役立たずの雑用係は、用済みの実験体に恋をする。――神域結界の余り者

白夢

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#3 中央教会

31 警戒、狸寝入り

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 彼が現れたとき、ルシファー様は眠いと仰られてそのままガラスのテーブルに突っ伏していた。小さな寝息は正に子供のそれだ。

 取り留めのないことをぼんやりと考えながら、私はさらさらと流れる水の音に耳を澄ませていた。
 そこにこつこつとタイルを踏む音がしたので、否が応でも彼に気づいた。

「ごめんな、遅くなって」

 彼は重そうな鞄を置いて、空いている席に座った。

「楽しかったか?」

 彼は嬉しそうに微笑んで、私にそう言った。
 そして紅茶のポットの蓋を開けて中を覗き、すぐに蓋を閉じた。

 どうやら、彼もこの紅茶が嫌いだったらしい。
 小さな共通点が、少し嬉しい。

「ええ、とても……」
「そっか、それなら良かった。洗礼とか受けさせてもらったか?」
「いえ、お話させていただいただけです」
「そうなんだ、どんな話したの?」
「……色々ですよ」
「色々?」
「ええ。貴方の女癖の悪さとか」
「え?」

 私が端的にそう言うと、彼は慌てたように首を振った。

「いやそんなことないって、女癖は悪くねーよ。一度好きになった人のことは、ずっと好きなんだよ俺」
「ええ。貴方は一途であるが故にタチが悪いと」
「タチが悪い?」
「最初はいいけど最初だけとも仰られていました」
「えっ、お前もしかしてルシーと俺の悪口大会開催してたの?」
「はい」
「待って泣きたい」

 彼は白い髪の根元に細い指を差して、がりがりと引っ掻きながら呻く。
 本当に綺麗な人だ、何をどうやっても様になる。

 彼は残っていたマカロンを摘まんで、口の中に放り込んだ。

「……貴方は、私との関係を反対されたりはしなかったんですか?」

 私は彼にそう尋ねた。
 私の正面にはルシファー様が座っているので、ブロウは私のほとんど左隣の円卓に座っている。

「最初は反対されたぜ、そりゃ。俺には誇れない経歴が色々あるからさ」
「今はどうなんです? 貴方が私に惚れているという異常事態に対し、誰一人として何一つ疑問を抱かないわけがないと思うのですが」
「そんなに異常事態か? むしろクロは逆のことで俺を責めるぜ」

 彼は意外にもそう言った。
 私と彼にしか見えない、幻である彼女のことを彼が口にすることはほとんどない。
 彼は彼女のことを話したがらないのだ。

 だから最近は私もクロさんのことを聞かない。

「クロさんは、貴方をお責めになるんですか?」
「俺のことを精神的に殺そうとするのがクロの基本スタンスだから」

 彼はなんでもないことのようにそう言う。

 そういえば、彼は「有名な人に見てもらったが彼女は誰にも見えなかった」と言っていた。
 今思えば、その「有名な人」というのは、ルシファー様のことなのだろう。
 霊的な存在なのならば、魂の糸を見る彼が見逃すはずがない。

 私の記憶の中の彼女は、確かにいつも彼に対して敵対的で、彼のことを蔑んでいるような雰囲気があった。
 だから彼が彼女に対して警戒心の一つも抱いていないことに、違和感すら覚えた。

「可愛いところもあるんだけどな。俺のどうでもいい話とかに付き合ってくれたりするし」
「可愛いところですか?」

 私は少し思い返してみた。

 しかし、彼女はいつも彼を責めるばかりだったような気がする。
 彼が倒れたときだって彼女に言われて死を選ぼうとしていたくらいだ。

 そう思うと、彼女という存在が彼にとって危険なものに思われて仕方がない。

「そういえば、お前の前ではあんまり出てこないよな。俺が頼んだせいもあるのかな?」
「頼んだんですか?」
「そりゃ俺だって、せっかくお前といるのに幻覚と話したくないしさ」
「彼女は貴方の幻覚なんですか?」
「さあ、俺には分からないんだよ。聞いてもはぐらかされるし」
「……」

