闇を抱く白菊 —天命の盤—

アリスの鏡

文字の大きさ
107 / 159
第八章 別離の衣

五十九話 心の音 1

しおりを挟む
 しばらくすると疲れたのか、赫燕かくえんは自らの肩を揉んで、大きな欠伸あくびを溢す。その一瞬の仕草は、戦場で幾多の修羅場を潜り抜けてきた将軍というよりも、ただの男の日常を垣間見せる。

 その姿を黙って見つめていた玉蓮は、そっと彼の背後に回り込むと、彼の広く逞しい肩に、自らの細い手をそっと置いた。玉蓮の指先が彼の凝り固まった筋肉に触れると、赫燕は微かに身じろぎする。

「相変わらず、硬いです」

 玉蓮は朗らかな声でそう言って、くすりと笑った。傷を避けながらも、指先に力を込め、ゆっくりと肩の筋肉を揉みほぐし始める。長年の戦で培われた赫燕の肉体は、まるで鋼のように硬く、玉蓮の小さな手には骨の折れる作業だった。

「いつになったら、まともに肩が揉めんだろうな」

 赫燕はふっと息を吐きながら、からかうようにそう呟いた。

「まあ。そんなことをおっしゃるのなら、もうおしまいです」

 玉蓮はむくれながらも、小さく笑みをこぼす。彼女の指先が肩から離れようとした、その時だった。くつくつと喉を鳴らしていた赫燕は、素早く玉蓮の腕を掴むと、あっという間に自らのたくましい膝の上に座らせた。

 突然のことに玉蓮は驚き、小さな悲鳴をあげかけた。だが、彼の腕が力強く、どこか優しく自分を支えるのを感じ、強張っていた肩から、ふっと力が抜けていく。

 玉蓮はなされるがまま、彼の膝の上で身体の向きを変え、目の前の深く、そして鋭い瞳を見上げる。

 彼女の小さな顎を、彼の大きな手が優しく持ち上げる。ゆっくりと近づいてくるその精悍な顔には、やはりいつもの不敵な笑みが漂っていた。

「俺に逆らうと、どうなるか分かってんだろ」

 低く囁かれたその声は、玉蓮の鼓膜を優しく震わせる。柔らかく口付けが落とされたかと思うと、すぐに熱い舌が遠慮なく入り込み、甘い香りを奪い去っていく。玉蓮の頬も首も覆ってしまうほどに大きな手が無遠慮に肌を撫でる。

 唇が離れて、再びその瞳を間近で見つめる。獣のように獰猛にも見えるが、一方でどこまでも深く優しく見える。赫燕の熱く硬い胸にそっと頬を寄せれば、力強い心臓の鼓動が骨を伝って玉蓮の全身を震わせた。


 ——とくん、とくん、と。


 それは、紛れもない彼のせいの音。その音に誘われるように目をゆっくりと閉じれば、たちまちに彼の肌から立ち上る香りに包まれる。玉蓮の指が、彼の背に、ふ、と伸びる。その下にあるのは、まだ癒えきらぬ傷痕。幾重いくえにも重なった布越しに伝わる体温は、生々しく、確かに熱を持っている。

 生きている。あの日、自分のために血を流し、倒れたこの男が、今こうして生きている——。玉蓮の頬に、熱がじんわりと広がっていく。

「……お前は、それが好きだな」

 玉蓮の髪を指に絡めながら、少しだけ不思議そうな、また少しだけ諦めたような声で彼が呟くから、玉蓮は、ふふと笑みを溢してしまう。

「あなたの、心の臓の音を聞いているのです」

 今度は赫燕が、ふ、と短く息を漏らすように笑った。

「悪趣味なやつだ。俺が生きているか確かめているのか」

 悪態をつくような言葉とは裏腹に、その腕は玉蓮をさらに深く抱き寄せた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

