闇を抱く白菊 —天命の盤—

アリスの鏡

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第七章 臨万城の嵐

四十七話 一度の願い 2

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 そこは、絶え間なく吹き付ける風と、遥か下界から聞こえる鉄と鉄がぶつかる甲高い音、そして兵士たちの断末魔に満ちていた。だが、赫燕の前に膝をついた瞬間、玉蓮の世界から全ての音が消える。風の音も、ときの声も、何も聞こえない。

 赫燕は肘掛けに腕を置いて、その手で頬杖をつき、こちらを見下ろしている。その瞳には、男の感情も宿っていない。

「持ち場を離れて、何をやってる」

 地を這うような低い声。肌に刺さるような冷たい威圧。玉蓮は乱れた呼吸を整え、滲む汗も拭わずに、その瞳を真っ直ぐに見据えた。

「……お頭。この玉蓮、一生に一度の願いです」

 身体の前で組んだ両の拳が小刻みに震えている。心の臓が肋骨あばらを叩く音だけが、やけに大きく耳に響く。

「……なんだ」

「どうか……劉永隊の元へ救援に行かせてください」

 周囲にいた兵たちからどよめきの声が上がる。赫燕の傍にいた子睿しえいが、それまで弄んでいた扇子を、ぱしんと音を立てて閉じた。

「玉蓮! あなたは、この状況で、あの死地に飛び込むことがどういうことか、わかっているのですか!」

 完璧に整えられていたはずの顔が、初めて引きり、その目は、玉蓮と赫燕の間を行き来する。

 この戦場は、どこも等しく死地なのだ。味方を助けるどころか、己の命を守ることでさえ、至難の業。そんな状況で、包囲された友軍を助けに行くなど正気の沙汰ではない。そんなことはわかっている。だが——

 玉蓮は、懐に忍ばせた小さな木彫りの鳥を、衣の上から強く握りしめた。

「姉上を殺され……復讐だけを胸に抱いて生きていたわたくしを、いつくしんでくださったのが……えい兄様なのです」

 胸が、火が燃え盛るような熱を帯びる。

「わたくしには、救いに行かないという選択肢は、ありません」

 赫燕は、無表情に鋭い視線で玉蓮を見つめていた。長い沈黙。その無言の時間が、玉蓮の決意を試すかのように、じりじりと場を締めつけていく。

 ふと、赫燕の手が動いた。その指先が、首元の紫水晶に触れる。彼の瞳の奥で、何かが微かに、でも確かに揺らめいている。


「……死ぬぞ」


 ぽつりと、抑揚もなく、感情を殺した声で、はっきりとそう告げた。玉蓮は微かに微笑ほほえみ、首を横に振る。

「いえ、必ず戻ります。あなたの元へ」

 その答えを聞いても、赫燕は眉根を寄せるでもなく、いつものように笑うでもなく、その瞳に玉蓮を映している。

「……三十騎やる。行け」

「お頭、本気ですか! あの戦場は、玄済げんさい大孤だいこの中でも勇猛な部隊がいる激戦区なのです! そこはすでに死地同然、玉蓮が死にますぞ!」

 子睿の悲鳴のような制止を、赫燕は片手で制した。その目は、玉蓮から逸らさない。

「今夜中に戻れ。戻れなければ、見捨てる」

「……ありがたく」

 玉蓮は、深く、深く、頭を下げた。赫燕の瞳を見れば、そこにあるのは嵐の夜に見た、あの深くくらい色。彼女は一度、強く目を閉じると、風のように駆けだした。
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