闇を抱く白菊 —天命の盤—

アリスの鏡

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第八章 別離の衣

六十話 無慈悲な勅命 2

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「……ふ、ふざけんじゃねえ!」

 牙門が近くの椅子を蹴り倒す音が、轟音ごうおんとなって響く。床に転がった椅子は、不規則な音を立てて滑っていく。

「そんなのありかよ……」

 せつの忌々しげな声が、牙門の激昂とは対照的になまりのように重く耳に届き、彼の腕が使者の視線を遮るように玉蓮を包みこむ。

 その、ほんの一瞬の隙。玉蓮の視界の端で、それまで微動だにしなかった子睿しえいの影が、ゆらり、と動いた。彼がいつも手にしている扇が、まるで音もなく滑るように、使者の元へと伸びていく。その扇の先端から、きらり、と。髪の毛よりも細い、毒を塗った針が覗いていたのを、玉蓮だけが見ていた。

「子睿」

 喉から絞り出すような声で名を呼ぶ。

 子睿の動きがふ、と止まる。いつもは細められているはずの瞳が、珍しく見開かれ、凍てつくような光で玉蓮を射抜いていた。彼の問いかけるような視線に、玉蓮は首を小さく横に振る。

「……玉蓮、行くな。俺たちが」

 じんの手が玉蓮の肩を掴み、力が込められる。

「理解しておられると思うが……逆らえば斬首。いくら赫燕将軍の軍とて王の決定は覆せぬ。公主は、その責を果たされよ」

 使者の声は、依然として冷たい。

 視界がにじみ、膝の感覚が遠のいていく。耳元では、風でもない何かが、ざわざわと囁いていた。体の奥底から、凍てつくような冷たさが這い上がり、呼吸すらままならない。

 玉蓮の周りから色も音もなくなるように、世界が遠ざかる。政治の道具として、姉と同じく敵国へと送られるその事実に、姉を無惨に殺した男の元に贈られる未来に、胸の奥で、ごう、と音をたてた小さな炎が風にあおられて火の粉をあげた。

「公主、勅命ちょくめいである。受けとられよ」

 拒めば、赫燕軍が討たれる。逃げれば、力を持たぬ母の一族が処断される。

 玉蓮は、刹の腕から抜け出し、使者の目の前でひざまずいた。自らの胸の内で、くらい炎が逆巻く。

「……ありがたく」

 巻物を受け取り、彼女は瞬きもせずにそれを見つめた。父からの最初で最後の言葉を。やがて、玉蓮はゆっくりと天幕の外へと歩き出した。

「玉蓮……」

 朱飛の声を背中に受けながらも、それに振り返ることもせずに。
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