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姫様
しおりを挟む俺の預け先となったガーランド卿は、表向きは王宮騎士団を退団し名誉団長だが、本来は王家直属の殺し屋を生業としており、師は俺を暗殺者へと育て上げた。
俺に剣の才能がないとわかると早々に他の武器をあてがい、すぐさま俺の得意とするものは糸だと見抜くと徹底してその技を磨き、実力を認められた後に王配殿下の口添えもあって、俺は晴れて姫様の護衛となった。
それからは幸せな日々だ。
常に姫様の背後にいるからいつだってローズピンクの波打つ髪を見ていられる。
皆が姫様を「殿下」と言う中、俺だけは「姫様」と呼ぶことを許されている。
「ヴォルフ」と俺を呼ぶ声一つで、全てを投げうってでも傅こうと思える。
常に前向きで気丈なのに、俺の前でだけ愚痴や本音を漏らしてくれる。
姫様、あなたには一生わかりますまい。
それがどんなに俺を喜ばせているか。幸せにしているか。
一生、姫様のためだけに生きていける。
それをどれほど幸福に思っているか、姫様には一生お分かりにはなりますまい。
姫様の傍にいられる。
それだけで幸せ。
幸せ。
……だと思っていたのに――――
『何かを疑問に感じたら、紙に書いてみなさい。それは後から見てみるととても簡単に答えを出せるものかもしれないぞ』
師匠に引き取られてすぐの頃、暗殺業に見合わぬ快活な笑みで師匠が言った。
字をまだうまく書けないから、その練習も兼ねてのことだったのだろう。
そして早速俺は一つ疑問を書いた。
『どうして後から見たら答えが出るものが、今はわからないのだろう』と。
師はそれを見て「愉快、愉快」と大きく笑っていた。
そんな幼い俺の質問が描かれたノートを、久々に手に取った。
もう何を書いたのか覚えていない。だがずっと中身を見ず、だけど捨てることもせずに持っていた。
カーテンの隙間から見える空は、すでに明るくなっていた。
わかっていたけど、やっぱり眠れなかった。
少し早いけれど姫様のお目覚めのお茶を準備しよう。そう思ったが今朝は姫様は後宮で目覚めるから、お茶は必要ないと事前に言われていることを思い出した。
姫様はもうとっくに事を終えて、まだお眠りになっているのだろう。
姫様のことを一番に思っているのも、わかっているのも自分だと思っていた。
だけどもう、俺の知らない姫様を見た者がいる。
姫様の肢体の美しさを知り、姫様のあえかな声を聞き、姫様を暴いた者がいる。
それは今日だけじゃなく、これからも続いていく。
そして姫様は俺じゃない男との子を産み、俺じゃない誰かと結婚する。
「……っ」
胃の中が逆流しそうになり、奥歯を噛み締めた。
これ以上何を欲しいと言うのだ。
姫様が一時の戯れでも俺を好きと言い、唇を合わせてくれて、この先も俺を護衛として望んでくれている。それはこれ以上ないほどの誉れで、幸せだ。
なのに、合わさった唇が離れたとき、小さな頭を引き寄せてもっと貪りたいと思ってしまった。あの薄い唇を開いてそのままねじこみ、口内を舐りたくなった。
「月渡りになんて行かないでくれ」と、頑是ない子供のように縋りたくなった。
胸を締めつけられているような苦しみを覚えながら、古いノートをそっと開くと拙い文字が綴られていた。
『どうして姫様はいつも輝いていたのだろう』
『どうして姫様を見ていると手を繋いでみたいと思ったのだろう』
『どうして姫様と一緒にいると胸の奥があたたかくなったのだろう』
ノートの至る所に『姫様』の文字があり、まるで当時の自分の頭の中を直接覗いているような気になる。……いや、今も大して変わっていないか、むしろもっと頭の中は姫様に占められていることだろう。
師匠の言っていたことが、今ならわかる。
あのときわからなかったたくさんの疑問の答えを、今ならたった一言で答えられる。
俺は――――。
「クラムロス卿!」
切羽詰まった声と共に部屋の扉がけたたましく叩かれた。
ベッドを下りてノートを仕舞ってから扉を開けると、王宮警備をしている騎士が息を切らして立っていた。
ただならない状況であることが窺え、一番嫌な予想が頭に浮かぶ。
「どうした」
「殿下が……、ユリアーネ殿下が何者かに攫われました!」
よし、殺そう。
激情に飲まれない訓練のおかげで冷静にそう思い、部屋を飛び出した。
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