闇を抱く白菊 —天命の盤—

アリスの鏡

文字の大きさ
135 / 159
第十章 正義の敵

七十四話 要の石 2

しおりを挟む


 扉を開き、書庫に入ると、墨の香りが鼻を抜ける。整然と並べられたそれは、まさに崔瑾さいきんという人そのものだった。奥の書棚には、軍の補給・調達記録や人事の異動記録、各地の情勢報告書が整然と並べられている。

 玉蓮は、補給記録の中に目を通し始めた。帳簿には納入品の内容と単価、そして納品担当の名が記されている。その中に、異様に安価な兵装が連続して記されている箇所があった。

 そこには、同じ名が何度も記されていた。玉蓮は指先でその名をなぞり、次に人事記録へと手を伸ばす。異動・左遷された兵部へいぶ官吏かんりたちの中に、その名とつながる者の名前が何人も見つかる。

(この流れ……追われた者たちは、皆、何者かの意向で消されている。やはり周礼しゅうれいが——)

 その時だった。書庫の静寂を破るかのように、外からかすかな気配が玉蓮の意識を捉えた。玉蓮は素早く、音もなく、手にしていた記録を元の棚へと戻していく。

 カタン、と背後でわずかに音がした時には、すでに誰かが立っていた。だが、その時、玉蓮の手に握られていたのは、恋愛をうたった詩集。まるで最初からその本を読んでいたかのように。

「何を、されているのですか」

 書庫に響いたのは、凛とした阿扇あせんの声。静かではあるが、その声には一切の揺れがなく、研ぎ澄まされた刃のように鋭い。

 玉蓮は、ゆるやかに振り返る。完璧な優雅さをたたえた笑みと共に。あくまでも淑やかに、衣擦きぬずれの音さえ立てずに彼の前へと歩み寄る。

「阿扇」

 阿扇の瞳は、敵を見定めるときのような鋭さを伴っている。書庫の重苦しい空気が、二人の間に張り詰めていた。沈黙を破ったのは、阿扇。

「こちらで何を?」

 玉蓮は視線をわずかにそらし、開かれた書物を指し示した。

「眠れず、読み物を。阿扇は、夜の警護ですか?」

「崔瑾様が、書庫への出入りをお許しになったと?」

「許されていないとでも? わたくしは崔家さいけの夫人です」

 確かに、崔瑾には書庫の出入りは許されている。泳がされていると言っても良いかもしれない、この状況下であっても、情報を得ることは玉蓮にとっては最優先事項。書庫に入ることに迷いなどない。

 再び二人の視線が強く交錯する。阿扇のあまりにも強い視線は、玉蓮に容赦なく突き刺さる。

「阿扇も読みますか? わたくしのお薦めは——」

「不要です」

 玉蓮の言葉を遮った声は冷ややかで、玉蓮が差し出そうとした詩集を見ることもなく、くるりときびすを返した。腰に帯びた漆黒のさや。そこに収まった剣のつかに、阿扇の指が触れる。

「あまり妙な動きをなさいませぬよう。大都督だいととくの、崔瑾様の名をおとしめるような真似だけは、許しません」

 そして淡々と続ける。

「私は、あなたを信用しておりません」

 そう言い残し、阿扇は音もなく立ち去った。

 玉蓮は、差し出したままだった詩集をゆっくりと閉じ、その重みを両手に感じる。温かな紙の感触とは裏腹に、心の中は冷え切っていた。

(表向きの情報だけでは足りない——)

 彼女は、ひっそりとその場を離れる。詩集を抱きしめるように胸元に寄せ、足早に回廊かいろうの奥へ進んだ。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

行き遅れ王女、重すぎる軍団長に肉で釣られる

春月もも
恋愛
25歳、独身、第四王女システィーナ。 夜会でも放置されがちな行き遅れ王女の前に、ある夜突然現れたのは、ローストビーフを差し出す重すぎる第三軍団長だった。 形のない愛は信じない。 でも、出来立ての肉は信じてしまう。 肉に釣られ、距離を詰められ、気づけば下賜され、そして初夜へ。 これは、行き遅れ王女が重たい愛で満たされるまでの、ちょっとおかしなお話。

小さくなった夫が可愛すぎて困ります

piyo
恋愛
夫が、ある日突然、幼児の姿になってしまった。 部下の開発中の魔法薬を浴びてしまい、そのとばっちりで若返ってしまったらしい。 いつも仏頂面な夫が、なんだかとっても可愛い――。 契約結婚で、一生愛とは無縁の生活を送ると思っていたノエルだったが、姿が変わってしまった夫を、つい猫可愛がりしてしまう。 「おい、撫でまわすな!」 「良いじゃありませんか。減るもんじゃないし」 これまで放置されていた妻と、不器用に愛を示す夫。 そんな二人が、じれじれ、じわじわとお互いの距離を詰めていく、甘くて切ない夫婦再生の物語 ※完結まで毎日更新 ※全26話+おまけ1話 ※一章ほのぼの、二章シリアスの二部構成です。 ※他サイトにも投稿

ちょっと大人な物語はこちらです

神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な短編物語集です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

リトライさせていただきます!〜死に戻り令嬢はイケメン神様とタッグを組んで人生をやり直す事にした〜

ゆずき
恋愛
公爵家の御令嬢クレハは、18歳の誕生日に何者かに殺害されてしまう。そんなクレハを救ったのは、神を自称する青年(長身イケメン)だった。 イケメン神様の力で10年前の世界に戻されてしまったクレハ。そこから運命の軌道修正を図る。犯人を返り討ちにできるくらい、強くなればいいじゃないか!! そう思ったクレハは、神様からは魔法を、クレハに一目惚れした王太子からは武術の手ほどきを受ける。クレハの強化トレーニングが始まった。 8歳の子供の姿に戻ってしまった少女と、お人好しな神様。そんな2人が主人公の異世界恋愛ファンタジー小説です。 ※メインではありませんが、ストーリーにBL的要素が含まれます。少しでもそのような描写が苦手な方はご注意下さい。

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

七日後に神罰が落ちる。上層部は「下を切り捨てろ」と言った——私は全員を逃がす

蒼月よる
ファンタジー
七日後、この港に神罰が落ちる。 追放された元観測士イオナだけが、その事実を知っていた。 しかも災害は自然現象ではない——誰かが、意図的に引き起こそうとしている。 港の上層部はすでに手を打っていた。「下層区画を緩衝被害区として切り捨てる」秘密契約。被害を最小限に見せかけ、体制を守る冷徹な計画だ。 イオナは元護送隊長ガルム、荷運び組合長メラとともに動き出す。 犯人を暴き、証拠を公開し、住民を逃がし、工廠を止める——すべてを七日で。 被害を「選ぶ」管理か、全員を「残す」運用か。 追放観測士の、七日間の港湾カウントダウン・サスペンス。 この作品は以下の箇所にAI(Claude Code)を利用しています。 ・世界観・設定の管理補助 ・プロット段階の壁打ち ・作者による執筆後の校正

復讐のための五つの方法

炭田おと
恋愛
 皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。  それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。  グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。  72話で完結です。

処理中です...