告げられた途端、魔法使いの肩がびくりと震えた。
 ゆっくりと視線が動き、それはヴィアで止まる。彼の視線は鋭くて、氷のようだと思った。どうしてそれを知っている。その眼はそう語っていて、けれどヴィアは優しい笑みを崩さない。

「エズライリア王国の最古の資料。王都があった場所をかつて治めていた貴族の記録があった。今はもう滅ぼされて、誰も知ることのない話だ。――君は、その家の後継者となるはずだった子、だろう?」

 何でもないことのように語るヴィアを、王も驚いたように見つめていた。
 その本を見つけたのは、本当に偶然だった。城の地下書庫に、大量の埃に埋もれるようにしてあった本を開いたのは、魔法使いに連れ去れたレイルーンを探す、手がかりになればと開いてみたからだった。
 そうして過去を知ったからこそ、どうして彼女を連れて行ったのかを知りたいと思ったのだ。そうでなかったら、きっと問答無用で彼女を救おうと、魔法使いに挑みかかっていったかもしれない。
 何も知ろうとせずに。

 その言葉に、魔法使いは目をそらすように、視線を窓の外に投げた。
 ヴィアは、それをじっと見つめると猫にそっと笑みを向ける。

「レイルーン。僕は君が好きだよ。とても、愛してる。だから――幸せに、なるんだよ」

 そう言って、そのまま踵を返す彼に、猫は何も言えない。
 ヴィアと王さまの背中を、泣きそうな笑顔で見送って、それからそっと魔法使いの隣に座った。
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