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#1 実験体
07 もう何年も繰り返している
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「ということで、眠剤を変えてください」
「えっと、処方だと一晩で一錠までってことになってるんだけど、昨晩はどのくらい飲んだの?」
「大さじ二杯ってとこですね」
「私そんなに出してないよね?」
「処方箋を複製して薬局に出してるので」
「とりあえず、いつものように自助グループへの参加を進めるとともに、もう他に行ってもらっていいかな?」
「患者を見捨てるんですか!」
「いやもう、無理だって。君も分かってるでしょ。無理なの」
ということで、俺はいくつめかのメンタルクリニックに見放されてしまった。
薬さえ変えてくれれば、俺は何年でも通い続けるからめちゃくちゃいい客だと思うんだけど。
いい医者ほど俺を見捨てるんだよな。
どうしようかな、薬以外は何も得られないと評判の医者にかかってみようか。
いやでも、それはそれで嫌だし……
こういう時に便利なお薬がある。
早い話が違法薬物だ。
裏路地にはいつも売人がたむろしているが、彼らはやる気の出る薬ばかりを売りつけてきて、ぐっすり眠れるお薬は売ってくれない。
それでも次の日活動できれば問題ないと、以前お薬→残業→稼ぐ→お薬という罠に嵌った俺の対策に、レビィは時間外勤務をするとその分給料を差し引いてくる。
逆残業手当だ。クソが。
さて、ぐっすり眠れるお薬は、もっと奥の方で売ってくれる。
それこそ容量用法を誤って使うと翌朝どころか翌年になってもぐっすり眠れてしまう代物だ。
というか、多分俺じゃなかったら誤らなくても三日三晩は爆睡する。
楽しいショッピングを終えて、俺が部屋に戻ったのは23時過ぎだった。
馬鹿みたいに抱え込んだ睡眠薬と安定剤を深夜テンションのままテーブルに並べる。
「これで今日はぐっすり眠れるな」
「そうですねぇ、何よりですよ」
「ああ、眠れる……」
俺は子供時代に酷く俺を苦しめた大人たちが俺の周りを囲んでいることに気が付き、慌てふためいて必死で逃げた。
両足はまるで重石を載せられたように上手く動かないし、冷たい笑い声はいつまでも後ろから聞こえてくる。
俺は泣き叫び、必死で助けを呼んだ。
街の中で声は出ず、喉奥で滾るばかりでただ涙だけが全てだった。
見知らぬ街を、雪の降るような灼熱の中、のろのろとした足取りで走り続けた。
俺は狂っているのか、と、不意に俺は俺を見て思った。
俺の中にある俺が、俺を見ていた。
幼く走り続ける俺を、灼熱の雪原に焼かれながら走る俺を、嘲笑うように憫笑する。
ああ、俺はずっと、ずっと狂っている。
正しくあろうとして、ただ正常であろうとして、苦しいと泣きながら、それでも上手くいかず、こうやって薬に溺れては、酒に逃げて、自分を忘れることでしか、俺を保てない。
正常であることが、通常であることが、平均であることが、俺にとっては難しすぎて、優しい手を振り払ってでも苦悶し、そしてその手はいつも俺を救ってくれるのに、俺はその手を傷つけてばかりで、ごめんなさいの一言も伝えられない。
苦しかった。
どうしようもなく苦しくて、幾度も感じた死の恐怖を、恐らく俺はまた思い出して泣いて、泣いて、黒い髪の女が俺を見て笑った。
「私が側にいますよ、先輩」
彼女が悪魔なのか、それとも天使なのか、俺にとってはどちらでも良かった。
優しい手を失ってしまうのが怖くて、それを俺は握れなくて、だから俺は彼女を掴んだ、彼女の抱く死神の鎌を、痛みも忘れて握りしめた。
知らない色の血が流れた。彼女は微笑んだ。
「起きてください。これは夢ですよ」
「……あ、ああ…………そう、だな……おはよう……」
「おはようございます」
周囲を見渡して、俺はようやく夢に気づいた。
昨日は、どうやらそのまま倒れて気絶するように眠ったらしい。
薬を飲んだところはしっかりと現実だった。
そしてどうやら、逃げ出したときも俺はまだ覚醒していたらしく、部屋には物が散乱していた。
「……酷いな」
覚醒しているときに見る幻覚と幻聴、そして睡眠時の悪夢が重なると、俺はもう、自分がぐちゃぐちゃに引き裂かれたように感じる。
昨日の睡眠薬は、酷い起床だったが少なくとも悪夢は見なかったし、そして幻覚も、幻聴もなかった。
あの医者は、何万通りもある薬の組み合わせで、俺の悪夢を消してくれたのかのだろうか。
そして一時的にだが、幻覚と、幻聴も。
もう忘れた。
でもたぶん、昨日の朝だけは俺は正常だったのかもしれない。
だとすると、あの酷い吐き気は、俺が正常であったが故のものだったのか?
