闇を抱く白菊 —天命の盤— 復讐の華は、冷酷将軍の腕に咲く。

アリスの鏡

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第六章 首輪の在り処

三十話 綻ぶ笑み

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◇◇◇

昼下がり。赫燕かくえんの天幕は、荒々しい熱気で満ちていた。床に敷かれた麻の上に幹部たちが車座くるまざになって陣取っている。

彼らが興じているのは、もちろん賭博。金銭や財宝を賭けて、互いの虚勢と運とを試す、この軍の日常的な光景。

「おい、牙門がもん! また、イカサマしやがったな!」

「なんだと! 証拠もねえのに、わめくんじゃねえ!」

牙門と迅が今にも掴みかからんばかりの勢いで、言い争っている。

「どっちもどっちだろ」

その横では、朱飛が面倒くさそうに口を開き、酒をあおる。対照的に、子睿しえいは扇子で口元を隠し、その瞳だけを細めて楽しげに微笑んでいる。

牙門と迅の言い争いも、朱飛の無関心も、子睿の悪趣味な微笑みも、全てはいつものこと。これこそが赫燕軍。

「……相変わらずですね」

手に持った地図の土埃を払いながら、誰にともなく小さく呟く。玉蓮は、その喧騒けんそうから少し離れた場所、天幕の隅で地図の整理を進めていた。広げられた地図の上には、これから進むべき道のり、敵の陣地、そして潜在的な危険地帯が細かく書き込まれている。

一つ、二つと地図を壺に戻していた時、ふと、子睿が天幕の隅で地図を整理している玉蓮に視線を投げた。

「玉蓮は、どう思われますか?」

唐突に話を振られ、玉蓮は顔を上げる。

「……何がですか?」

「お二人のどちらがイカサマをしているか、ですよ」

牙門と迅は向かい合い、古びた札を広げたまま固まっている。二人の視線が玉蓮に集まる。 玉蓮は、呆れたように息を一つ吐くと、すぐに玉蓮は腕を上げて、ぴたりとその指で一方を指し示す。

「おそらくは、迅かと。先ほどから、三度、札を配るそのほんの一瞬だけ、左の小指が不自然に動いていましたから」

「げっ」

「ガハハ! 迅、ざまあみろ! お前のその小細工は、玉蓮には通用しねえってことだ!」

迅の顔が引きつり、牙門が腹を抱えて大笑いする。子睿が感心したように「ほう」と息を漏らし、パチンと音を鳴らして扇子を閉じた。

「お見事。指先の微かな動きを見逃さないとは」

玉蓮は、その言葉に特に反応せず、再び地図の整理に戻ろうと体を翻した。が、しかし、その玉蓮の耳に、子睿の笑みを含んだ声が届く。彼は椅子に深く腰掛け、愉快そうに玉蓮を見上げていた。

「初めてここへ来た頃の、警戒心に満ちた小動物のような様子が嘘のようです。もはや、この天幕のあるじも同然の落ち着き様ですな」

子睿のいつもの揶揄からかい。反論するのも、真に受けるのも時間の無駄。玉蓮は、黙って聞き流そうとしたが、「なあ、玉蓮」と牙門が名を呼んだ。牙門はまだ、笑い疲れから完全に回復していない様子で、ひいひいと目に涙を溜めながら少し苦しそう。

「なんで迅のイカサマが分かったんだ? 俺は、今まで、どんなに集中しても一度も見抜けたことがねえのに。こいつは、本当に天性の詐欺師だと思ってたぜ」

玉蓮は、地図から目を離さずに答える。

「集中していれば、誰でも気づくことです。問題は、牙門が迅のイカサマに乗ることを楽しんでいるから、見抜こうという意図が薄れているだけでしょう」

その言葉は、牙門の図星を突いたようで、彼は「うっ」と呻き、反論の言葉を見つけられずに頭を掻いた。子睿は、また面白そうに、ふふふと笑い声を上げた。肘で迅の脇腹を小突きながら、口元にいたずらっぽい笑みを浮かべる。

