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挿話 万死に値す
しおりを挟む黒い薄雲が小雨を落とす夜。
心地いいとさえ思う雨音が微かに聞こえるだけで、王宮は静まりかえっていた。
まだ朝と呼ぶにはあまりに早い夜刻。ゆえに辺りに広がるのは真っ黒闇と、少し湿った土の匂いがする空気だけ。
闇夜に溶けながら、王宮を音もなくひた走っていた。
シーゲル国の王宮への侵入は止めたほうがいいと、同業の男から聞いたことがある。
だが垂涎ものの高額な報酬額を提示されれば、受けてしまうのが流れの殺し屋というものだ。
標的は温室育ちのお姫様と聞く。
王族だからこの値段なのかと納得はしたが、それにしたって高い額だ。蝶よ花よと大切に育てられたお姫様を殺すなど、あまりにも容易いというのに。
懸念があるとすればもちろん警備だ。
一国の王女、しかも唯一の後継者とあらば如何ほどの厳重さかと偵察してみれば、どういうわけだかお姫様の周囲には護衛の騎士が一人いるだけ。
拍子抜けするほどの不用心さだ。
シーゲルは平和な国だが、よもや王女にここまで手薄とは。脳内が花畑にでもなっているのだろう。おめでたいことだ。まあだからこそ、こうして俺のような者に暗殺依頼が来るのだし、俺も任務を楽に遂行できる。
王女殺しで少々気負っていたが、どうやら至極簡単な仕事になりそうで気分も軽い。
さっさと件のお姫さんを殺して帰ろう。
無人の王宮の廊下を無音で走り、姫の部屋の前へとたどり着き、そっと白い扉を開け中に入った。
――――と思ったのに、気付けば廊下に横たわり体を糸のようなので拘束され動けないでいた。
「!?」
今、何が起こったのだ。
中に入ろうとした瞬間、真っ暗闇の中からさらに黒い常闇が疾風の如く襲いかかり、無数の細い糸が繭のように全身に絡まったかと思ったら地面に横たわっていた。
途端、本能的に到底敵わない獣に見下ろされているような圧倒的威圧感を覚え、全身の毛穴からべったりとした冷たい汗が噴き出した。
大きく黒い手で頬が潰れるほど顔を地面に圧しつけられ、体中が細い糸によって肉が食い込むほど強く捕縛されているせいで、指先一つまともに動かない。
体だけでなく、文字通りの命を掌握されたような感覚。
混乱が続く頭の中で、その圧倒的な敗北を理解したと同時に、純粋な恐怖が一気に体中をかけ巡った。
「 万死に値す 」
怒気に塗れた地を這うような低い声が聞こえ、覚えたての恐怖がさらに急速に膨らんでいく。
うるさいほど心臓が鼓動を打っているというのに、体のどこにも血液が巡っていないかのように熱が引いていく。意図せず体は震えてしまうというのに力が入らない。否、入ったところでどうしようもない。
「これより先は我が主であり我が宝、ユリアーネ殿下の寝所。それを知って尚、進もうと愚行しようとしたならば、その命不要とみなして排除する」
「待っ……待ってくれ!」
「五月蠅い黙れ。我が姫の健やかな眠りは、貴様の矮小な命よりも重く、尊い」
「ッゥギィ!?」
全身にまとわりつく細く硬い糸が、さらに強くめり込んできた。僅かにでも動けば糸と皮膚が擦れ、擦過傷ができていく。そしてその傷にも容赦なく糸は食い込み、生まれたての傷をさらに深くし、痛みを増幅させている。
この糸は、手に嵌められた黒い革手袋から出しているのか……?
この男、標的の護衛として常に傍にいたやつだ。騎士だというのに剣を持っていない、髪も瞳も服も手袋も、すべてが真っ黒な不気味な男。
様子見したときから、こいつは俺の存在に気が付いていた。だけど俺をその場で捕えることはしなかった。見た目は不気味だが、温室育ちのお姫さんと同じく、剣すら持たない平和ボケした騎士なのだろう、
そう思っていたのに。
なんだこの男は。
恐怖とはこの男のことを言うのだ。
こいつは恐怖を凝縮して具現化した人間だ。
今まで死線を何度も超えてきた。死というものに怯えることすらもうなくなっていたというのに、今、ただひたすらに恐ろしい。
体の震えが止まらない。だがそうすると皮膚にめり込む糸がより深まって、ひどく痛く、ひどく苦しい。
「雇い主を言え。愚物」
その質問に答えることはできない。
暗殺を依頼する際は仲介を挟むため、雇い主の素性をこちらが知ることは絶対にない。つまりは知らないから答えられない。
それが当たり前だ。
この男は、俺が答えられないことを知っている。
知っていて、聞いてきているのだ。
あぁ……終わりだ。
俺の命は、ここで終わるんだ。
だけど今なお感じる恐怖から逃れられるのなら、ここで死んだほうが遥かにマシだと思えるほど、このどす黒い男がただひたすらに恐ろしかった。
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