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月蕩酒はいらない
しおりを挟む「なるほどね。でも思ったよりも時間がかかったのね」
「お待たせをしてしまい申し訳ございません。今お話した件についてはすぐに片付いたのですが、他の件に多少手間がかかりまして」
「他の手間というのは、あなたが今後宮にいること?」
「おっしゃる通りです」
「……待って。じゃあ私が散々閉じ込められていたのは、ヴォルフが後宮入りする準備のせいだったってこと?」
「閉じ込めていたなど異なことを。姫様はご自身でもお気づきではないようでしたが、かなり衰弱しておいででした」
そんなことはないと言い返すことはできなかった。
数日間の絶飲絶食と寒さに関する療養はもちろん、光が全くない暗闇にい続けることは思った以上に精神を摩耗した。
疲弊しているのは体よりも心だったのだ。
もう安全だというのに、今でも眠るとあの暗闇の中に閉じ込められている夢を見て、夜中に何度も目が覚める。
心がまだ治りきっていないことを悟られないようにしていたけれど、ヴォルフにはお見通しだったようだ。
「ヴォルフが後宮入りできたってことは、陛下も王配殿下もあなたを認めてくれたということよね?」
「はい。そうです」
「王婿としてではなく婿候補として後宮入りしたのは、この逆ハーレム計画を中途半端に頓挫させないため?」
ヴォルフと想いが通じ合った今、当然ゆくゆくは彼を王婿にしたいと思っている。だが一度始めてしまった逆ハーレム計画を私の気持ち一つで頓挫させてしまったら、王族の信用問題にもなりかねない。
だから表向きは逆ハーレム計画は実行しているように見せなければならない。
それにそもそもこの逆ハーレム計画は、男性不妊がきっかけで創られている。
当然ヴォルフだって当てはまるため、いきなり王婿にすることが難しいことはわかっていた。
「もちろんそれが一番の要因です。ですが、今の後宮は今後の姫様に必要です」
「どういうこと?」
「今いる者は全員、姫様のために動く存在となり得る者ばかりです。そのために予め俺のほうでも選定をしておきました。テオドア卿の処遇に関しては少々悩んでおりましたが、自ら姫様に忠誠を誓ったと言っておりましたのでそのままに」
まるであいつは見どころがあるとでも言いたいように、ヴォルフが誇らし気に言ってきた。
後宮を作ったときから、どんどん人が減っていたのはもちろん知っているし、それにヴォルフが関与しているだろうということは、なんとなくわかっていた。
それは私に対して無礼な者だったり、王配派の者を排除しているのだとわかっていたから黙認していたが、それだけでなく未来の私の腹心となる者を見定めてくれていたらしい。
正直そういうことは私自身がすべきことだから、ヴォルフがしたことはあまり褒められたことではないのだが、とりあえず今日のところは褒めてあげることにしよう。
そう思ってヴォルフの頭を撫でてやると、嬉しそうに目を細めた。
「あと、イテラ病のことですが、俺はほぼ確実に罹患していません」
「なんでそんな言い切れるの?」
誰しもが「自分は罹っていない」と思って後宮へ来ている。でもイテラ病は無症状で罹ることもある病だ。
そんな自信満々で言われても「そっかぁ」とお気楽な返事などできない。
「イテラ病が流行していたとき、俺は閉じこもっていましたから」
「あ……」
言われてみれば確かにそうだ。
ヴォルフがあの物置部屋を出た十年前に、既にイテラ病は無くなっていた。それまでずっとナディアとしか触れ合っていなかったヴォルフは罹患している可能性が極めて低い。
そのことを「よかった」とは口が裂けても言えない。
結果として良かったとしても、ヴォルフのあの暗く寂しい過去を良いものとは到底できないのだから。
複雑な顔をしていたのだろう。ヴォルフが眉を下げた笑みを浮かべて私の手を握ってくれた。
いつもの革手袋はつけておらず、ヴォルフの体温がじんわりと伝わってきて、自分の中の硬く結んだ糸がほどけるような気持ちになる。
「……昔、かわいそうな女の子が王子様に助けられるっていうありふれた内容の本を読んだの」
その手を握り返しながら、そっと声を落とした。
ヴォルフはそれを黙って聞いていた。
「それを読んで、あぁ私にはきっと王子様なんて来ないんだわ、だって私はかわいそうなんかじゃない。ものすごく恵まれていて幸せなんだもの、って思ったの」
「姫様らしいお考えです」
楽しそうにヴォルフが笑った。
それに釣られて私も笑みを浮かべた。
「だから私が、誰かを助けてあげられる王子様になりたいって思った。……でも結局私は、いつも助けてもらってばかりのお姫様だった」
「そんなこと……」
「でもヴォルフが」
言葉を被せると、ヴォルフはそのまま黙って耳を傾けた。
「目が覚めたとき、私に『助けてくれたのは姫様だ』って言ってくれたでしょう? すごく、本当にすごく、嬉しかったの」
国のために生きる。
それが生まれたときから私に決められていた運命だった。
それを厭ったことはないし、これから先もその運命に従って生きていこうと思っている。
だけど私だって人間だ。
王女だから、王太子だから、国の唯一の後継だから付き従うのはでなく『ユリアーネだから』慕ってくれて、共に歩んでいこうと思ってくれる人が欲しかった。
そんな相手ができてうれしい。
その相手がヴォルフでうれしい。
そんなヴォルフが私を愛してくれて、本当にうれしい。
「私を、抱いて? ヴォルフ」
そっと耳元で囁くと、見るからにヴォルフの逞しい肩に力がこもった。
そのためにここにいるというのにと、ちょっと揶揄い混じりに笑みが浮かんだが、私自身の心臓も早鐘のように打っている。
「っ、はい。ユ、リアーネ様……」
なんともぎこちない返事に、思わず笑ってしまった。
ヴォルフは照れ隠しのように私を抱き上げ数歩先にあるベッドへと下し、そのまま私を押し倒した。
だがそこから何をするでもなく、ベッドに広がるローズピンクの髪を撫でながら私を見下ろしている。
「ヴォルフ、怖いなら止めようか?」
手を伸ばし、頬を撫でながらそう尋ねるとヴォルフは驚いたように瞠目した。
「や、止めません! その、事後報告で申し訳ないのですが……」
「ん?」
「俺は自分のものと認識したものを、ユリアーネ様以外の他人に触れられることを厭う人間なのです」
それは知っている。ヴォルフはあまり物を持たないが、それゆえに持っているものをとても大事にしている。
「俺はユリアーネ様を自分のものと認識してしまいました。だから他の者がユリアーネ様に触れることを許容できません」
「あははっ!」
組み敷かれているというのに思わず笑ってしまった。
案の定ヴォルフは虚をつかれたように目を丸くしている。そんなヴォルフを可愛く思い、口元に笑みを浮かべたまま腕を伸ばしてヴォルフの頬に触れた。
「忘れたの? 私はあなたが好きなのよ?」
「わ、忘れてなどおりません!」
「ならよかった。ヴォルフ、私もね、あなたにしか触られたくないわ」
どこか感動したように、ヴォルフは目を輝かせた。
「それに、あなたが言ったじゃない。イテラ病に罹患していないって。……なら、わかるでしょ?」
挑発するように言った私の言葉にヴォルフは大きく息を呑んだ。
そしてすぐ餌を目の前にした獰猛な獣を思わせる表情へと変わり、そのまま噛みつくようなキスをされた。
月蕩酒は、私達には必要なかった。
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