「だそうですよ、迅さん」

「玉蓮に言わせると、牙門は俺のイカサマを楽しんでるってことだな! ま、あながち間違いでもねえ。これからも遊んでやるからな、俺の可愛い牙門ちゃんよ!」

迅は、まるで勝ち誇ったかのように胸を張り、片目を閉じて笑いかけた。

「なーにが遊んでやるだ。俺が遊んでやってんだよ、このイカサマ師が」

牙門は、即座に、心底うんざりしたという調子で言い返した。

そして、ふいに視線を迅から隣に控える玉蓮へと移す。その目は、獲物を品定めするかのように、まじまじと玉蓮の顔を食い入るように見つめてくる。

「それにしても玉蓮、顔色悪くないか。いつもの白さじゃねえ。目の下に隈もできてるぞ。まともに飯食ってんのか? いや、それより、ちゃんと寝てんのかよ」

牙門が大真面目な顔で覗き込んでくるものだから、玉蓮は息を呑んだまま固まってしまった。言えるはずがない。夜ごと、天幕の奥で何が行われているかなど。その沈黙をどう受け取ったのか、牙門はさらに「おい、まさか病気か?」と身を乗り出す。

その瞬間、横で酒を飲んでいた朱飛が、盛大にむせ返った。

そして、助け舟を出すが如く、ここは私が答えましょうと言わんが如く、得意げで皮肉めいた顔で子睿が割り込んでくる。

「全く、牙門は察しが悪い。お頭の傍にいて、ゆっくり眠れる日が来るとでも?」

「そういう意味で言ってねえよ。まあ、確かに今まで数人がかりで相手してたんだ。眠れる時間なんてねえか、がっはっは!」

牙門は、豪快に笑い飛ばしたが、玉蓮は自分の首筋がじわりと熱を持つのがわかった。その熱は、止めどなく頬へと伝播していく。

居心地の悪さに玉蓮が俯いた、その時。

「——おい、玉蓮」

低く、よく通る声が、喧騒を一刀両断にした。それまで天幕の奥に置かれた大仰な椅子で、ただ黙って酒をあおっていたはずの赫燕。彼の一言で、天幕の空気が凍りついたように静まり返る。赫燕は、赤くなった玉蓮の顔など目に入らぬように、冷ややかな瞳で彼女を射抜いた。

「迅の小指の動きが見えたか」

「……はい」

「観察できんなら、次は戦術だ」

「え?」

「あの城を落とす策の続きだ」

赫燕は顎で、玉蓮が整理していた地図をしゃくった。まるで、「下らぬ遊びは終わりだ」と告げるように。

「……お前は城主の娘を捕らえると言った。だが、その娘をどう使う?」

玉蓮は一瞬言葉に詰まったが、すぐに居住まいを正し、背筋を伸ばした。先ほどまでの恥じらいの意識を奥底に消し、その瞳に軍略家としての光を宿らせる。

「……開門されなければ、城壁の前で首を落とします。見せしめとして」

天幕から音が消えた。全員の視線が自分に突き刺さるのを感じる。静寂の中、朱飛が強く空の杯を卓に置く音だけが響いた。

「……まだ、甘いな」

赫燕の喉の奥で、くつり、と低い笑い声が鳴った。

「ただ、晒すだけじゃ芸がねえ。その首に手紙を結びつけてやるんだよ。『次は、お前の城の住人たちの番だ』と、な」

玉蓮の指先が冷たくなるのと同時に、腹の底が熱く疼いた。残酷すぎる策。けれど、それは何よりも確実で、美しいとさえ思えてしまう。

赫燕の放つ血の匂いに、魂が呼応している。乾いた唇を舌で湿らせ、その男の瞳を真っ直ぐ見つめる。心の臓が、何かを求めるようにその鼓動を強く打つ。息が浅く、短くなっていく。その時——

