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第十一章 心の臓を撃つ石
八十三話 白菊の逢瀬 2
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◆
見慣れた、でも、どこか懐かしい白楊国王宮の庭園の中を歩く。柔らかな土の感触が足の裏に心地よく、古木の枝が風に揺れる音、コオロギのさえずりが耳に届く。すべてが夢のように朧げで、現実と幻の境界が曖昧になっていく。
満月の光が降り注いで、木々や花々を幻想的に照らしている。特に、庭園の奥に広がる白菊は、その白い花弁が月光を反射して、まるで雪が積もったかのように輝いている。
「奥様、白楊国は冷えますね。外套をお持ちしますので、しばしお待ちください」
少しだけ冷えた指先をそっと重ね合わせながら、玉蓮は頷いた。
「ええ、お願い」
玉蓮の肩を何度か手で撫でてから、翠花が来た道を戻っていく。その背中を見送ると、玉蓮は再び、庭園の奥深くへと足を進めた。
しばらく歩くと、白菊の鉢が置かれた場所に出た。満開のもの、蕾のもの、一つ一つの花が、それぞれに異なる表情を湛えながら咲き乱れている。
玉蓮は、その中のひときわ大きく、純白に輝く白菊に目を留めた。それは、まるでこの世の穢れを一切寄せ付けないかのような、神聖な美しさを放っている。
吸い寄せられるように手を添え、その清らかな香りを深く吸い込もうと顔を近づけた、その時——。
「——玉蓮」
低い声が、背後から心の臓を揺さぶった。有無を言わさぬ力強い声が。
振り返るな、と理性が諭す。しかし、振り返りたい、と本能が叫ぶ。多くの声が頭を駆け巡り、体が一瞬にして動かなくなる。まるで、全身の血液が沸騰したかのように、心の臓の音が、鼓膜を強く叩く。
「……違ったな」
もう一度、声が聞こえた。今度は、少しだけ安堵を含んだような、あるいは諦念が混じったような声。
砂利を踏む軽い音が耳に届く。一歩、また一歩と、こちらに近づいてくる。ふ、と漂う、伽羅の甘くも深い香り。
その人は、ついに玉蓮の隣に立った。肌を粟立たせるような、有無を言わせぬ威圧感が、音もなく玉蓮の全身を包み込む。視界に入らずとも、全身でそれと知れる気配。まるで、夜の闇が意志を持ち、人の姿を借りたかのようだ。
自らの呼吸さえもが、その存在に吸い込まれていく。
「崔夫人」
低く、しかし凛とした声が、闇を裂いて響いた。声に導かれるように、玉蓮はゆっくりと顔を上げる。その姿を捉えて、また一際大きく心の臓が脈打った。
視界に飛び込んできたのは、月明かりを背にした、漆黒の影絵のような男の姿。夜風が艶やかな黒髪を靡かせる。漆黒の瞳が、玉蓮を捉える。月明かりが男に遮られ、玉蓮の足元に、濃い影が落ちる。
「赫燕、将軍……」
玉蓮の唇から漏れたその名は、夜の闇に溶け込み、そして消えていく。
「酔われたのか、夫人」
「……少し、だけ」
玉蓮は、赫燕の視線から逃れるように目を伏せ、言葉を選びながら答える。しかし、その声は微かに震えていた。
「お前は、すぐ酔うからな」
ふ、と不敵な笑みを浮かべるその男の顔に、視線が奪われる。この男はいつだってそうだ。目の前の人間の瞳を自分に惹きつける。玉蓮は、無意識のうちに胸に手を置いていた。
見慣れた、でも、どこか懐かしい白楊国王宮の庭園の中を歩く。柔らかな土の感触が足の裏に心地よく、古木の枝が風に揺れる音、コオロギのさえずりが耳に届く。すべてが夢のように朧げで、現実と幻の境界が曖昧になっていく。
満月の光が降り注いで、木々や花々を幻想的に照らしている。特に、庭園の奥に広がる白菊は、その白い花弁が月光を反射して、まるで雪が積もったかのように輝いている。
「奥様、白楊国は冷えますね。外套をお持ちしますので、しばしお待ちください」
少しだけ冷えた指先をそっと重ね合わせながら、玉蓮は頷いた。
「ええ、お願い」
玉蓮の肩を何度か手で撫でてから、翠花が来た道を戻っていく。その背中を見送ると、玉蓮は再び、庭園の奥深くへと足を進めた。
しばらく歩くと、白菊の鉢が置かれた場所に出た。満開のもの、蕾のもの、一つ一つの花が、それぞれに異なる表情を湛えながら咲き乱れている。
玉蓮は、その中のひときわ大きく、純白に輝く白菊に目を留めた。それは、まるでこの世の穢れを一切寄せ付けないかのような、神聖な美しさを放っている。
吸い寄せられるように手を添え、その清らかな香りを深く吸い込もうと顔を近づけた、その時——。
「——玉蓮」
低い声が、背後から心の臓を揺さぶった。有無を言わさぬ力強い声が。
振り返るな、と理性が諭す。しかし、振り返りたい、と本能が叫ぶ。多くの声が頭を駆け巡り、体が一瞬にして動かなくなる。まるで、全身の血液が沸騰したかのように、心の臓の音が、鼓膜を強く叩く。
「……違ったな」
もう一度、声が聞こえた。今度は、少しだけ安堵を含んだような、あるいは諦念が混じったような声。
砂利を踏む軽い音が耳に届く。一歩、また一歩と、こちらに近づいてくる。ふ、と漂う、伽羅の甘くも深い香り。
その人は、ついに玉蓮の隣に立った。肌を粟立たせるような、有無を言わせぬ威圧感が、音もなく玉蓮の全身を包み込む。視界に入らずとも、全身でそれと知れる気配。まるで、夜の闇が意志を持ち、人の姿を借りたかのようだ。
自らの呼吸さえもが、その存在に吸い込まれていく。
「崔夫人」
低く、しかし凛とした声が、闇を裂いて響いた。声に導かれるように、玉蓮はゆっくりと顔を上げる。その姿を捉えて、また一際大きく心の臓が脈打った。
視界に飛び込んできたのは、月明かりを背にした、漆黒の影絵のような男の姿。夜風が艶やかな黒髪を靡かせる。漆黒の瞳が、玉蓮を捉える。月明かりが男に遮られ、玉蓮の足元に、濃い影が落ちる。
「赫燕、将軍……」
玉蓮の唇から漏れたその名は、夜の闇に溶け込み、そして消えていく。
「酔われたのか、夫人」
「……少し、だけ」
玉蓮は、赫燕の視線から逃れるように目を伏せ、言葉を選びながら答える。しかし、その声は微かに震えていた。
「お前は、すぐ酔うからな」
ふ、と不敵な笑みを浮かべるその男の顔に、視線が奪われる。この男はいつだってそうだ。目の前の人間の瞳を自分に惹きつける。玉蓮は、無意識のうちに胸に手を置いていた。
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