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1話

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「レベッカ! わたくしにアレッサンドを譲ってちょうだい!」


 城での舞踏会に招かれ、愛する婚約者アレッサンドと共に優雅な一時を過ごしていた時のこと。レベッカはアレッサンドと中庭で二人きりでいたところを、護衛を引き連れた第三王女のパトリツィアに呼び止められた。

 突然の彼女の衝撃的発言によりその場の空気は一変。レベッカは困ったようにパトリツィアの表情を伺った。

「……パトリツィア姫。アレッサンドを譲るとは一体」

「わたくし、アレッサンドに一目惚れしてしまったの! だから、結婚相手はアレッサンドじゃないとイヤ! お願い、わたくしにアレッサンドをちょうだい!」

 パトリツィアは髪の色と同じ黄金に煌めく瞳で、すがるようにレベッカのドレスの服裾を掴む。十五を迎えたばかりの彼女は、末娘として国王から誰よりも愛されて育ったと聞いた。きっとこの愛らしい姿で誰をも虜にしてきたのだろう。
 実際、レベッカはパトリツィアのことを妹のように可愛く想っており、幾度となく彼女の願いを聞き入れてきた。女騎士として騎士団に属していたレベッカをどうしても専属騎士にしたいと泣いて頼まれた時も、お茶会に一緒に参加して欲しいと言われた時も、視察に同行して欲しいと言われた時も、可能な限り彼女の願いを叶えてきた。

 しかし、今回の彼女の願いに関しては、流石のレベッカも素直に頷くことは出来なかった。

「……パトリツィア姫。私がアレッサンドと婚約を結んでいることは御存知ですか?」

「ええ。知っているわ」

「簡単に婚約を解消することは出来ないことも御存知ですか?」

「ええ。でもお父様に頼めばどうにかなるのよね?」

 パトリツィアにぐっと顔を近付けられ、レベッカは言葉を失う。確かに、婚約解消は出来ないことも無い。況してや此の国の頂点に立つ彼女の父親──つまり、国王から命じられれば、婚約関係は解消されてしまうだろう。

 しかし、それでも簡単には頷けない。レベッカは婚約者であるアレッサンドを深く愛しているのだ。嘗て騎士団で共に戦ってきた仲間として、誰よりも大切に想ってきた存在をいとも容易く手放せる訳がない。

 パトリツィアに攻め寄られ、完全に黙り込んでしまったレベッカ。隣にいたアレッサンドがレベッカを見兼ねたのか、小さく咳払いをした。

「……麗しきパトリツィア王女殿下。貴女のお気持ちは身に余る光栄です。しかし、婚約のことは私達のことだけではなく、両家に携わる問題ですので今すぐに御返事は出来ません。少し、お時間を頂けますでしょうか」

 アレッサンドはレベッカの背中を優しく擦りながら、パトリツィアに穏やかな口調で告げる。パトリツィアは唇をぎゅっと結ぶと、アレッサンドの手を握り締め、甲に愛らしい薄紅色の唇を押し付けた。

「ええ、待っているわ。わたくし、貴方と一緒になりたいの。お父様にも早く頼んでみるわ」

 国王に頼む。それは最早、婚約解消が決まったも同然ではないか。レベッカは絶望の淵へと落とされたような心境に見舞われた。

「じゃあね、レベッカ。貴女のこと、信じているわ」

 パトリツィアは呆然とするレベッカの頬に口づけをし、護衛を引き連れて颯爽とその場を去っていった。


「……レベッカ」


 唐突すぎる出来事に、レベッカはその場から動くことが出来なかった。アレッサンドが心を落ち着かせるようにレベッカの額に口づけをするも、戸惑い、悲しみ、様々な感情が溢れだし、レベッカは忽ち泣き崩れてしまった。

 踞って泣き続けるレベッカを、アレッサンドは優しく抱き締めて慰め続けた。











 パトリツィアによる求婚騒動は、レベッカの実家にも直ぐに広まった。アレッサンドと共に北の辺境の地に存る屋敷に戻ってきた頃には、既に城から一報が届いていたのだ。

「レベッカ、アレッサンド。此れにサインをしなさい」

 応接の間に通された二人の前に差し出されたものは、厚手の書類だった。内容は一目見ただけで分かる。婚約を白紙撤回する内容が記されたものだ。

「今回の件は残念だが、私は王女からの求婚を拒んでまで、君達を結婚させることに利があるとは考えていない。クレディア家も婚約解消に納得しているようだ。アレッサンドが王女と結婚すれば簡単に公爵の爵位が得られるからな。アレッサンドを婿養子に迎えられないのは残念だが、レベッカの相手に関しては私がそれ相応の男を見繕ってやる」

 淡々と父から言葉を告げられ、レベッカの頭の中は真っ白になる。
 まさか、パトリツィア姫のあの一言で本当に婚約が解消されてしまうなんて。ただでさえ不安に満ちていた心が、あっという間に奈落の底に突き落とされていく。

「レベッカ!」

 気付けば、レベッカは部屋から飛び出していた。

 長い廊下を駆け抜け、自分の部屋へ閉じこもる。レベッカは直ぐ様ベッドに飛び込み、シーツに顔を埋め、ひたすら泣いた。

 こんなことになるのなら、舞踏会を欠席すれば良かった。アレッサンドを連れていくべきではなかった。アレッサンドをパトリツィアに紹介すべきではなかった。

 嫌な予感は何となくしたのだ。パトリツィアにアレッサンドを紹介した時に、彼女は目を輝かせてアレッサンドを見つめていた。時と、全く同じ目をしていたのだ。

 しかし、どんなに後悔しても、もう遅い。
 王族からの求婚は拒むことは出来ない。
 唯一の頼みの綱だった辺境伯である父も、婚約解消に同意してしまった。
 アレッサンドが共に歩む未来は、露となって消え去ってしまったのだ。

「アレッサンド……」

 レベッカが涙を目尻に滲ませながら愛しい人の名を呟いたその時、部屋の扉をノックする音が響き渡った。

「レベッカ。中に入るぞ」

 ガチャリ、と音を立てて扉が開き、その奥からアレッサンドが姿を現した。目を擦って咄嗟に涙を隠そうとしたレベッカだったが、歩み寄ったアレッサンドによって腕を持ち上げられてしまった。

「レベッカ。泣いているのか?」

「っ、アレッサンド……」

 レベッカの頬を透明な露が伝う。

 アレッサンドはベッドに腰を掛けて彼女の涙を親指で拭うと、そっとレベッカを腕の中に抱き寄せた。

「愛しい私のレベッカ。突然のことだ、戸惑うのも無理はない。今はたくさん泣くといい」

「アレッサンド……」

 大きな手に背中を撫でられ、震えていたレベッカの心と身体が次第に落ち着きを取り戻していく。顔を上げれば、アレッサンドの唇が額に落ち、レベッカは心の中が少しだけ温かくなったような気がした。

「……愛しています、アレッサンド。私が父の意向で黒の騎士団に入り、貴方に出会った時からずっと」

「レベッカ……」

 そう。レベッカは男児に恵まれなかったリバード家の犠牲という名の代表に立ち、父が統率をしていた黒の騎士団に無理矢理入れられたのだ。そこで出会ったのが、当時騎士団の副団長を務めていたアレッサンドだった。
 アレッサンドは騎士団一の剣の腕を持ちながら、聡明さも併せ持ち、そして何よりも優しい男だった。レベッカはそんなアレッサンドに直ぐに魅入られ、彼への恋心を自覚したのと同時に、アレッサンドとの婚約が両家によって取り決められた。レベッカは思わぬ偶然から生まれた嬉しい出来事に、心の中で涙した。愛しい人と一緒に人生を歩めるのだと、幸せな気持ちでいっぱいになった。アレッサンドも決められた婚約に対して何一つ嫌な顔をせず、レベッカをそれまで以上に大切にしてくれた。

 このまま結婚して、アレッサンドと幸せになるのだとレベッカは夢見ていたのだ。

「……本当に、愛しています。しかし、今回の件ばかりは、どうしようも出来ないのかもしれません」

「……レベッカ」

 家同士で取り決められた結婚に、それ以上に権力を持つ者による圧力が掛かってしまったのだ。レベッカには、それに対抗する術が見当たらない。アレッサンドを愛しているという気持ちだけでは、どうにもならない。

「……お前は、それでいいのか」

「それでいいも何も、そうするしかないのです」

 レベッカは張り裂けそうな胸の痛みに耐えながら、消え入りそうな声で呟く。アレッサンドは彼女を見下ろしたまま黙り込むと、暫くして大きな溜め息を吐いた。

「……ならば、仕方ない。お前がそう言うなら、あの書類にサインをしておこう」

「……アレッサンド」

「婚約者としてお前に会うのはこれで最後になるだろう。さようならだ、レベッカ。お前が幸せになることを祈っているよ」

 アレッサンドはすんなりとレベッカから身体を離すと、振り向きもせずに部屋の出口へと向かった。

「アレッサ……」

 バタン、とレベッカの声を遮るように扉が閉まる。

 呆気ない愛しい人との別れにレベッカは戸惑いを隠せず、一人、部屋の中で涙を流した。


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