闇を抱く白菊 —天命の盤—

アリスの鏡

文字の大きさ
124 / 159
第九章 鮮やかなる桃花

六十八話 霜牙の地 1

しおりを挟む
◇◇◇

 その日、崔瑾さいきんの書斎には、重い空気が満ちていた。玄済げんさい国の北東の国境で、騎馬民族・大孤だいこが戦を仕掛けてきたというのだ。聞けば、彼らの地はここ数年、深刻な干ばつに見舞われているという。討伐軍は送っているが、敵は険しい山岳地帯に巧みに身を隠し、戦は膠着こうちゃくしていた。

「崔瑾様。また、霜牙そうがの地でございますな。冬は骨まで凍え、夏は牙をく灼熱の大地。しかし、あの乾ききった土地の先にこそ、我が国の水の源があることもまた、事実」

 馬斗琉ばとるが、忌々しげに地図の北を指差した。

「我が国側の霜牙そうがは、あしの帯が長く続く地。板を渡せば進むが、渡さねば馬は沈みます。早急に板を渡し、兵を増強。力押しで一気に叩くしかないかと」

 馬斗琉の進言に、崔瑾は渋い顔で首を振った。

「……それでは、食い詰めた狼を窮鼠きゅうそにすることになる。損害が計り知れぬ」

 玉蓮は、二人のやり取りを静かに見守っていたが、やがて卓に広げられた地図の、大孤だいこ国と玄済げんさい国の国境を指でなぞっていく。

「……ひとつ、お聞きしてもよろしいでしょうか」

 彼女の視線は、崔瑾と馬斗琉の間をゆっくりと巡る。二人の視線が、彼女へと注がれるが、玉蓮は、その視線を受けても動じることなく、まっすぐに問いを投げかける。

「この霜牙そうがの地。なぜ干ばつにあえ大孤だいこが、これほどまでにこの地に執着するのですか? これではまるで国盗りのようです」

 馬斗琉から、はっと息を呑むような音が聞こえる。彼は一度深く息を吸い込み、口を開いた。

「……水の源でございます。大孤だいことの国境から南下した先に、今は我ら玄済げんさい国の水源地となっている——」

「——ならば、話は早い」

 馬斗琉の言葉が、終わるか、終わらないか。玉蓮は、まるで最後の駒が嵌まった盤面を見るかのように、静かに微笑ほほえんだ。あの男の呼吸が微かに宿る。

「彼らが求める、餌を差し出しましょう」

 玉蓮は、膠着こうちゃくする戦線から少し離れた場所にある、一つの小さな砦を指差す。敵の強欲そのものを釣り針にかけ、魂ごと釣り上げる、苛烈な罠を仕掛けなければ、と。頭の中で兵の駒が動いていく。

「彼らが欲しいのは、水。であれば、この砦の蓄えをすべて『水』と『塩』に見せかけ、城門を開け放ちます」

「っ……城門を!? それでは砦を明け渡すも同然ではないですか!」

「そうです。『利をもってこれを誘い、みだしてこれを取る』。兵を引かせ、砦を空にするのです。ただし——」

 玉蓮は指先でとりでをなぞり、その先の谷間を叩いた。

「砦に至る唯一の街道。この谷間の道で、偽の補給部隊をわざと襲わせ、荷を捨てて逃げさせる」

 玉蓮の瞳が、冷徹な光を帯びる。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

ちょっと大人な物語はこちらです

神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な短編物語集です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

行き遅れ王女、重すぎる軍団長に肉で釣られる

春月もも
恋愛
25歳、独身、第四王女システィーナ。 夜会でも放置されがちな行き遅れ王女の前に、ある夜突然現れたのは、ローストビーフを差し出す重すぎる第三軍団長だった。 形のない愛は信じない。 でも、出来立ての肉は信じてしまう。 肉に釣られ、距離を詰められ、気づけば下賜され、そして初夜へ。 これは、行き遅れ王女が重たい愛で満たされるまでの、ちょっとおかしなお話。

小さくなった夫が可愛すぎて困ります

piyo
恋愛
夫が、ある日突然、幼児の姿になってしまった。 部下の開発中の魔法薬を浴びてしまい、そのとばっちりで若返ってしまったらしい。 いつも仏頂面な夫が、なんだかとっても可愛い――。 契約結婚で、一生愛とは無縁の生活を送ると思っていたノエルだったが、姿が変わってしまった夫を、つい猫可愛がりしてしまう。 「おい、撫でまわすな!」 「良いじゃありませんか。減るもんじゃないし」 これまで放置されていた妻と、不器用に愛を示す夫。 そんな二人が、じれじれ、じわじわとお互いの距離を詰めていく、甘くて切ない夫婦再生の物語 ※完結まで毎日更新 ※全26話+おまけ1話 ※一章ほのぼの、二章シリアスの二部構成です。 ※他サイトにも投稿

七日後に神罰が落ちる。上層部は「下を切り捨てろ」と言った——私は全員を逃がす

蒼月よる
ファンタジー
七日後、この港に神罰が落ちる。 追放された元観測士イオナだけが、その事実を知っていた。 しかも災害は自然現象ではない——誰かが、意図的に引き起こそうとしている。 港の上層部はすでに手を打っていた。「下層区画を緩衝被害区として切り捨てる」秘密契約。被害を最小限に見せかけ、体制を守る冷徹な計画だ。 イオナは元護送隊長ガルム、荷運び組合長メラとともに動き出す。 犯人を暴き、証拠を公開し、住民を逃がし、工廠を止める——すべてを七日で。 被害を「選ぶ」管理か、全員を「残す」運用か。 追放観測士の、七日間の港湾カウントダウン・サスペンス。 この作品は以下の箇所にAI(Claude Code)を利用しています。 ・世界観・設定の管理補助 ・プロット段階の壁打ち ・作者による執筆後の校正

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

リトライさせていただきます!〜死に戻り令嬢はイケメン神様とタッグを組んで人生をやり直す事にした〜

ゆずき
恋愛
公爵家の御令嬢クレハは、18歳の誕生日に何者かに殺害されてしまう。そんなクレハを救ったのは、神を自称する青年(長身イケメン)だった。 イケメン神様の力で10年前の世界に戻されてしまったクレハ。そこから運命の軌道修正を図る。犯人を返り討ちにできるくらい、強くなればいいじゃないか!! そう思ったクレハは、神様からは魔法を、クレハに一目惚れした王太子からは武術の手ほどきを受ける。クレハの強化トレーニングが始まった。 8歳の子供の姿に戻ってしまった少女と、お人好しな神様。そんな2人が主人公の異世界恋愛ファンタジー小説です。 ※メインではありませんが、ストーリーにBL的要素が含まれます。少しでもそのような描写が苦手な方はご注意下さい。

ブラック企業で倒れた私を、ネトゲ仲間の社長が強制保護して溺愛しています

紅 与一
恋愛
過労で倒れた私を救ったのは、 ネトゲ仲間――そしてIT企業の若き社長。 「もう君は、僕の管理下だよ」 退院と同時に退職手続きは完了。 住む場所も、生活も、すべて彼に囲われた。 外出制限、健康管理、過保護な独占欲。 甘くて危険な“保護生活”の中で、 私は少しずつ彼に心を奪われていく――。 元社畜OL×執着気味の溺愛社長 囲い込み同棲ラブストーリー。

処理中です...