30 / 159
第四章 二つの闇
十六話 囮の王
しおりを挟む
◇◇◇
数日後、赫燕軍は、玄済国との国境に位置する城を落とすべく、進軍を開始した。
軍議の天幕に渦巻く、異様な熱気。息を詰める将兵たちの視線が一点に集中する中、赫燕軍の軍師・子睿が広げられた地図を前に、今回の戦術を淀みなく説明する。
泥と汗にまみれた陣営にあって、そこだけ雪が降ったかのような、染み一つない衣。完璧に結い上げられた髪。まるで、この天幕の中だけが、季節の違う場所であるかのような錯覚を覚える。彼の周りだけ、空気が冷たく澄んでいるのだ。
子睿の声は、理路整然と並べられるように、また歌うようにそこに落とされていく。
「——以上が、今回の策です。我ら本隊は、深く追撃されたと見せかけ、この谷間まで後退します」
その、策の内容に玉蓮の目が見開かれる。一歩間違えば、赫燕もろとも包囲殲滅される危険を孕んでいたからだ。
「子睿。お頭を……餌に、するのですか」
喉が締まり、声が裏返った。自身の声の響きに、一瞬、玉蓮は思わず目を伏せる。しかし、彼はにこやかな表情を崩さない。
「そうですよ、玉蓮。あなたは反対ですか?」
ゆったりとした柔らかい問いかけの声に、指先まで一気に冷たくなる。この場にいる誰もが、自軍の大将を囮に使うという策に異を唱えない。疑問の声すらも上がらない。
玉蓮の脳裏に、騎馬民族の古の教えがよぎる。彼らは王でさえも自ら前線に立ち、その武勇を示すことを尊ぶ。白楊国も確かに騎馬民族を祖に持つ国。それでも——
「しかし、総大将が囮になど……!」
「玉蓮」
玉蓮はなんとかして言葉を紡ごうとしたが、朱飛の静かな声によって打ち消された。
「お頭が前に出て、それを追ってくる敵を討つ。それが俺たちのやり方だ」
「ええ、朱飛。その通りです」
子睿は、まるで詩歌の宴にいるかのように、柔らかく優雅に頷く。玉蓮は息を呑み、再び地図に視線を落とした。
「子睿。お頭を餌にすると言っても、敵がそこまで深追いしてくるという保証は?」
栗色の髪を掻きあげながら、迅が問う。迅の問いに、子睿は少しも動じることなく、扇子で口元を隠して、にやりと笑った。
「保証、ですか。ええ、ありますとも。捕虜が、面白いことを歌っておりました。『我らが兵糧は三日も保たぬ』と」
その一言に、将たちの顔色が変わる。
「兵站が滞っているのです。理由は定かではありませんが、あちらのお国の問題のようですね。故に、敵のあの剛将であれば、必ず短期決戦に乗ってくる」
「おー、なるほどな」
「退路は、朱飛隊がこの獣道に潜み、我らが通り抜けるまで死守。そして、お頭の本隊を追撃してくる飢えた犬たちの、その側面を突くのです」
赫燕に視線を向ければ、彼は杯を弄びながら、興味もなさそうに一同を眺めていた。その目がふと向けられ、玉蓮の肩が微かに跳ねる。
数日後、赫燕軍は、玄済国との国境に位置する城を落とすべく、進軍を開始した。
軍議の天幕に渦巻く、異様な熱気。息を詰める将兵たちの視線が一点に集中する中、赫燕軍の軍師・子睿が広げられた地図を前に、今回の戦術を淀みなく説明する。
泥と汗にまみれた陣営にあって、そこだけ雪が降ったかのような、染み一つない衣。完璧に結い上げられた髪。まるで、この天幕の中だけが、季節の違う場所であるかのような錯覚を覚える。彼の周りだけ、空気が冷たく澄んでいるのだ。
子睿の声は、理路整然と並べられるように、また歌うようにそこに落とされていく。
「——以上が、今回の策です。我ら本隊は、深く追撃されたと見せかけ、この谷間まで後退します」
その、策の内容に玉蓮の目が見開かれる。一歩間違えば、赫燕もろとも包囲殲滅される危険を孕んでいたからだ。
「子睿。お頭を……餌に、するのですか」
喉が締まり、声が裏返った。自身の声の響きに、一瞬、玉蓮は思わず目を伏せる。しかし、彼はにこやかな表情を崩さない。
「そうですよ、玉蓮。あなたは反対ですか?」
ゆったりとした柔らかい問いかけの声に、指先まで一気に冷たくなる。この場にいる誰もが、自軍の大将を囮に使うという策に異を唱えない。疑問の声すらも上がらない。
玉蓮の脳裏に、騎馬民族の古の教えがよぎる。彼らは王でさえも自ら前線に立ち、その武勇を示すことを尊ぶ。白楊国も確かに騎馬民族を祖に持つ国。それでも——
「しかし、総大将が囮になど……!」
「玉蓮」
玉蓮はなんとかして言葉を紡ごうとしたが、朱飛の静かな声によって打ち消された。
「お頭が前に出て、それを追ってくる敵を討つ。それが俺たちのやり方だ」
「ええ、朱飛。その通りです」
子睿は、まるで詩歌の宴にいるかのように、柔らかく優雅に頷く。玉蓮は息を呑み、再び地図に視線を落とした。
「子睿。お頭を餌にすると言っても、敵がそこまで深追いしてくるという保証は?」