「……片付けよう」
何も考えたくなかった。
俺はたぶん正常な状態では生きられないのだろうと突き付けられた。
俺は、酔って、狂って、そうでないと、息もできない。
決して俺は天寿を全うすることはできないだろう。
いつか思考とともに心臓が止まって、呼吸も止まって、それで終わりだ。
「……あー、吐きそう」
「大丈夫ですか? また、お薬が合わなかったんじゃないですかねぇ」
「そんなわけないだろ、売人が俺専用に調合してくれてるんだよ」
俺がより深く、より強く、依存するように。
「……なあ、俺、頭おかしいか?」
「さあ、どうでしょうね。ご自分ではどう思われるんですか?」
「正常だよ」
「それなら、そういうことでいいんじゃないでしょうかねぇ」
彼女は俺の幻聴で、彼女は俺の幻覚だ。
でもこうして俺は彼女と話すことができるし、触れることもできる。
俺にとっての彼女がどういう存在なのか、俺にはよく分からない。
理想の友人なのか、それとも恐怖している敵なのか、それとも、俺の魂を刈り取る死神なのか。
俺はこういうとき、たまに思う。
彼女は俺の幻覚じゃなくて、俺以外にもその存在は見えていて、その存在を証明することができるんじゃないかって。
だから俺は彼女に手を伸ばす。
黒い髪が指先に触れる。
「どうしたんですか?」
「……なんでもないよ」
でも俺は彼女に触れるたび、自分が狂っていることを再認識する。
穏やかな幻覚に、爪の先まで蝕まれているのだと知る。
俺はもう狂っているのに、これ以上狂いたくないと思いながら、狂気に飲み込まれていく。
無視できると知りながら俺は彼女に応え、語りかけ、問いかける。
そういうとき、彼女は必ずニヤリと口元を歪ませて首を傾げ、俺の問いには答えない。
俺を不安にさせるように、「どうしてでしょう」と問い返す。
俺はゆっくりと、選択して狂気に飲まれていく。
一人でいなければ、俺は彼女を無視するだろう。
他者に対して平常を装いたい俺は、彼女を無意識の下に閉じ込めて、決して人前に現れないようにする。
それなのに俺は一人でいたいと願う。
部下もいらない、仲間も友達も。人恋しくて恋人に逃げても、結局最後は一人でいたいと願う。
俺にとっては狂った姿こそが、当たり前のように自然の姿だから。
正常でいれば吐き気がこみあげて、薬でそれを押さえつけ、本来の自分を偽りながら、意味も分からず笑顔で「大丈夫」などとぬかす。
俺は狂っていて、頭がおかしくて、それなのに平静を装って、正常な人間の皮を被っている。
それがなんだか、とても笑える。
「……なあ、クロ」
「何ですか?」
「お前、どうしていつも俺の側にいるんだ?」
「そりゃあ、そういうものだからですよ」
「お前は誰なんだ?」
「私はクロですよ」
「俺は誰だ?」
「先輩ですよ」
「なんで先輩って呼ぶんだよ」
「そりゃあ、先輩だからに決まってるじゃないですか」
「お前は俺の敵なのか?」
「さあ、どうでしょうね」
「お前は俺の友達なのか?」
「私には分かりませんよ」
「お前は俺を助けようとしてるのか?」
「先輩が助かろうとしていないだけですよ」
「お前は俺を殺そうとしてるのか?」
「死にたいと呟いてるのは、先輩じゃないですか」
「お前は俺なのか?俺の投影なのか?」
「先輩は不思議なことを言いますね。私はクロですよ、先輩」
「お前は俺の妄想なのか?」
「違いますよ、先輩。私はあなたの幻覚です」
腐臭がする。たまに思う。俺はもう死んでるんじゃないかって。
幻覚は彼女じゃなくて俺の方で、俺こそが彼女の幻覚として生き続けてるんじゃないかって。
もう俺は死んでいて、そして生きているのは彼女の方で、そんな簡単なことに気が付けないまま、俺は日々を過ごしてるんじゃないだろうかと。
その時、突如大きな音がして俺は思わずビクッと体を震わせた。
……電話だった。俺は受話器を取る。