 彼はそのことについて、何も疑問を抱いていないらしい。
 彼のせいで、残り少なかったマカロンはほとんど底をついてしまった。

「彼女は私のことをどう思っていらっしゃるんでしょうか。私より長い間、貴方と一緒に過ごしていらしたんでしょう?」
「『可哀想に、お姫様は自分の意思に関わらず王子様と結ばれる運命なんですねぇ』って言ってるよ。要は、俺なんかに惚れられて可哀想だってことらしい」
「私は貴方について、私が不幸だとか、不運だとか思ったことはありません。むしろ私では、貴方に相応しくありませんよ。もっと素敵な方が、大勢いらっしゃいます」
「なんでそうなるんだよ、お前の考え方がよく分からないんだけど……あんまりこんなこと言いたくないけどさ、正直お前は俺にはもったいないくらいに良い子なんだよ。多分お前が思っているほど、俺はまともな人間じゃない」

 彼は私の方を見つめて、小さく首を傾げる。

「まともな人間じゃないってどういうことですか?」
「そのままの意味なんだって、薄々感じてるだろお前も」

 彼はそう言って白い歯を見せて苦笑いした。

「それを差し引いても貴方と私の外見格差は大きいと思いますよ」
「俺は別に、頭から暖炉に突っ込んでもいいけど」
「どういう意味ですか?」
「俺が頭部に大火傷を負ったらお前も自分に自信が持てるだろ?」
「貴方は火傷をしても素敵だと思いますよ」
「そんなわけあるかよ!」
「そんなに大声出したらルシファー様が起きますよ」
「ルシファーがこんなところで寝るわけないだろ、もう起きてるよ」
「え?」

 するとルシファー様はひょこっと起き上がって苦笑した。

 「こらブロウ、しーってしてなきゃ駄目だろう?」

 と子供をあやすように子供みたいなジェスチャーで小さな人差し指を自分の唇に押し当てる。

「買い物は楽しかったかい?」
「いつも通りだよ。……ルシー、ジャックさんは大丈夫なのか?」
「ショックが大きいんだろう。大丈夫だよ、ジャックのことは私がちゃんと面倒を見るさ、結界の中にさえいてくれれば、あの子のことはちゃんと分かる。まだ少し、受け入れ難いようだが」
「ジャックさんのレビィに対する愛は、狂気と背徳感を内包するほどに深く激しく異常なものだったもんな……レビィを失ったら絶対に後を追うと思ってたんだけど……」

 ……狂気と背徳感を内包するほどに深く激しく異常な愛?

 私は少し引っかかったが、すぐに首を振って思い直す。
 ジャック様はルシファー様の双子の弟様、亡くなった所長様のお兄様だ。
 きっと、よほど慈愛に溢れたお方なのだろう。

 ブロウが入院した時に会ったときは、そういう感じには見えなかったけど……

「きっと心情としては後を追いたいくらいだろうが、結界の中では私がいる限りあの子は死ねないからな。こういうときだけは、あの子の双子の兄で良かったと思うよ」
「ジャックさんもしんどいだろうな……いや、ルシーを責めてるわけじゃなくてさ」

 ……結界の中では死ねないとはどういうことだろうか。私にはよく分からない。

 けれどどうやらお二人にとっては当たり前のことらしく、口を挟むのも憚られて、私は大人しく両手を膝の上に置いて黙る。

「ところでルシー、ブライドに洗礼受けさせてあげてもらえるか?」

 ブロウはすぐに話題を変えた。ルシファー様は「ふむ」と頷く。

「予約とかいるんだっけ?」
「予約は必要ないが、明日がいいな。司祭の都合で」
「明日か……ブライド、お前今日泊ってもいいか? 教会に宿泊施設があるんだよ。もちろんお前が嫌なら帰るけどさ」

 あら珍しい、と私は少し目を見開いて聞き返す。

「私を一人で置いて帰られるんですか?」
「そんなわけないだろ。逆にお前、俺がお前のことを一人で置いて帰れると思うの?」
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