栗色の髪を掻きあげながら、迅が問う。迅の問いに、子睿は少しも動じることなく、扇子で口元を隠して、にやりと笑った。
「保証、ですか。ええ、ありますとも。捕虜が、面白いことを歌っておりました。『我らが兵糧は三日も保たぬ』と」
その一言に、将たちの顔色が変わる。
「兵站が滞っているのです。理由は定かではありませんが、あちらのお国の問題のようですね。故に、敵のあの剛将であれば、必ず短期決戦に乗ってくる」
「おー、なるほどな」
「退路は、朱飛隊がこの獣道に潜み、我らが通り抜けるまで死守。そして、お頭の本隊を追撃してくる飢えた犬たちの、その側面を突くのです」
赫燕に視線を向ければ、彼は杯を弄びながら、興味もなさそうに一同を眺めていた。その目がふと向けられ、玉蓮の肩が微かに跳ねる。
0
あなたにおすすめの小説
行き遅れ王女、重すぎる軍団長に肉で釣られる
春月もも
恋愛
25歳、独身、第四王女システィーナ。
夜会でも放置されがちな行き遅れ王女の前に、ある夜突然現れたのは、ローストビーフを差し出す重すぎる第三軍団長だった。
形のない愛は信じない。
でも、出来立ての肉は信じてしまう。
肉に釣られ、距離を詰められ、気づけば下賜され、そして初夜へ。
これは、行き遅れ王女が重たい愛で満たされるまでの、ちょっとおかしなお話。
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
小さくなった夫が可愛すぎて困ります
piyo
恋愛
夫が、ある日突然、幼児の姿になってしまった。
部下の開発中の魔法薬を浴びてしまい、そのとばっちりで若返ってしまったらしい。
いつも仏頂面な夫が、なんだかとっても可愛い――。
契約結婚で、一生愛とは無縁の生活を送ると思っていたノエルだったが、姿が変わってしまった夫を、つい猫可愛がりしてしまう。
「おい、撫でまわすな!」
「良いじゃありませんか。減るもんじゃないし」
これまで放置されていた妻と、不器用に愛を示す夫。
そんな二人が、じれじれ、じわじわとお互いの距離を詰めていく、甘くて切ない夫婦再生の物語
※完結まで毎日更新
※全26話+おまけ1話
※一章ほのぼの、二章シリアスの二部構成です。
※他サイトにも投稿
七日後に神罰が落ちる。上層部は「下を切り捨てろ」と言った——私は全員を逃がす
蒼月よる
ファンタジー
七日後、この港に神罰が落ちる。
追放された元観測士イオナだけが、その事実を知っていた。
しかも災害は自然現象ではない——誰かが、意図的に引き起こそうとしている。
港の上層部はすでに手を打っていた。「下層区画を緩衝被害区として切り捨てる」秘密契約。被害を最小限に見せかけ、体制を守る冷徹な計画だ。
イオナは元護送隊長ガルム、荷運び組合長メラとともに動き出す。
犯人を暴き、証拠を公開し、住民を逃がし、工廠を止める——すべてを七日で。
被害を「選ぶ」管理か、全員を「残す」運用か。
追放観測士の、七日間の港湾カウントダウン・サスペンス。
この作品は以下の箇所にAI(Claude Code)を利用しています。
・世界観・設定の管理補助
・プロット段階の壁打ち
・作者による執筆後の校正
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
リトライさせていただきます!〜死に戻り令嬢はイケメン神様とタッグを組んで人生をやり直す事にした〜
ゆずき
恋愛
公爵家の御令嬢クレハは、18歳の誕生日に何者かに殺害されてしまう。そんなクレハを救ったのは、神を自称する青年(長身イケメン)だった。
イケメン神様の力で10年前の世界に戻されてしまったクレハ。そこから運命の軌道修正を図る。犯人を返り討ちにできるくらい、強くなればいいじゃないか!! そう思ったクレハは、神様からは魔法を、クレハに一目惚れした王太子からは武術の手ほどきを受ける。クレハの強化トレーニングが始まった。
8歳の子供の姿に戻ってしまった少女と、お人好しな神様。そんな2人が主人公の異世界恋愛ファンタジー小説です。
※メインではありませんが、ストーリーにBL的要素が含まれます。少しでもそのような描写が苦手な方はご注意下さい。
ブラック企業で倒れた私を、ネトゲ仲間の社長が強制保護して溺愛しています
紅 与一
恋愛
過労で倒れた私を救ったのは、
ネトゲ仲間――そしてIT企業の若き社長。
「もう君は、僕の管理下だよ」
退院と同時に退職手続きは完了。
住む場所も、生活も、すべて彼に囲われた。
外出制限、健康管理、過保護な独占欲。
甘くて危険な“保護生活”の中で、
私は少しずつ彼に心を奪われていく――。
元社畜OL×執着気味の溺愛社長
囲い込み同棲ラブストーリー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる