社内恋愛ファースト・シーズン

アリスの鏡

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2章 曖昧な境界線

6話 夜のオフィスへ 1



「どうした?」

「なんかミスがあった?」

「大丈夫だった?」

 香取さんの様子を不思議に思いながら自分のデスクに戻ると、スタッフたちが勢いよく話しかけてくる。どうやら、私はいつの間にか難しい顔をしていたみたい。異様に心配するみんなに、慌てて笑みを返した。

「大丈夫です。今週の土日の準備を頼まれただけです!」

 みんなは一気にほっとした顔を見せる。「なるべく千葉県の業務は俺らでやるよ」なんて言ってくれるみんなの言葉が嬉しくて笑っていたら、隣から広斗の視線を感じた。

「なに?」

「知事選のオフィスフロア準備?」

「うん。今日の九時からだって」

「お前、終電十一時台だろ? 他の奴の方がいいんじゃねえの?」

「でも、広斗か私に頼みたかったらしくて。でも広斗は調査件数が多いでしょ? だからだって」

「……あんまり無理すんなよ。俺も早く終わったら手伝う」

「あら! 広斗くん優しいじゃん」

「俺のほうが有能だからな」

「私だってオフィスフロアを準備するくらい、できますよ!」

 広斗の腕を軽く叩いて笑うと、広斗も笑顔を返してくれた。



 時計が夜の八時を回った頃から、パソコンの画面右下を確認しながら作業を進めていく。きりが良いところで終えられそう。

 香取さんに言われていた時間の十分前になったのを確認して、パソコンを閉じて大きく息を吐く。それを見ていたのか、香取さんが私のデスクに近づいてきた。

「草下さん、業務大丈夫そう? オフィスフロア準備入れる?」

「はい、大丈夫です。今、行きます!」

 柔らかく微笑む彼に同じく笑顔を返しつつも慌てて席を立つと、広斗がガタッと椅子を鳴らして立ち上がった。

「香取さん、俺も手伝います」

 その言葉に驚いて、広斗の方に振り向く。香取さんが言っていた通り、東京のデータは多い。さっきも隣の東京メンバーの誰かが、「まだまだ時間がかかる」みたいなことを言っていたのが聞こえてきていた。

「でも、広斗」

「俺は大丈夫。家近いし。そっちの作業の後に残ってやっていくから」

「ひろ——」

「矢野くん、ありがとう。でも、深夜になってやりすぎるのも良くないから、今日のところは草下さんだけで大丈夫だよ。明日の朝イチ提出の資料、終わってないでしょ?」

 香取さんは穏やかな微笑みを浮かべて、広斗に言い聞かせるように優しげに話す。

「広斗、ありがとう。千葉は資料終わってるから、大丈夫だよ?」

 私の言葉を聞いているのか、いないのか。どこか不機嫌そうな、呆れたような、なんとも言えない不思議な顔をする。そして、なにかを考えるように斜め下に視線を落としてから、ゆっくりと口を開いた。

「わかりました。すみません。明日から手伝います——」

「——明日からはね」

 明日から手伝うと言う広斗に、間髪をいれずに返答する香取さん。

「矢野くんに余裕があったら、別の仕事を頼みたいんだ」

 優しい言葉遣いなのに、有無を言わせぬ強い口調。それに少し驚いて香取さんを見上げるけど、そこにはいつもと変わらない優しい微笑みがあるだけ。

「別の仕事ですか?」

「あぁ。矢野くんに頼みたいんだよね」

「はい……わかりました」

 広斗は承諾したものの、その拳は強く握りしめられていた。どこか意味ありげな瞳が、私を一瞬だけ強く捉えた。

「うん。とりあえず、フロア準備は草下さんだけで大丈夫。じゃ、お疲れ様」

 香取さんは広斗に笑顔を返したと思ったら、すぐに方向を変えてドアの方に歩き出してしまう。

「じゃあね、広斗。行ってくるね」

「終電、気をつけろよ」

「わかってる!」

 広斗に手を挙げて答えて、すぐに香取さんの背中を追いかけた。
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