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第1章
17話
しおりを挟む花の香りをほのかに纏うサクラの髪に顔を埋め、もう二度と離すまいと抱きしめたそのとき。安らかな雰囲気を一瞬にして崩壊させるような声が、ヴィクトールの耳を犯した。
「あぁ。みーつけた」
「──っ!?」
ヴィクトールは即座に飛び起き、穏やかに眠るサクラを抱えたまま寝台の後方へと回る。
いつの間にか開いていた扉の前。そこには、全身に斑模様の血を浴び、白い歯を剥き出して嗤う男──勇者グレンの姿があった。
(なぜ、この男がここに)
破裂しそうなほどに鼓動を速める心臓。
かつての忌々しい記憶が甦り、ヴィクトールの蟀谷に青筋が立つ。
──グレン・デイビーズ。サクラと浄化の旅を共にし、最強の勇者と崇められた男。剣の腕は第一騎士団の精鋭達をも凌駕すると言われ、平民出身にも関わらず、数々の魔獣討伐の功績により異例の速さで爵位を手に入れた軍人だ。前王であるヴィクトールの父は人間離れしたグレンの強さを気に入り、彼を勇者と仕立て上げたが、誰も彼の人格が破綻していることに気づかなかった。
ヴィクトールはこの男の残忍さを知っている。異世界人であるからと、か弱いサクラを嬲り、酷く虐げた非道な男だ。サクラとの結婚を機に、二度と近付けないように遠い場所へやったというのに。
「お、まえ……」
ヴィクトールはサクラを守るように腕の力を強め、勇者の皮を被った悪魔を鋭い目付きで睨む。
「おぉ、怖い怖い。でも、まさかここまで上手く事が運ぶとは思わなかったなぁ。城からの逃亡、お疲れさまでーす」
唇の端についた血をペロリと舐め、小馬鹿にしたように嘲笑うグレン。
出口を塞がれたヴィクトールは、額に汗を滲ませながら後退りをした──が、この部屋も広さには限りがある。すぐに背中が壁に当たり、逃げ場を失ったヴィクトールの額から眉間を伝って汗がこぼれ落ちていった。
「それにしても、国王陛下サマがこんなにもその女にご執心だったとはなぁ。今、城は大変な騒ぎになっていますよ? 異端人に取り憑かれて狂った国王が逃げ出したってね。一体、誰がこんな噂を流したんでしょう?」
「黙れ。異端者はお前だ」
「はっ、そりゃあ異端者から見た常人は異端でしょうよ」
くくくっ、とグレンは含み笑いを漏らし、ヴィクトール達との距離を詰めていく。
グレンの足に嵌められた革靴が床を踏むたびに、ギシリギシリと古い板が軋む音を立て、薄気味悪さが異様に増す。
(どうすれば、逃げられる)
腕の中のサクラはまだ夢の中だ。今、目覚めてしまえば、この男の姿を目に映してしまう。サクラの心的外傷を抉るような真似だけは避けなければ。
「さぁさぁ。大人しく捕まってくださいよ。俺からは逃れられても、城からの追っ手が貴方達を捕らえに来ますよ? それか、その異端者だけでも差し出してください。王を惑わした魔女として然るべき処罰を──」
ゲラゲラと下品に笑うグレンの声は、荒々しい呼吸にかき消されるようにして途切れた。
毛布に包まれたサクラを瞬きせずに見つめていたアメジストの瞳は、徐々に足元へ落ちていく。
──そこには。頭から血を流し、地べたに這いつくばりながらグレンの足首を掴むニクスの姿があった。
「……へい、か。にげて、くださ、い」
夥しい量の血を吐きながらも、ニクスはグレンの動きを残された力で封じようとする。ずるりずるりと身体を引き摺り、命を賭して使命を全うしようとする彼を見下ろすグレンの目は、ゴミ屑を蔑視するそれと一緒だ。
ぷるぷると腕を痙攣させながら紅色に染まった手でしがみつくニクスに、グレンは容赦なく蹴りを喰らわせた。
「っ、ぐ、ふっ……」
「はーい、ご苦労様でした。お前の勇姿、頭の隅っこにでも記憶しておいてやるよ」
多分寝たら忘れるけどな。グレンは吐き捨てるようにそう告げ、ぬらりゆらりと妖火を灯した瞳を怪しげに細める。
一方のヴィクトールは、悪魔に気づかれないようにと悴んだ手を窓へ伸ばしていた。
(……ニクス。済まない)
サクラだけは、他のなにかを犠牲にしてでも守らなければならない。それだけの覚悟を、ヴィクトールは心に刻んだのだ。
「さーて。邪魔者は消え……お?」
グレンが振り返ったのと同時に、ヴィクトールはサクラを抱えたまま窓から身を乗り出した。雑草の生い茂る地面を踏み込み、一瞬の躊躇いも見せることなく馬に飛び乗る。
「サクラ。しっかりと掴まっていろ……!」
グレンは城からの追っ手が迫っていると口にしていた。つまり、城の人間がヴィクトール達を敵と見做したと言っても過言ではないだろう。
城から離れた場所──いや、この国から一刻も早く、逃げ出さなければならない。サクラの心と身体を守るために、ヴィクトールは逃れなければならない。
「はっ、はっ、は……っ」
片腕でサクラを抱いたまま、ヴィクトールは麓を駆け抜け、足場の悪い岩山を通り抜ける。開かれた視界に映ったのは、荘厳と聳える古の神殿。数年前にサクラを異世界から喚んだ場所だ。
この先の道を進めば、南の国境を抜けることができる。
「あと少し、耐えてくれ。サクラ……」
サクラを失うかもしれないという恐怖に蝕まれながら、老朽した神像の佇む入り口を通り抜けようとしたそのとき──
ヴィクトールの背中に、熱く迸るような衝撃と痛みが駆け抜けた。
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