『やっと出てくれた。ブロウ、今日は珍しく良く寝られたのか?』
「え、ああ……うん。そうみたいだな。何か、用事あったの?」
『いや、なんかさ。お前、好きな人できたんだって?』
耳が早すぎる。
当然、レビィからの情報だろう。こうなることは予想してたけど。
「ああ、そうだよ」
『レビィがさ、心配してたぜ? 随分熱を上げてるみたいだから、またほら、大変なことになるんじゃないかって』
ジャックさんは精一杯のオブラートを広げて包んでそう言った。
優しいと言うべきか、甘いというべきか。
「大丈夫だよ、俺だってもう大人なんだから。自分のことくらい自分でできるよ」
『うん、ま、そりゃそうなんだけどな。なんか俺も心配なんだよ、お前……なんかあった? すごい落ち込んでるように聞こえるけど』
「気のせいだよ。俺、普通に元気だし」
『また病院追い出されたんだろ? 変な薬に手出してないよな?』
「大丈夫だよ」
『なあブロウ、何かあるんなら相談してくれ。怒らないから。俺はお前を信頼してないわけじゃないし、お前の自主性だって尊重したいと思ってる。でも、お前のことが大事なんだよ。分かるだろ?』
「大丈夫だよジャックさん。俺、元気だから」
『……あー、仕事きりついたら一旦、会って話そう? お前、多分自分では気づいてないだろうけどかなり辛そうだよ』
「大丈夫だよ。俺は元気だから。だから大丈夫だよ。気にしないでジャックさん、ジャックさんも忙しいでしょ」
脊髄で会話している。何も考えていない。
俺は嘘を吐くのは下手だが、「大丈夫」だけは上手に言える。
「俺のことは気にしなくていいよ。それより、レビィは? 俺から見てる分には、全然普通だったけど。俺、レビィのことが心配だよ」
『ああ……レビィな。なんか、どうにかなんかの実験が失敗したか頓挫したか、そんなようなことで落ち込んでることはどうにか吐かせたんだけど……いやもう、ホント、あんなに落ち込んでるレビィ見たのなんて、何十年ぶりだろうな……』
俺からして見たら通常通りだったんだけど、やっぱりジャックさんは別の印象を抱いているらしい。
「俺は大丈夫だから、レビィのこと心配してあげて。俺は大丈夫だから」
『ブロウ、もし勘違いしてるなら言っとくけど、俺は別にレビィとお前に順位つけてるつもりないからな? お前もレビィも、俺にとってはどっちも大切だよ』
「俺の調子悪いのなんていつものことだから大丈夫だよ」
『あ、調子悪いって吐いたな。ほら見ろ、お前いっつも不調を隠すんだから。辛いことあったらちゃんと言えよ? 俺は仕事で忙しそうに見えるかもしれないけど、家族以上に大事なものなんてないんだからさ』
家族、か。
ジャックさんにとって、俺は本当に家族なのだろうか。
俺はルシーに拾われて、ルシーの息子として育てられて、たぶんルシーは俺のことを実の息子と言って憚らないくらいに俺を愛してくれてたけど、でもたぶん、ジャックさんにとっては、「兄が拾ってきた捨て子」「兄の息子」っていうただのそれだけの話で、実の兄弟であるレビィの方が大切に決まっている。
なおレビィに関しては、「ルシファー様の関心を奪いやがって」と俺を恨んでいる節すらある。
「……ジャックさん、俺は、ジャックさんの家族じゃないよ」
俺はそう小さく呟いた。
もちろん、通話は既に途切れている。
「えっと、処方だと一晩で一錠までってことになってるんだけど、昨晩はどのくらい飲んだの?」
「大さじ二杯ってとこですね」
「私そんなに出してないよね?」
「処方箋を複製して薬局に出してるので」
「とりあえず、いつものように自助グループへの参加を進めるとともに、もう他に行ってもらっていいかな?」
「患者を見捨てるんですか!」
「いやもう、無理だって。君も分かってるでしょ。無理なの」
ということで、俺はいくつめかのメンタルクリニックに見放されてしまった。
