社内恋愛ファースト・シーズン

アリスの鏡

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5章 混沌の交差点

30話 残り香 1

 香取さんは、何も言わずに歩いていく。

 日曜日の池袋は人が多くて、寝不足の私はそれをうまくよけられずに、人にぶつかりそうになりながら歩いていた。それを見た香取さんは笑って、私の手をその大きな手で包み込んでくれた。香取さんの手に引かれながら歩く池袋の街は騒々しさが消えて、とても落ち着いた街に見える。

 彼は、私を駅まで送り届けて笑顔で見送ってくれる。数歩進んで改札に入り、振り返る。多くの人が私と香取さんの間を行きかうのに、香取さんの顔がはっきりと見える。手を振ってくれる香取さんに同じように手を振り返して、ホームに向かった。

 電車に乗り込み、スマホを開き、陽子に今から帰るとメッセージを送れば、画面を閉じるよりも早く、震えるスマホ。『どうなった?』っていう一言で思い出すのは、香取さんの腕の温かさで。唇の優しさも、あの香りも、あの眼差しもすぐに思い出せてしまう自分が怖くて。慌ててスマホに意識を戻して、後で話したいと返事をして画面を閉じ、そのまま目も閉じた。何度も蘇ってしまうあの香りと温もりが、胸を戸惑わせて、そして高鳴らせている。

 家に着きスマホを見ると、香取さんからメッセージがきていた。

『今日のことは気にしないで。俺が勝手にしたことだから』

 違う。あれは、違う。あれは、私がしたことだ。一回りも歳が違えば、何もかもが違う。全てを受け止めてくれそうな包容力と安心感。それに、何もかも忘れてしまいそうな程の、熱。

 でも、やっぱり後悔している。香取さんの気持ちを利用したことも、広斗じゃない人とキスしてしまったことも。

 家に着いて早速電話をかければ、「おちた?」っていう第一声が耳に響く。

「え?」

「香取さんに堕ちたでしょ?」

「……あの瞬間は」

「なにしたの?」

「それ聞くの?」

「それがメインでしょ!」

 メイン……それがメイン。陽子はいつでも陽子らしい。

「……キスしちゃったの。香取さんと……」

「あああ! やっぱり! とうとうきたね」

「でも、やっぱり良くなかった。後悔してる。広斗のことが好きなのは変わらないし、やっぱり広斗と一緒にいたい。まぁ、こんなことしておいて何言ってるんだって話ですけど」

「しょうがないよ。きっかけ作ったのは矢野の方でしょ」

「相変わらず私には甘いね、陽子」

 聞こえてくる明るい笑い声に救われる。笑い声を聞きながらホッとしていたのに、陽子は違うらしくて。

「それより!」

「っ……」

 耳が痛くなるほどの声の大きさに、スマホを耳から遠ざける。

「ちょっと、声……」

「良くなかったって、キスが?」

「……は!?」

「キス! 良くなかったの? 香取さん上手そうなのに」

 この子はなんてことを聞いてくるの。そんなことを答えていいものなのか、わからずに黙りこむと、電話の向こうは「どうなの? どうなのよ!」って興奮気味。

「え、えぇ……うん、それはまぁ」

「やっぱり上手かったんだ」

「上手いっていうか……私、そういうのわからないよ!」

「何よ、ゆりちゃん。あなた、秘密にする気?」

「だって……まぁそれは、違うっていうか」

 そうだ。違うとかそんな次元ではなかった。私にとって、あれは、もう違うものだった。

「……怖い、くらいだった」

「怖い?」

「一瞬、広斗のことも、他のことも全部忘れちゃって……あんなの初めてで」

「あんなの初めて……いいね! やっぱり香取さんいいね!」

「ちょっと、陽子……」

 私の呆れ声にケラケラ笑っていた陽子。でも、電話からは小さく息を吐く音が聞こえてきて、それは直感的に、ああ陽子は何かを言おうとしているって思ったの。だから、私も同じように息を吐く。
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