闇を抱く白菊 —天命の盤—

アリスの鏡

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第七章 臨万城の嵐

五十話 天女の微笑み

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◇◇◇ 劉永りゅうえい ◇◇◇

 劉永りゅうえいはゆっくりと意識を取り戻した。喉の奥に残る、血の鉄錆てつさびのような味。薬草の苦みのある匂い。土ではない、背中で感じる寝台の感触にふと息を漏らす。

 全身を襲う倦怠感と激しい痛みに眉をひそめながら、重い目蓋まぶたを開くと、ぼんやりとした視界の先に、この世のものとは思えぬほどの美しい顔がかすんで見えた。

「ここは……極楽、かな」

 自身の唇から漏れる、その声のか細さに思わず笑いがこぼれる。

 朦朧もうろうとした意識の中、そこに向かって手を差し出せば、目の前の人がそっとそれを包み込んでくれる。まるで、壊れ物を扱うかのように優しく。ひんやりと冷たい、小さな手。だが、その指先は戦で豆が潰れたのか、少し硬くなっていた。

えい兄様!」

 震えるその呼び声に、劉永はゆっくりと目を凝らす。視界がようやく明瞭になり、目の前にいる玉蓮の顔がはっきりと見えた。

「天女が、見え、る……」

 少しだけ笑ったつもりが、喉がぜいぜいと鳴り出して、呼吸がままならなくなる。脇腹から胸にかけて、燃えるように傷がうずいた。その痛みから逃れるように、玉蓮と繋ぐ手に力を込める。

「……将軍は?」

「お怪我はあるものの、ご無事でいらっしゃいます」

 玉蓮の答えに、一瞬ほっとしたものの、すぐに新たな気づきが波のように押し寄せる。

(——この子は、あの死地に飛び込んできたのか)

 その事実が、脇腹の傷よりもなお深く、焼け付くような痛みとなって、心の内側を貫いた。呼吸が一つ、浅くなる。劉永は、繋がれたままの玉蓮の手を、ありったけの力を込めて、ゆっくりと、己の頬へと運んだ。

 ざらついた自分の頬に触れる、彼女の滑らかな手の甲の感触。瞳に熱が溜まり、視界が歪む。瞬き一つでこぼれ落ちそうなそれを、玉蓮の手に隠すように、さらに寄せた。

「本当に……おろかだよ、玉蓮は……」

 自分の手を握りしめる玉蓮の指先が、微かに震えているのが伝わってくる。

「あんな場所で……君を失っていたら、僕は……」

 そこまで言って、こみ上げてきた感情が咳となって、言葉を遮った。

「永兄様が、ご無事であれば良いのです」

 玉蓮のまっすぐな瞳に見つめられ、劉永は小さく息を吐いた。

「父上に、怒られるね……僕も、玉蓮も」

「はい、一緒に怒られましょう」

 玉蓮はふわりと微笑ほほえんだ。その笑顔は、戦場の喧騒を忘れさせるような、穏やかな光を放っていた。

 玉蓮は立ち上がり、振り返らずに天幕の入り口へ歩みを進めた。けれど布を捲る手前で、ほんの一瞬だけ足を止める。

「……温泰おんたいえい兄様を頼みます」

 それだけを残して、闇夜へと姿を消した。
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