薬さえ変えてくれれば、俺は何年でも通い続けるからめちゃくちゃいい客だと思うんだけど。
いい医者ほど俺を見捨てるんだよな。
どうしようかな、薬以外は何も得られないと評判の医者にかかってみようか。
いやでも、それはそれで嫌だし……
こういう時に便利なお薬がある。
早い話が違法薬物だ。
裏路地にはいつも売人がたむろしているが、彼らはやる気の出る薬ばかりを売りつけてきて、ぐっすり眠れるお薬は売ってくれない。
それでも次の日活動できれば問題ないと、以前お薬→残業→稼ぐ→お薬という罠に嵌った俺の対策に、レビィは時間外勤務をするとその分給料を差し引いてくる。
逆残業手当だ。クソが。
さて、ぐっすり眠れるお薬は、もっと奥の方で売ってくれる。
それこそ容量用法を誤って使うと翌朝どころか翌年になってもぐっすり眠れてしまう代物だ。
というか、多分俺じゃなかったら誤らなくても三日三晩は爆睡する。
楽しいショッピングを終えて、俺が部屋に戻ったのは23時過ぎだった。
馬鹿みたいに抱え込んだ睡眠薬と安定剤を深夜テンションのままテーブルに並べる。
「これで今日はぐっすり眠れるな」
「そうですねぇ、何よりですよ」
「ああ、眠れる……」
俺は子供時代に酷く俺を苦しめた大人たちが俺の周りを囲んでいることに気が付き、慌てふためいて必死で逃げた。
両足はまるで重石を載せられたように上手く動かないし、冷たい笑い声はいつまでも後ろから聞こえてくる。
俺は泣き叫び、必死で助けを呼んだ。
街の中で声は出ず、喉奥で滾るばかりでただ涙だけが全てだった。
見知らぬ街を、雪の降るような灼熱の中、のろのろとした足取りで走り続けた。
俺は狂っているのか、と、不意に俺は俺を見て思った。
俺の中にある俺が、俺を見ていた。
幼く走り続ける俺を、灼熱の雪原に焼かれながら走る俺を、嘲笑うように憫笑する。
ああ、俺はずっと、ずっと狂っている。
正しくあろうとして、ただ正常であろうとして、苦しいと泣きながら、それでも上手くいかず、こうやって薬に溺れては、酒に逃げて、自分を忘れることでしか、俺を保てない。
正常であることが、通常であることが、平均であることが、俺にとっては難しすぎて、優しい手を振り払ってでも苦悶し、そしてその手はいつも俺を救ってくれるのに、俺はその手を傷つけてばかりで、ごめんなさいの一言も伝えられない。
苦しかった。
どうしようもなく苦しくて、幾度も感じた死の恐怖を、恐らく俺はまた思い出して泣いて、泣いて、黒い髪の女が俺を見て笑った。
「私が側にいますよ、先輩」
彼女が悪魔なのか、それとも天使なのか、俺にとってはどちらでも良かった。
優しい手を失ってしまうのが怖くて、それを俺は握れなくて、だから俺は彼女を掴んだ、彼女の抱く死神の鎌を、痛みも忘れて握りしめた。
知らない色の血が流れた。彼女は微笑んだ。
「起きてください。これは夢ですよ」
「……あ、ああ…………そう、だな……おはよう……」
「おはようございます」
周囲を見渡して、俺はようやく夢に気づいた。
昨日は、どうやらそのまま倒れて気絶するように眠ったらしい。
薬を飲んだところはしっかりと現実だった。
そしてどうやら、逃げ出したときも俺はまだ覚醒していたらしく、部屋には物が散乱していた。
「……酷いな」
覚醒しているときに見る幻覚と幻聴、そして睡眠時の悪夢が重なると、俺はもう、自分がぐちゃぐちゃに引き裂かれたように感じる。
昨日の睡眠薬は、酷い起床だったが少なくとも悪夢は見なかったし、そして幻覚も、幻聴もなかった。
あの医者は、何万通りもある薬の組み合わせで、俺の悪夢を消してくれたのかのだろうか。
そして一時的にだが、幻覚と、幻聴も。
もう忘れた。
でもたぶん、昨日の朝だけは俺は正常だったのかもしれない。
だとすると、あの酷い吐き気は、俺が正常であったが故のものだったのか?
