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わかっていない
しおりを挟む「姫様……」
心配に塗れた声で呼ばれ俯いていた顔を上げると、ヴォルフが私の傍で跪いていた。その表情は先程の声と同様、心配でたまらないと言っているのが見て取れる。
「険しいお顔をされておいでですが、いかがなされましたか。姫様を煩わすものがあれば、俺が葬って参ります」
「何バカな冗談を言ってるの」
急なヴォルフのブラックジョークをいなしつつ、目の前のお菓子に手を伸ばした。
「……ではお気に召す者でもいましたか?」
「そういうんじゃなくって」
聞いた本人だって私に気に入った者ができたと思っていないだろうが、あえてここは話題を逸らした。
「後宮ではお互い気に入る気に入らないなんて関係ないでしょ」
この後宮で「お気に召す」などといった色恋沙汰など皆無だ。
すべては後継のため。私は誰が一番国にとって利益となるかを選べばいいだけのこと。その者個人を気に入る必要なんてない。
そしてその者と粛々と閨を共にすればいいだけ。今悩んでいるのは、誰にすべきかということだ。
再び熟考の沼に沈もうとしたが、ヴォルフが私の背後からすぐ傍まで来た気配に思考を止めた。
「……姫様は何もわかっておられない」
その声はどこか澱んでいた。
「私が何を分かっていないというの?」
「男を。そしてご自身を」
ヴォルフは顔を俯かせながらゆっくりと近づき、私に覆いかぶさるようにソファの背もたれに手をついた。その腕一本がまるで壁のように思え、絶対に逃がさないと私に知らしめているように思えた。
「地位や名誉や私欲のためだけに、姫様に近づきたいと思う者だけとは限りません。ただ近づきたい。己のものにしたい。そんな男の本能をくすぐる魅力を姫様は十二分に持っておられる」
「ヴォルフ、何を……」
「なのにそのことを姫様はわかっておられない。その無垢さを男は悦び、そして穢してみたいと思うのです」
元々持つヴォルフの凄艶さを凝縮しているような、息が詰まるほどの色香に声が出ない。ヴォルフの真っ黒な瞳は、そんな私をじっと見据えたまま手慣れた様子で髪を一房取り、そのまま頬擦りするように自身の頬に撫でつけた。
その仕草に私が目を奪われていることを悦び、その髪を今度は口元に当て、なめらかさを唇で愉しんでいるように見える。
――――この男は、こんなにも綺麗だったのか。
徐々に顔が近づき、視界がヴォルフに占められてるほど距離が詰まったとき、ヴォルフの胸元にそっと手を当てた。
「やめなさい」
「あっ……」
まるで何かの暗示が解けたようにヴォルフが気を取り戻し、跳ねるように距離を空けた。
他者がいる際は人形のように動かない表情には、誰が見ても明らかな狼狽の色が見て取れる。
「申し訳ございま……」
「あなたの言う通り、私は男性に対して無知なことがあるようね」
傍でヴォルフが狼狽えていることがわかるが、そちらに顔は向けず、手に持っていたリストに視線を固定した。
「だけど私は今のようなことをしてくれなくても、あなたが言葉で伝えてくれさえすれば理解するわ。だってヴォルフを信じているもの」
「姫様っ……」
「だから私はこれからもあなたを信じたい。……わかるわよね?」
「はい……」
「疲れたから夕食は部屋で摂るわ。あなたは今日はもう下がりなさい」
ヴォルフは何か言いたげに口を開いたが何も言葉にせず、そのまま静々と部屋を出た。
先程までも静かな部屋だったが、冷たさすら感じるほどの静けさとなった部屋で大きく息を吐いた。もはやソファに座ることすら億劫でそのままゴロンと寝転んだ。
そしてすぐに体をジタバタと動かし、長い長いため息を吐いた。
「……めちゃめちゃビックリした……」
誰かに聞かせるでもなくぽつりと零した。
恐らく私の顔は今、見れたものではないほど赤くなっていることだろう。そして私の心臓は、誰にも聞かせたくないほど大きく鼓動を打っている。
まったく勘弁してほしい。
いくら褒められ慣れているとはいえ、あんなふうに攻められたことなどないのだ。それが慣れ親しんだヴォルフであろうと、そしてヴォルフが本気じゃなかろうと、ドキドキするものはする。
吐息すらかかるほどの距離で、ヴォルフを見るのは初めてだ。
目元を陰らす長いまつ毛も、腹立つほどなめらかな肌も、少し出ている喉仏も、たじろぐほど私を見つめる切れ長の黒い目も。
そのすべてが、綺麗だった。
今まであんなこと、一度だってしたことなかったのに。
「ダメね、男の人にちょっと近づかれただけでこんなドキドキするなんて。……ましてや相手はヴォルフなのに」
明日どんな顔してヴォルフに会えばいいのだろう……。
いくら考えても頬の熱は収まってはくれなかった。
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