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王子様はいらない
しおりを挟む月渡り当日の夜。
夕食を終え、あとはメイドたちによって念入り準備を行ってから後宮に行くことになっている。
準備が始まったら明日の朝まで夜伽の相手以外の男性と会うことは許されない。もちろん護衛であるヴォルフもだ。
すでに準備は整えられているらしいが、その前に少し自室で休みたいと申し出て、窓の外に浮かぶ月を眺めていた。
傍らにいるヴォルフは一見するといつも通りだが、私からするとどこか落ち着かないように思えた。
「姫様……お飲み物をご準備いたしましょうか?」
「いいえ、いらないわ」
私がこれからする行為に対して狼狽えているのがありありとわかる。だがヴォルフがソワソワしてくれているおかげで、私のほうが落ち着いていられるのだがら、窘めるも責めることもしなかった。
ヴォルフにも言った通り、逆ハーレム計画を承諾した時点で覚悟していたし、ドミニク様の言う通りで癪だが私は子を産む義務がある。
恋愛事は面倒臭いと思っていたのだから、相手は誰でもいい。
そう思っていたことは嘘じゃない。
――――だけど今は……。
「そろそろ準備に行かないとね」
自分に言い聞かせるように、明るい声で零したが私達の間に漂う空気は温まらなかった。
「姫様、もしお嫌なのであれば今からでも王配殿下へ……」
「嫌なんかじゃないわ。言ったでしょ? 少し緊張しているだけ」
好きでない者と結ばれるなど貴族の中ではよくある話。ましてや王族が恋をしてその相手と結ばれるだなんて、奇跡が起きるか死ぬ気で努力するかのどちらかだ。
私はむしろ恵まれているほうだ。
兄弟がいれば他国に嫁ぐことも大いにありえたし、親子ほど年の離れた結婚だってある。それなのに私は後宮を作り、その中から相手を選ぶことができる。
これでも嫌だと駄々をこねるほど、私は子供でもなければ無責任でもない。
「……でも、そうね。ヴォルフ、私の横に来て跪いてくれないかしら」
「わかりました」
私が座る一人掛けのソファのすぐ横に来てから姿勢よくヴォルフは跪いた。それはまるで黒い大型犬のように思えて、思わず頬が緩む。
「このひじ掛けを掴むように両手を置いて」
「はい」
「私がいいと言うまで手を動かしてはだめよ」
私に言われるがまま黒い皮手袋を嵌めた手をひじ掛けに置いた。すると今度はまるでお手をしているように見えた。
何をされるのだろうと戸惑っているのがよくわかる。
皆はヴォルフのことを無表情で何を考えているかわからないと言うけれど、私に言わせてみたら彼こそわかりやすい人はいないと思う。
すぐに狼狽えるし、すぐに喜ぶし、すぐに怒る。
ヴォルフは誰よりも表情豊かだ。
「いい? 動かないでね」
私の言葉に従順に従うヴォルフの目を包むように手で覆い、ヴォルフが困惑している状態のままそっと唇を重ねた。
「っ⁉」
唇を重ねたままヴォルフがひどく驚き、肩がビクッと上がったのが見えた。
手をついたまま顔を離そうとしたせいで一度唇が離れたが、すぐさま追いかけ再び唇を塞ぐと、今度は大人しくキスを受け入れた。
唇を合わせただけ。
甘さも熱も何もない、ただの行為だ。
ゆっくりと唇を離したが、ヴォルフが私のことをどういう表情で見つめているのか見たくなく、目元を覆う手はそのままでいた。
手のひらにヴォルフの長いまつ毛が軽く当たり、くすぐったい。そのまつ毛の動きから、ヴォルフの目が泳いでいるのかもしれないと想像すると小さく笑みがこぼれた。
「姫様、なぜ……」
「気付きたかったの。自分の気持ちに」
耳元でそう囁くと、未だひじ掛けに置いたままのヴォルフの手に力がこもり、指が布を滑る音がした。
そこでようやくヴォルフの目を覆う手を離した。ヴォルフは案の定眉根を寄せた顔で、跪いたまま私を見上げていた。
「私がヴォルフを好きかどうか、わかりたかったの。それが今ようやくハッキリとわかったわ」
「……っ」
「わかったはずなのに、スッキリしないものなのね、恋心って。……やっぱりめんどくさくて私には向いていない」
ヴォルフが好き。
今のキスでハッキリとわかった。
きっかけなんてない。いつからなんてわからない。だけど確かに好きなのだと、私自身が私に言っている。
恋に落ちたんじゃない。
恋に気付いたのだ。
自分の中に元々あったものを、今ようやく気付いたのだ。
でもあえていつ芽生えたのかと考えたら、子供の頃ヴォルフが城から出ていく際、私に握手を求めたときかもしれない。
どうして今まで気付かなかったのかと呆れるほど、目印をつけたように恋心が胸の内を支配している。
でもこれは、私には必要ないものだ。
子供の頃、おとぎ話をよく読んだ。
かわいそうな女の子が、王子様と恋に落ちて、お姫様となって幸せになる話。
だけど私はすでにお姫様で、かわいそうでもない。
だから、私には王子様なんて必要がないのだ。
ソファから立ち上がり、跪いたままのヴォルフを見下ろした。
「嫌な思いをさせてごめんなさいね。でも、あなたは何も見ていない。あなたはただ、唇に何かが触れただけよ」
万が一私とキスをしたと知れれば、責を問われるのがヴォルフのほうだ。
だから今のキスはなかったことにする。
彼の意図に反した行為をしてしまったことを申し訳なく思うけれど、どうしてもしたかったのだ。
「姫様、違うのですっ……! 戯れだと言ったのは 俺では姫様を幸せにすることができないと……そう思っての言葉で……」
この男は、今の言葉がもう一度私を振っていると気づいていないのだろう。
ヴォルフは私を大切に思い、愛している。
だがそれは些か重い敬愛だ。私が抱いているものとは大きく違う。
でもそれが正しい。
私が間違っているのだ。
そしてその間違いを見せるのは、今このときだけだ。
「今日はもう休みなさい。明日からまた、護衛騎士としてよろしく頼むわね」
そのまま振り返らずに部屋を出た。
ヴォルフが呼び止めたような気もしたが、どうだっただろう。
私が創り出した幻聴だったかもしれない。
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