「……片付けよう」
何も考えたくなかった。
俺はたぶん正常な状態では生きられないのだろうと突き付けられた。
俺は、酔って、狂って、そうでないと、息もできない。
決して俺は天寿を全うすることはできないだろう。
いつか思考とともに心臓が止まって、呼吸も止まって、それで終わりだ。
「……あー、吐きそう」
「大丈夫ですか? また、お薬が合わなかったんじゃないですかねぇ」
「そんなわけないだろ、売人が俺専用に調合してくれてるんだよ」
俺がより深く、より強く、依存するように。
「……なあ、俺、頭おかしいか?」
「さあ、どうでしょうね。ご自分ではどう思われるんですか?」
「正常だよ」
「それなら、そういうことでいいんじゃないでしょうかねぇ」
彼女は俺の幻聴で、彼女は俺の幻覚だ。
でもこうして俺は彼女と話すことができるし、触れることもできる。
俺にとっての彼女がどういう存在なのか、俺にはよく分からない。
理想の友人なのか、それとも恐怖している敵なのか、それとも、俺の魂を刈り取る死神なのか。
俺はこういうとき、たまに思う。
彼女は俺の幻覚じゃなくて、俺以外にもその存在は見えていて、その存在を証明することができるんじゃないかって。
だから俺は彼女に手を伸ばす。
黒い髪が指先に触れる。
「どうしたんですか?」
「……なんでもないよ」
でも俺は彼女に触れるたび、自分が狂っていることを再認識する。
穏やかな幻覚に、爪の先まで蝕まれているのだと知る。
俺はもう狂っているのに、これ以上狂いたくないと思いながら、狂気に飲み込まれていく。
無視できると知りながら俺は彼女に応え、語りかけ、問いかける。
そういうとき、彼女は必ずニヤリと口元を歪ませて首を傾げ、俺の問いには答えない。
俺を不安にさせるように、「どうしてでしょう」と問い返す。
俺はゆっくりと、選択して狂気に飲まれていく。
一人でいなければ、俺は彼女を無視するだろう。
他者に対して平常を装いたい俺は、彼女を無意識の下に閉じ込めて、決して人前に現れないようにする。
それなのに俺は一人でいたいと願う。
部下もいらない、仲間も友達も。人恋しくて恋人に逃げても、結局最後は一人でいたいと願う。
俺にとっては狂った姿こそが、当たり前のように自然の姿だから。
正常でいれば吐き気がこみあげて、薬でそれを押さえつけ、本来の自分を偽りながら、意味も分からず笑顔で「大丈夫」などとぬかす。
俺は狂っていて、頭がおかしくて、それなのに平静を装って、正常な人間の皮を被っている。
それがなんだか、とても笑える。
「……なあ、クロ」
「何ですか?」
「お前、どうしていつも俺の側にいるんだ?」
「そりゃあ、そういうものだからですよ」
「お前は誰なんだ?」
「私はクロですよ」
「俺は誰だ?」
「先輩ですよ」
「なんで先輩って呼ぶんだよ」
「そりゃあ、先輩だからに決まってるじゃないですか」
「お前は俺の敵なのか?」
「さあ、どうでしょうね」
「お前は俺の友達なのか?」
「私には分かりませんよ」
「お前は俺を助けようとしてるのか?」
「先輩が助かろうとしていないだけですよ」
「お前は俺を殺そうとしてるのか?」
「死にたいと呟いてるのは、先輩じゃないですか」
「お前は俺なのか?俺の投影なのか?」
「先輩は不思議なことを言いますね。私はクロですよ、先輩」
「お前は俺の妄想なのか?」
「違いますよ、先輩。私はあなたの幻覚です」
腐臭がする。たまに思う。俺はもう死んでるんじゃないかって。
幻覚は彼女じゃなくて俺の方で、俺こそが彼女の幻覚として生き続けてるんじゃないかって。