行き遅れ王女、重すぎる軍団長に肉で釣られる

春月もも
恋愛
25歳、独身、第四王女システィーナ。 夜会でも放置されがちな行き遅れ王女の前に、ある夜突然現れたのは、ローストビーフを差し出す重すぎる第三軍団長だった。 形のない愛は信じない。 でも、出来立ての肉は信じてしまう。 肉に釣られ、距離を詰められ、気づけば下賜され、そして初夜へ。 これは、行き遅れ王女が重たい愛で満たされるまでの、ちょっとおかしなお話。

ちょっと大人な物語はこちらです

神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な短編物語集です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

小さくなった夫が可愛すぎて困ります

piyo
恋愛
夫が、ある日突然、幼児の姿になってしまった。 部下の開発中の魔法薬を浴びてしまい、そのとばっちりで若返ってしまったらしい。 いつも仏頂面な夫が、なんだかとっても可愛い――。 契約結婚で、一生愛とは無縁の生活を送ると思っていたノエルだったが、姿が変わってしまった夫を、つい猫可愛がりしてしまう。 「おい、撫でまわすな!」 「良いじゃありませんか。減るもんじゃないし」 これまで放置されていた妻と、不器用に愛を示す夫。 そんな二人が、じれじれ、じわじわとお互いの距離を詰めていく、甘くて切ない夫婦再生の物語 ※完結まで毎日更新 ※全26話+おまけ1話 ※一章ほのぼの、二章シリアスの二部構成です。 ※他サイトにも投稿

七日後に神罰が落ちる。上層部は「下を切り捨てろ」と言った——私は全員を逃がす

蒼月よる
ファンタジー
七日後、この港に神罰が落ちる。 追放された元観測士イオナだけが、その事実を知っていた。 しかも災害は自然現象ではない——誰かが、意図的に引き起こそうとしている。 港の上層部はすでに手を打っていた。「下層区画を緩衝被害区として切り捨てる」秘密契約。被害を最小限に見せかけ、体制を守る冷徹な計画だ。 イオナは元護送隊長ガルム、荷運び組合長メラとともに動き出す。 犯人を暴き、証拠を公開し、住民を逃がし、工廠を止める——すべてを七日で。 被害を「選ぶ」管理か、全員を「残す」運用か。 追放観測士の、七日間の港湾カウントダウン・サスペンス。 この作品は以下の箇所にAI(Claude Code)を利用しています。 ・世界観・設定の管理補助 ・プロット段階の壁打ち ・作者による執筆後の校正

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

リトライさせていただきます!〜死に戻り令嬢はイケメン神様とタッグを組んで人生をやり直す事にした〜

ゆずき
恋愛
公爵家の御令嬢クレハは、18歳の誕生日に何者かに殺害されてしまう。そんなクレハを救ったのは、神を自称する青年(長身イケメン)だった。 イケメン神様の力で10年前の世界に戻されてしまったクレハ。そこから運命の軌道修正を図る。犯人を返り討ちにできるくらい、強くなればいいじゃないか!! そう思ったクレハは、神様からは魔法を、クレハに一目惚れした王太子からは武術の手ほどきを受ける。クレハの強化トレーニングが始まった。 8歳の子供の姿に戻ってしまった少女と、お人好しな神様。そんな2人が主人公の異世界恋愛ファンタジー小説です。 ※メインではありませんが、ストーリーにBL的要素が含まれます。少しでもそのような描写が苦手な方はご注意下さい。

ブラック企業で倒れた私を、ネトゲ仲間の社長が強制保護して溺愛しています

紅 与一
恋愛
過労で倒れた私を救ったのは、 ネトゲ仲間――そしてIT企業の若き社長。 「もう君は、僕の管理下だよ」 退院と同時に退職手続きは完了。 住む場所も、生活も、すべて彼に囲われた。 外出制限、健康管理、過保護な独占欲。 甘くて危険な“保護生活”の中で、 私は少しずつ彼に心を奪われていく――。 元社畜OL×執着気味の溺愛社長 囲い込み同棲ラブストーリー。

処理中です...