闇を抱く白菊 —天命の盤—

アリスの鏡

文字の大きさ
19 / 159
第二章 獣の巣

十話 獣の頭

しおりを挟む
 それまで、天幕の中を微かに揺らめいていた油灯ゆとうの炎が、ぴたりと動きを止める。くすぶっていた香炉こうろの煙が、まるで時が凍りついたかのように、その場でよどむ。

 音も、光も、空気の流れさえも、全てが、男のその深淵しんえんのような瞳に吸い込まれていく。玉蓮は、息ができなかった。まるで、深い水の底に引きずり込まれたかのように。

 獲物を前にした獣のように、愉悦と残酷さを同居させた瞳の奥に宿る闇が、思考を奪おうとする。玉蓮は、どうにか拳を握りしめて、自分の手のひらに爪を立てる。そして、一歩踏み出し、深い恭敬きょうけいを込めるためにその場にひざまずいた。

赫燕かくえん将軍。玉蓮、参上いたしました」

 玉蓮は顔を伏せ、男に聞こえることのないように息を短く吐く。それを知ってか知らずか、男はふっと鼻で笑うと、豪奢ごうしゃな椅子に深く身をもたせかけ、ゆっくりと顎を上げた。その視線は、まるで獲物を吟味するように、玉蓮を見下ろしている。

「将軍、か」

 低く、明確なあざけりが、静寂に包まれた空間に響き渡り、玉蓮の心の臓が微かに跳ねた。

 赫燕は椅子から立ち上がると、悠然とした動作で玉蓮に歩み寄る。獣のようにしなやかに、足音一つ立てずに近づいてくるその気配に、玉蓮は無意識に息を詰めた。肺が潰れるような圧迫感がそこにある。

「ここではお頭だ、姫さん。国なんぞに忠誠を誓った覚えはねえからな」

 彼の足が玉蓮の目の前で止まり、その影が、彼女の顔に深く落ちた。玉蓮は顔を上げることもできず、黙って言葉を待つだけ。

劉義りゅうぎのところの、出来のいいお人形さんか」

 その言葉に、玉蓮が鋭く睨み返そうとした、刹那。乱暴に強い力で顎を掴まれた。声を上げる間もない。無骨で、厚いたこに覆われた指が、素肌に食い込むようにして顔を強引に上向かせる。

 目の前に迫る、白磁はくじのように白くつやめかしい美貌。だが、そこから発せられるのは、獲物の喉笛を狙う猛獣の殺気。

 獣じみた瞳が、玉蓮の顔から首筋、そして全身を舐めていく。鼻腔びこうの奥に、あの甘く凍てつく伽羅きゃらの香が再び立ち上がる。まるでこの男そのものが、香の発生源であるかのように。

「武芸も知略も悪くない、とな」

「……お頭の、お役に立てるよう、尽力いたします」

 揺るがぬ声で返した玉蓮の瞳を、赫燕は面白そうに覗き込み、喉の奥でくぐもった音を立てて笑った。

玄済げんさい国に売り飛ばされ、壊された姉のようにならねばいいがな」

 ——カッと、全身の血が逆流する。玉蓮は、顎を掴まれたまま、目の前の美しい悪魔を射殺すような眼差しで睨みつけた。息が荒くなり、奥歯がギリリと鳴る。

(……なぜ、姉上のことを)

 男の口の端が、三日月のように吊り上がる。

「玉蓮、か」

 赫燕の指先が、玉蓮の頬をなぞった瞬間、背筋が勝手に震えた。逃げ出したいのに、膝は地に縫い付けられたまま。

「いいだろう。朱飛しゅひに預ける」

 赫燕はそう言うと、玉蓮の耳元へと唇を寄せた。触れるか触れないかの距離。甘く凍てつく伽羅きゃらの香りが、玉蓮の肺を強引に侵食する。

「……だが、覚えておけ」

 鼓膜を震わせる、低く、重い響き。

「お前の首輪は、俺が持つ」

 熱い吐息が、烙印のように耳に残った。

 彼はそれだけを告げると、満足したように玉蓮から離れ、天幕の外へと出て行った。闇に溶け込むように消えていくその背中は、この世の全てのしがらみを拒絶し、己の道をひたすらに突き進む、孤高の獣のようだった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

