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第1章
16話
しおりを挟む「──へっくちっ!」
草花の匂いを含んだ風が鼻を擽り、ニクスは一際大きなくしゃみを放った。
屋敷の表に立ってから数時間。自ら見張りを役を担うとは言い始めたものの、さすがに空腹が限界を迎え始めていた。今朝は騎士団寮の食堂で朝餐の争奪戦に敗れ、空っぽの胃に入れられたのはパン一つとスープのみ。
故郷を発ってこの国に来たときから覚悟はしていたが、想定していたより遥かに食糧不足問題は深刻だった。
「お腹が空いたよぉ……」
ニクスはその場に踞り、切ない鳴き声を上げる。
脳裏に自然と甦るのは、婆やが作ってくれた郷土料理。捌きたての鶏を薪火で炙って、酸味が効いた自家製ソースに漬けて食べたあの絶妙な旨さと言ったら、他の薄っぺらい料理なんて比にならない。
ああ、あの迸る肉汁を口いっぱいに啜りたい。
「う、うおぉぉぉ……煩悩を殺せ、おれぇ……」
口の中にだらだらと溢れる唾液を呑み込み、全力で首を横に振り上げる。
母国の王都騎士団長である父親にも言われた。他国に赴いたからには、その国の騎士団の名に恥じぬように忠誠を尽くせと。
ならば、この国の頂点に立つ王と王妃は命に代えても守らなければならないだろう。故国の元第三王女であるクリスチアーヌと王は円満な関係に見えて実は不仲だとか、セドリックは本当に二人の子なのかと有らぬ噂が流れていたが、気にしてはいけない。
二番目の兄にも『お前は二つ以上のことを考えるといつも高熱に魘される。余計なことは考えず、目の前のことにだけ集中しろ』と忠告された。
「俺が守るのはっ、陛下と殿下の二人でいいはずっ!」
夕闇に染まる空の下、ニクスはその場の雰囲気に似つかわしくない謎の雄叫びをあげる。
気合いを入れ直して見張りに戻ろうとくるりと体勢を変えた瞬間、ニクスの身体が仰々しく跳ね上がった。
「ああ、ごめんごめん。驚かせちまったかぁ」
先ほどまで気配すら感じなかったのに。ニクスの視線の先には、半月のように目を細めて不気味に笑う男──勇者グレンの姿があった。
「だ、誰だ、おま……」
「サクラ、この屋敷にいるんだろ」
気を動転させながらも問い掛けるニクスに対し、グレンは表情一つ変えない。彼の禍々しいアメジストの瞳に映っているのは、目の前に佇むニクスではなく。中に誰がいるのかを見透かしているかのように屋敷を捉えていた。
「さっさとサクラを出せ。邪魔者は一人残らず消してやる」
✿ ❀ ✿ ❀ ✿ ✿ ✿ ✿ ✿✿✿✿
目を覚ましてはすぐに眠り、再び夢の世界から意識を取り戻し──腕の中のサクラはうとうとと微睡みながら、襲いかかる眠気と必死に戦っていた。
「……サクラ。大丈夫だ、疲れが取れるまでゆっくり休め」
「っ、んっ……」
指先から伝わる温もりに、サクラは心地良さそうにヴィクトールの胸元に頬を擦り寄せる。
髪を優しく撫でてやれば、サクラは視線をゆっくりと持ち上げて。蝋燭の光が揺らめく水晶のような瞳に、目尻を腫らしたヴィクトールの顔を映し出した。
「……どこにも、行かない?」
「え?」
「起きても、いなくならない?」
あどけない声で尋ねるサクラに、ヴィクトールは翡翠の瞳を大きく見開く。じわりと光の影が溜まったサクラの瞳から雫があふれ出し、眦を伝ってヴィクトールの服に一滴の染みをつくった。
「サク、ラ」
なにか辛い記憶を思い出してしまったのだろうか。他人事のように考えが過ったのも一瞬、かつての自分の軽薄な行為が鮮明に甦った。
サクラが「元の世界に帰りたい」と心に秘めていた想いを口にするまで。寝室を共にしていたとき、彼女が寝付いたあとはいつも執務室にこもって仕事に現を抜かしていた。
知らないところでも辛い想いをさせてしまっていたのかと、ヴィクトールは苦しげに顔を歪めた。
「……すまない、サクラ。大丈夫だ。いなくなんてならない」
もう、国は捨てた。これからは公務に苛まれることも、国際関係に不穏な影を見せないようにと無理に繕っていたクリスチアーヌとの仲を気にする必要もない。あの嘘を貫き通す必要もない。サクラを失うくらいなら、国の者から蔑まれた方が遥かにいいだろう。
捨てるべきものは、すべて捨てた。
残りの人生は、サクラの為だけに生きる。
たった一人の愛する存在のために。
「これからは一緒だ。二人だけでずっと過ごそう」
わずかに開いた愛らしい唇に、ヴィクトールは自らの唇を押し付け、深く深く口づける。サクラは潤んだ瞳を細め、弱々しい力で服裾にしがみつき、重ねられた唇の隙間から夫の名を呼んだ。
「……ヴィ……クト……ル……」
「……愛している。サクラ、愛している」
綺麗に唇を重ね合わせたまま、サクラの身体に柔らかな毛布を被せる。
──この場所が見つかるのも時間の問題だ。明日の朝にでも屋敷を発って、遠く離れた街へ向かおう。そこでサクラと二人だけで暮らせばいい。
他愛もない会話をして、二人だけで食事をして、たまに外を散歩して、誰もいない世界で愛し合って。それだけでいい。ヴィクトールが望むのは、たったそれだけだ。
「──おやすみ。サクラ」
ちゅっ、と音を立てて唇を離し、眠りについていたサクラを体温で包み込むように抱き締める。空を茜色に染める夕陽と、静かにゆらゆらと燃える蝋燭と。穏やかな時間が流れる空間に、血の滴る匂いと淀んだ空気が近付いてきていることに、気付く余地などなかった。
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