「お頭」

それまで黙っていた朱飛の声が響いた。凛とした声に、歪な空気が静まり返ると同時に、玉蓮の唇から息が、ふ、と溢れた。

「なんだ」

赫燕の不機嫌そうな声が返る。

「戦に影響するんで、そろそろ玉蓮を隊に戻してくれませんかね」

「ああ?」

赫燕の眉が、ぴくりと上がる。

「こいつは、うちの隊です」

天幕の空気が凍り付く。自分を赫燕から守ろうとするかのようなその言葉に、玉蓮は驚きで目を見開いた。赫燕は朱飛を数秒間だけ見つめると、やがてその唇に微かな笑みを浮かべる。

「……お前は、こいつが欲しいのか」

赫燕の問いが落ちた瞬間、朱飛の体がぴたりと止まった。その問いには、軽薄な色気も、荒々しい激情もない。ただ静かに、王が臣下に問いただすような響きだけがそこにある。

朱飛の視線が、ゆっくりと玉蓮へ流れる。だが、目が合ったのは瞬きするほどの間だけ。彼はすぐに視線を床へ落とし、杯を持つ手に、白くなるほど力を込めた。

「……お頭」

「お前は黙ってろ」

氷のような一言が玉蓮の言葉を簡単に遮る。赫燕は彼女を一瞥いちべつもせず、ただ朱飛を見つめている。窒息しそうなほどの静寂が天幕を支配した、その瞬間。


——バサリ。


その凍り付いた空気を破ったのは、重い布が擦れる大きな音。玉蓮が思わず視線を入り口に向ければ、そこには天幕に足を踏み入れたせつがいた。

せつは、一度、天幕の中に視線をぐるりと巡らせて、頭の後ろを手で何度かかき、その金色の髪を揺らす。

せつ……」

「ほらよ」

ガシャン!

耳をつんざく金属音と共に、一振りの剣が玉蓮の足元に転がった。鞘に収まっていても分かる、吸い込まれるような曲線の美しさ。柄には、使い込まれた革が丁寧に巻かれている。

「なまくらな剣じゃ、自分の首も守れないだろ。これでも使え」

子睿が、待ってましたとばかりに口を挟む。

「おや、刹さん。お優しいですね」

「うるせえ、俺はまだ認めてないんだからな!」

刹は顔を赤くして怒鳴り返すが、すぐに玉蓮の方を向き直る。

「……こないだの戦で、お前の剣、刃こぼれしてんのが見えたんだよ。気になって仕方ないじゃん」

口元を歪めながらも、その視線は、どこか居心地悪そうに玉蓮とその足元の剣の間を行き来していた。

「いいか、よわっちい戦い方しやっがたら承知しねえからな」

「がっはっは! 刹、いつからそんなに優しくなったんだよ!」

牙門の豪快な笑い声に、「うるせえな!」と刹がまた言い返している。玉蓮は足元の剣を拾い上げ、そのずしりとした鉄の感触を確かめた。


それは、戦場で生きるための無機質な道具のはずなのに、なぜか、手のひらに確かな熱が宿っていくようだった。その熱が、赫燕に向けていた意識を、今、目の前にいる仲間たちへと引き戻す。気づけば、彼女の唇から、ふふ、と朗らかな笑い声が漏れていた。

「ありがとうございます、大切にします!」

牙門が、ぶはっと吹き出した。

「なんだよ、姫さん、笑えんじゃねえか!」

張り詰めていた肩から力が抜ける。

ふと視線を動かすと、豪奢ごうしゃな椅子に座る赫燕の口元が、ほんのわずかに緩んでいるのが見えた。それは嘲笑か、それとも——。

一瞬だけ垣間見えた、毒の抜けたようなその表情に、玉蓮は目を離せずにいた。
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