行き遅れ王女、重すぎる軍団長に肉で釣られる

春月もも
恋愛
25歳、独身、第四王女システィーナ。 夜会でも放置されがちな行き遅れ王女の前に、ある夜突然現れたのは、ローストビーフを差し出す重すぎる第三軍団長だった。 形のない愛は信じない。 でも、出来立ての肉は信じてしまう。 肉に釣られ、距離を詰められ、気づけば下賜され、そして初夜へ。 これは、行き遅れ王女が重たい愛で満たされるまでの、ちょっとおかしなお話。

小さくなった夫が可愛すぎて困ります

piyo
恋愛
夫が、ある日突然、幼児の姿になってしまった。 部下の開発中の魔法薬を浴びてしまい、そのとばっちりで若返ってしまったらしい。 いつも仏頂面な夫が、なんだかとっても可愛い――。 契約結婚で、一生愛とは無縁の生活を送ると思っていたノエルだったが、姿が変わってしまった夫を、つい猫可愛がりしてしまう。 「おい、撫でまわすな!」 「良いじゃありませんか。減るもんじゃないし」 これまで放置されていた妻と、不器用に愛を示す夫。 そんな二人が、じれじれ、じわじわとお互いの距離を詰めていく、甘くて切ない夫婦再生の物語 ※完結まで毎日更新 ※全26話+おまけ1話 ※一章ほのぼの、二章シリアスの二部構成です。 ※他サイトにも投稿

ちょっと大人な物語はこちらです

神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な短編物語集です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

リトライさせていただきます!〜死に戻り令嬢はイケメン神様とタッグを組んで人生をやり直す事にした〜

ゆずき
恋愛
公爵家の御令嬢クレハは、18歳の誕生日に何者かに殺害されてしまう。そんなクレハを救ったのは、神を自称する青年(長身イケメン)だった。 イケメン神様の力で10年前の世界に戻されてしまったクレハ。そこから運命の軌道修正を図る。犯人を返り討ちにできるくらい、強くなればいいじゃないか!! そう思ったクレハは、神様からは魔法を、クレハに一目惚れした王太子からは武術の手ほどきを受ける。クレハの強化トレーニングが始まった。 8歳の子供の姿に戻ってしまった少女と、お人好しな神様。そんな2人が主人公の異世界恋愛ファンタジー小説です。 ※メインではありませんが、ストーリーにBL的要素が含まれます。少しでもそのような描写が苦手な方はご注意下さい。

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

ブラック企業で倒れた私を、ネトゲ仲間の社長が強制保護して溺愛しています

紅 与一
恋愛
過労で倒れた私を救ったのは、 ネトゲ仲間――そしてIT企業の若き社長。 「もう君は、僕の管理下だよ」 退院と同時に退職手続きは完了。 住む場所も、生活も、すべて彼に囲われた。 外出制限、健康管理、過保護な独占欲。 甘くて危険な“保護生活”の中で、 私は少しずつ彼に心を奪われていく――。 元社畜OL×執着気味の溺愛社長 囲い込み同棲ラブストーリー。

七日後に神罰が落ちる。上層部は「下を切り捨てろ」と言った——私は全員を逃がす

蒼月よる
ファンタジー
七日後、この港に神罰が落ちる。 追放された元観測士イオナだけが、その事実を知っていた。 しかも災害は自然現象ではない——誰かが、意図的に引き起こそうとしている。 港の上層部はすでに手を打っていた。「下層区画を緩衝被害区として切り捨てる」秘密契約。被害を最小限に見せかけ、体制を守る冷徹な計画だ。 イオナは元護送隊長ガルム、荷運び組合長メラとともに動き出す。 犯人を暴き、証拠を公開し、住民を逃がし、工廠を止める——すべてを七日で。 被害を「選ぶ」管理か、全員を「残す」運用か。 追放観測士の、七日間の港湾カウントダウン・サスペンス。 この作品は以下の箇所にAI(Claude Code)を利用しています。 ・世界観・設定の管理補助 ・プロット段階の壁打ち ・作者による執筆後の校正

復讐のための五つの方法

炭田おと
恋愛
 皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。  それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。  グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。  72話で完結です。

処理中です...