社内恋愛ファースト・シーズン

アリスの鏡

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3章 蜜月

19話 甘い朝 1



 スマホのアラームで目が覚めた。終わった後、私はそのまま眠ってしまったらしい。時刻は六時半。寝た気がしない。ベッドの上で上半身を起こし、小さく息を吐く。

「ねぇ広斗。ちょっとだけ起きて。鍵どうすればいい?」

「ん~……ポストに入れといて」

「わかった。広斗ご飯は? 何か作ろうか?」

「……いら、ない」

「そっか。それなら、先行くね。また後で」

「うん……」

 ノーメイクのまま電車に駆け込む。そして、エレベーターでフロアに上がり、清掃員さんに営業スマイルで挨拶をし、オフィスの扉を開けると誰もいない。つい数時間前までいた部屋に戻ってきた。途中のコンビニで買ったおにぎりを頬張りながら、休憩室から見える空に視線を移す。

「これが社会人か……」

 トイレでメイクして再び休憩室に戻れば、寝不足のせいだと思われる異様なテンションのメンバーが次々に顔を現した。憲吾が大きく手を振る。

「さっきぶり! 四時間ぶりじゃん!」

 憲吾の普段どおりのテンションだけど、突っ込むことも、笑うこともできない。この元気の良さが羨ましい。朝礼の開始時間になったけれど、香取さんの姿が見えなかった。

 広斗のところに泊まった翌日。香取さんと顔を合わせることなく済んで、内心安堵している自分がいた。別の上司が朝礼を行い、通常どおりの業務がスタートする。広斗は朝礼ぎりぎりに眠たげに出勤してきて、朝礼後にいつもどおり私の隣に座った。

「おはよう」

「おぉ。お前いつ出てった?」

 広斗が普通の声で話し出すから、一気に鼓動が早まる。泊まったことを隠さないその言い方に内心焦るけれど、昨日は終電がなかったのは周知の事実。終電がなくなったから同期の家に泊まったなんて、私たちの中では普通のこと。動揺せずに答えればいい。

「起こしたよ。七時くらい」

「え、起こした? なんでそんなに早く出たの?」

「着替えたかったの。メイク道具も持ってなかったから」

「昨日コンビニで買えばよかったじゃん」

「忘れてたの」

「ふぅん……お前、朝飯食った?」

「食べたよ」

「なんだよ、自分だけ。俺のは?」

「広斗が食べないって言ったんでしょ。起こしたときに聞いたもん、作ろうかって」

「……覚えてない」

「聞きました。広斗が寝ぼけてたんでしょ」

「これからは寝起きで食べないって言っても食べるから、作れ」

「勝手。しかも命令。なにそのワガママ王子は!」

「それにしても眠い」

「……人の話、聞いてるの?」

「目が開かない」

「まぁ、確かに今日は凄いね。栄養ドリンクに頼るしかないわ」

「ちょっと買ってきて」

「自分で行きなさい。自分で」

「……ちょっとストップ! 待って! 俺、ついてけてない!」

 毎度のことながら、先輩が声を上げた。広斗は先輩の顔を少しだけ見て、すぐにパソコンに視線を戻す。どうやら表情を崩さずに、対応しようとしているらしい。

「……なんですか?」

「何、今の会話。ドキドキするからやめてよ! 仕事が手につかないじゃん!」

「別に、勝手に仕事してもらって大丈夫です」

「またお泊まり!? ねぇ! 朝飯の会話とか! ちょっと! しかも雰囲気違うし……何かあった?」

 何かあったかという先輩の言葉に、動きが止まる。答えられず、しばらく動けずにいると、隣で広斗がパソコンのキーボードを突然打ち鳴らした。驚いて画面を覗き込むと、『ファ雨いwぱふぁう』という謎の文字列が並んでいる。

「矢野、動揺しすぎ。耳赤いし!」

 広斗の頬が一気に赤く染まるから、なんだか私も恥ずかしくなって頬に熱が集中する。先輩に気付かれないように、パソコンの影に隠れてカタカタと音を立てて、キーボードを打つ振り。

「なに、その反応! 広斗くん可愛いんですけど!」

「俺は別に!」

「うらやましい! 俺も恋した~い!」

 先輩の歓声のような声に、周りからは笑いが零れた。広斗は必死で否定しようとしているけれど、そんな広斗を全く気にしていない先輩が更に話を続ける。

「何かあったのかぁ。あったんだろうなぁ」

「だから」

「聞きたい! 聞きたいけど! 俺、大人だしな。まぁ、幸せになってくれるなら安心だよ、お兄さんは。君たち中学生カップルを見守ってきてよかったなぁ。やっと進展したのか……感慨深いなぁ」

「……お兄さんじゃなくて、おじさんでしょ」

 あ、広斗反撃。

「はぁ!? 十歳しか変わらないだろ!」

「じゅーぶんです」

「お前! 矢野オ!」

 寝不足のテンションの高さか、広斗も朝からよく喋る。朝はいつも不機嫌で、必要最低限の会話しかしないのに珍しいこともあるものだ。今日は仕事中にわからないところを聞いても、しょうがねえなと悪態をつきつつも意地悪せずに教えてくれる。でも、教えてもらっている間に今度は私の居心地が悪くなる。

 私を見る広斗の目が優しい気がして、恥ずかしくて目を合わせることができない。広斗の眼差しに耐えられなくて、慌てて目線を逸らして俯いた私の頬に、広斗の指の背が触れる。撫でるようにして優しく動かされて、更に心臓の音が大きくなっていく。

「どうした? 体調悪い?」

「わっ悪くない」

 不覚にも上擦った声が出た。

「……変なやつ。でも目の下のクマすごいな」

「そう、かな?」

「……昨日、結局ほとんど寝かせてねぇもんな。悪かった」

 瞬間、私の思考が停止した。先輩が飲んでいたコーヒーを吹き出しそうになる音が聞こえる。

「ちょっ……ひろ、と!?」

「ん?」

 広斗の親指が目元を辿る。その言葉も、その指も一体なにを考えているの。やめてよと声にならない心の叫びをあげながら、一人で視線を彷徨わせて慌ててしまう。

「だ、大丈夫です!」

 広斗の手から逃げるようにして顔を逸らしたけれど、思わず敬語になってしまった自分が更に恥ずかしい。
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