79 / 159
第六章 首輪の在り処
四十一話 盤の動き出す音
しおりを挟む
天幕の出口の前で、再び対峙し、別れの挨拶を告げ、一礼した。形式的なその流れの中で、玉蓮の視線が崔瑾のそれと、一瞬だけ確かに絡み合う。彼の瞳が流れるように、玉蓮の首元に向けられたのがわかった。
そして、玉蓮の傍を通り過ぎる、まさにその時。
「公主、あなたの瞳を、私は忘れないでしょう」
そう告げると、崔瑾はさらに顔を玉蓮の耳元に近づけ、誰にも聞こえぬほどの声で囁いた。
「いつか、その首輪が重くなり、動けなくなる日が来たならば……私が、お助けいたします」
「なっ……」
その声は、甘い毒のように鼓膜から染み込み、脳髄を痺れさせた。言われた瞬間、自分の首に——あの男に噛まれた痕の上に、見えない輪が嵌められたような、ずしりとした重さを感じて、玉蓮は息を呑んだ。
赫燕の熱も、伽羅の香りも、全てが一瞬遠のく。言葉の余韻が胸の奥にじわりと沈んでいく。
(——救う?)
一瞬、脳裏をよぎりそうになる何かを振り切るように、玉蓮は胸に手を置いて、顔を上げる。
「——わたくしには、わたくしの道があります」
毅然と、揺らめく炎を抑えるように玉蓮がその言葉を口にする。
「それを進むだけです」
崔瑾の瞳が、一瞬揺れて、そして少しだけ細められる。口元には、ほんのわずかな笑みを浮かべている。
「そうですか。では、私も私の道を進みましょう」
崔瑾はゆっくりと、しかし丁重に一礼をすると、迷うことなく背を向けてその場を後にする。深緋の衣が光を浴びて揺らめき、颯爽と馬に跨がる。彼の唇が動き何かを告げると、軍勢が一斉に動き出した。
その背が遠ざかっていくほどに、胸が少しずつ締め付けられていく。だが玉蓮は、見送ることしかできない。
離れていく崔瑾とは対照的に、玉蓮を抱く赫燕の腕に、力がこもる。その腕は、距離が開くにつれてさらに強くなっていく。そして、赫燕は去っていく崔瑾の背中に向かってではなく、隣にいる玉蓮にだけ聞こえるように、低い声で吐き捨てた。
「あの男はいつか、自分の信じる『正義』ってやつに殺される。お前みたいな毒を喰らってな」
「……どういうことです」
赫燕が何を言っているのか、そしてなぜそのようなことを自分に言うのか、理解できずに、思わず口から溢れた。
「……盤が、動き出したってことだ。俺たちの天命ごとな」
赫燕の笑みは、先ほどまでの愉悦の色を失い、その瞳の奥には何の感情も宿していなかった。
「もう、止まれねえな」
そして、玉蓮の傍を通り過ぎる、まさにその時。
「公主、あなたの瞳を、私は忘れないでしょう」
そう告げると、崔瑾はさらに顔を玉蓮の耳元に近づけ、誰にも聞こえぬほどの声で囁いた。
「いつか、その首輪が重くなり、動けなくなる日が来たならば……私が、お助けいたします」
「なっ……」
その声は、甘い毒のように鼓膜から染み込み、脳髄を痺れさせた。言われた瞬間、自分の首に——あの男に噛まれた痕の上に、見えない輪が嵌められたような、ずしりとした重さを感じて、玉蓮は息を呑んだ。
赫燕の熱も、伽羅の香りも、全てが一瞬遠のく。言葉の余韻が胸の奥にじわりと沈んでいく。
(——救う?)