もう俺は死んでいて、そして生きているのは彼女の方で、そんな簡単なことに気が付けないまま、俺は日々を過ごしてるんじゃないだろうかと。
その時、突如大きな音がして俺は思わずビクッと体を震わせた。
……電話だった。俺は受話器を取る。
『やっと出てくれた。ブロウ、今日は珍しく良く寝られたのか?』
「え、ああ……うん。そうみたいだな。何か、用事あったの?」
『いや、なんかさ。お前、好きな人できたんだって?』
耳が早すぎる。
当然、レビィからの情報だろう。こうなることは予想してたけど。
「ああ、そうだよ」
『レビィがさ、心配してたぜ? 随分熱を上げてるみたいだから、またほら、大変なことになるんじゃないかって』
ジャックさんは精一杯のオブラートを広げて包んでそう言った。
優しいと言うべきか、甘いというべきか。
「大丈夫だよ、俺だってもう大人なんだから。自分のことくらい自分でできるよ」
『うん、ま、そりゃそうなんだけどな。なんか俺も心配なんだよ、お前……なんかあった? すごい落ち込んでるように聞こえるけど』
「気のせいだよ。俺、普通に元気だし」
『また病院追い出されたんだろ? 変な薬に手出してないよな?』
「大丈夫だよ」
『なあブロウ、何かあるんなら相談してくれ。怒らないから。俺はお前を信頼してないわけじゃないし、お前の自主性だって尊重したいと思ってる。でも、お前のことが大事なんだよ。分かるだろ?』
「大丈夫だよジャックさん。俺、元気だから」
『……あー、仕事きりついたら一旦、会って話そう? お前、多分自分では気づいてないだろうけどかなり辛そうだよ』
「大丈夫だよ。俺は元気だから。だから大丈夫だよ。気にしないでジャックさん、ジャックさんも忙しいでしょ」
脊髄で会話している。何も考えていない。
俺は嘘を吐くのは下手だが、「大丈夫」だけは上手に言える。
「俺のことは気にしなくていいよ。それより、レビィは? 俺から見てる分には、全然普通だったけど。俺、レビィのことが心配だよ」
『ああ……レビィな。なんか、どうにかなんかの実験が失敗したか頓挫したか、そんなようなことで落ち込んでることはどうにか吐かせたんだけど……いやもう、ホント、あんなに落ち込んでるレビィ見たのなんて、何十年ぶりだろうな……』
俺からして見たら通常通りだったんだけど、やっぱりジャックさんは別の印象を抱いているらしい。
「俺は大丈夫だから、レビィのこと心配してあげて。俺は大丈夫だから」
『ブロウ、もし勘違いしてるなら言っとくけど、俺は別にレビィとお前に順位つけてるつもりないからな? お前もレビィも、俺にとってはどっちも大切だよ』
「俺の調子悪いのなんていつものことだから大丈夫だよ」
『あ、調子悪いって吐いたな。ほら見ろ、お前いっつも不調を隠すんだから。辛いことあったらちゃんと言えよ? 俺は仕事で忙しそうに見えるかもしれないけど、家族以上に大事なものなんてないんだからさ』
家族、か。
ジャックさんにとって、俺は本当に家族なのだろうか。
俺はルシーに拾われて、ルシーの息子として育てられて、たぶんルシーは俺のことを実の息子と言って憚らないくらいに俺を愛してくれてたけど、でもたぶん、ジャックさんにとっては、「兄が拾ってきた捨て子」「兄の息子」っていうただのそれだけの話で、実の兄弟であるレビィの方が大切に決まっている。
なおレビィに関しては、「ルシファー様の関心を奪いやがって」と俺を恨んでいる節すらある。
「……ジャックさん、俺は、ジャックさんの家族じゃないよ」
俺はそう小さく呟いた。
もちろん、通話は既に途切れている。
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