一瞬、脳裏をよぎりそうになる何かを振り切るように、玉蓮は胸に手を置いて、顔を上げる。
「——わたくしには、わたくしの道があります」
毅然と、揺らめく炎を抑えるように玉蓮がその言葉を口にする。
「それを進むだけです」
崔瑾の瞳が、一瞬揺れて、そして少しだけ細められる。口元には、ほんのわずかな笑みを浮かべている。
「そうですか。では、私も私の道を進みましょう」
崔瑾はゆっくりと、しかし丁重に一礼をすると、迷うことなく背を向けてその場を後にする。深緋の衣が光を浴びて揺らめき、颯爽と馬に跨がる。彼の唇が動き何かを告げると、軍勢が一斉に動き出した。
その背が遠ざかっていくほどに、胸が少しずつ締め付けられていく。だが玉蓮は、見送ることしかできない。
離れていく崔瑾とは対照的に、玉蓮を抱く赫燕の腕に、力がこもる。その腕は、距離が開くにつれてさらに強くなっていく。そして、赫燕は去っていく崔瑾の背中に向かってではなく、隣にいる玉蓮にだけ聞こえるように、低い声で吐き捨てた。
「あの男はいつか、自分の信じる『正義』ってやつに殺される。お前みたいな毒を喰らってな」
「……どういうことです」
赫燕が何を言っているのか、そしてなぜそのようなことを自分に言うのか、理解できずに、思わず口から溢れた。
「……盤が、動き出したってことだ。俺たちの天命ごとな」
赫燕の笑みは、先ほどまでの愉悦の色を失い、その瞳の奥には何の感情も宿していなかった。
「もう、止まれねえな」
0
あなたにおすすめの小説
行き遅れ王女、重すぎる軍団長に肉で釣られる
春月もも
恋愛
25歳、独身、第四王女システィーナ。
夜会でも放置されがちな行き遅れ王女の前に、ある夜突然現れたのは、ローストビーフを差し出す重すぎる第三軍団長だった。
形のない愛は信じない。
でも、出来立ての肉は信じてしまう。
肉に釣られ、距離を詰められ、気づけば下賜され、そして初夜へ。
これは、行き遅れ王女が重たい愛で満たされるまでの、ちょっとおかしなお話。
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
小さくなった夫が可愛すぎて困ります
piyo
恋愛
夫が、ある日突然、幼児の姿になってしまった。
部下の開発中の魔法薬を浴びてしまい、そのとばっちりで若返ってしまったらしい。
いつも仏頂面な夫が、なんだかとっても可愛い――。
契約結婚で、一生愛とは無縁の生活を送ると思っていたノエルだったが、姿が変わってしまった夫を、つい猫可愛がりしてしまう。
「おい、撫でまわすな!」
「良いじゃありませんか。減るもんじゃないし」
これまで放置されていた妻と、不器用に愛を示す夫。
そんな二人が、じれじれ、じわじわとお互いの距離を詰めていく、甘くて切ない夫婦再生の物語
※完結まで毎日更新
※全26話+おまけ1話
※一章ほのぼの、二章シリアスの二部構成です。
※他サイトにも投稿
七日後に神罰が落ちる。上層部は「下を切り捨てろ」と言った——私は全員を逃がす
蒼月よる
ファンタジー
七日後、この港に神罰が落ちる。
追放された元観測士イオナだけが、その事実を知っていた。
しかも災害は自然現象ではない——誰かが、意図的に引き起こそうとしている。
港の上層部はすでに手を打っていた。「下層区画を緩衝被害区として切り捨てる」秘密契約。被害を最小限に見せかけ、体制を守る冷徹な計画だ。
イオナは元護送隊長ガルム、荷運び組合長メラとともに動き出す。
犯人を暴き、証拠を公開し、住民を逃がし、工廠を止める——すべてを七日で。
被害を「選ぶ」管理か、全員を「残す」運用か。
追放観測士の、七日間の港湾カウントダウン・サスペンス。
この作品は以下の箇所にAI(Claude Code)を利用しています。
・世界観・設定の管理補助
・プロット段階の壁打ち
・作者による執筆後の校正
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
リトライさせていただきます!〜死に戻り令嬢はイケメン神様とタッグを組んで人生をやり直す事にした〜
ゆずき
恋愛
公爵家の御令嬢クレハは、18歳の誕生日に何者かに殺害されてしまう。そんなクレハを救ったのは、神を自称する青年(長身イケメン)だった。
イケメン神様の力で10年前の世界に戻されてしまったクレハ。そこから運命の軌道修正を図る。犯人を返り討ちにできるくらい、強くなればいいじゃないか!! そう思ったクレハは、神様からは魔法を、クレハに一目惚れした王太子からは武術の手ほどきを受ける。クレハの強化トレーニングが始まった。
8歳の子供の姿に戻ってしまった少女と、お人好しな神様。そんな2人が主人公の異世界恋愛ファンタジー小説です。
※メインではありませんが、ストーリーにBL的要素が含まれます。少しでもそのような描写が苦手な方はご注意下さい。
ブラック企業で倒れた私を、ネトゲ仲間の社長が強制保護して溺愛しています
紅 与一
恋愛
過労で倒れた私を救ったのは、
ネトゲ仲間――そしてIT企業の若き社長。
「もう君は、僕の管理下だよ」
退院と同時に退職手続きは完了。
住む場所も、生活も、すべて彼に囲われた。
外出制限、健康管理、過保護な独占欲。
甘くて危険な“保護生活”の中で、
私は少しずつ彼に心を奪われていく――。
元社畜OL×執着気味の溺愛社長
囲い込み同棲ラブストーリー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる