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第1章
15話
しおりを挟む辿り着いた先は、霞のかかった山の裾野にある古めかしい無人の屋敷。先代が避暑地として使っていた別荘だった。
いつの日か王位を退いたら、ここでサクラと慎ましく夫婦二人だけで暮らそうと思っていた。ヴィクトールが心の片隅で願っていたことが、まさかこんな形で叶うとは──
「へ、陛下ぁ……」
夫の腕の中で眠るサクラと、壊れ物を扱うように妻を両腕に抱くヴィクトール。結局二人の後をついてきてしまったニクスは、なぜか泣きそうな表情をしながらその場で狼狽えていた。
「殿下がこんな状態のときに、お言葉ですが……城には戻らなくて……」
「戻らん。私はサクラとここにいる。帰りたければ一人で帰れ」
「そんな……」
放っておけないですよ、と情けない声を出しながらニクスは握り拳で涙の滲んだ目元を擦る。ヴィクトールは彼に一瞥を投げ、すぐに腕の中のサクラに視線を戻した。
一度は目を覚ましたのに、またサクラは夢の世界へ堕ちてしまった。次に意識が戻るのはいつになるのだろうか。髪も元通りになるのだろうか。
「……サクラ」
老婆のように真っ白になってしまった髪を梳かし、自分の首元に宛がうように彼女の頭を抱き寄せる。
サクラの苦しみは想像を絶するものだった。
奈落の底よりも深く、暗く。どんなに手を伸ばしても届かないところで、サクラは一人苦しんでいた。
どうか、早く、眠りから醒めてほしい。
いつものように笑いかけて、名前を呼んでほしい。
残りの人生すべての時間を掛けて、償い直したい。
「こんな……こんなにも不甲斐ない夫ですまない。許してくれ」
ヴィクトールはそのまま屋敷に足を踏み入れ、陽の光がかすかに射し込む廊下の突き当たりまで進む。花の装飾が控えめに施された寝室の前。扉を肘で軽く押そうとしたところ、ニクスが我先にと慌てて開放し、俊敏に脇へ退けた。
「お、おれっ、外で誰か来ないか見張っています!」
泣き腫らした顔を締まらせ、ニクスは敬礼を向ける。慌ただしく部屋を後にする彼を横目に、ヴィクトールは窓際に備え付けられた小さな寝台にサクラをそっと下ろした。
「サクラ。早く目を覚ましてくれ」
瞳を覆い隠してしまった瞼に触れるだけの口づけを落とす。
本来であれば宝石のような煌めきを放つヴィクトールの瞳も、今は輝きを失っていて。サクラ以外の前では一度足りとも崩したことのない顔は、完全に凛々しさが損われていた。
「……サクラ」
今まで身も心も犠牲にして国のために尽くしてきたことは、サクラを苦しめる材料でしかなかった。なによりも守るべきはずだった彼女を孤独に追いやって、寂しい想いを抱かせてしまった。
最愛の存在をここまで苦しめた自分が憎い。そばにいるだけで彼女の心を救うことができると高を括っていた自分に心底腹が立つ。
サクラがこんな状態になってしまったというのに、それでも彼女を手放したくないと思ってしまう自分に呆れてしまう。
──しかし。サクラがいなくなれば、ヴィクトールは本当に一人だ。
「……サクラ。そばに、そばにいさせてくれ……」
突然訪れた睡魔に、視界がゆっくりと狭まり、サクラの姿がぼやけていく。朧気な意識の中で口にした、たった一つの願いが彼女に届いたのか。
深い眠りに堕ちてしまったヴィクトールには分からなかった。
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『……サクラ。お前は元の世界に戻ったら、どうするつもりだ』
旅がもうすぐ終わりを迎える頃。勇者達が休んでいる天幕から離れた平原で、サクラと二人で過ごしていたヴィクトールはそれとなく尋ねた。
前々から気にはなっていた。聖女としての素質を持つ人間を水晶で探していたとき、候補の一人であったサクラは地上へ身を投げようとしていた。それがなにを意味するかは分かってはいる。
知りたいのは、自ら命を絶とうとした理由だ。
『……っ、あ……』
サクラは円らな目を大きく見開き、徐々に視線を落としていく。
先ほどは道中見かけた花のことで話を弾ませていたのに、余計な一言で落ち込ませてしまった。後悔の念が押し寄せたヴィクトールは、すぐに話を逸らそうとした──が、消え入りそうな声がそれを阻んだ。
『……かぞく』
『え?』
『かぞくと、幸せに過ごしてみたい』
まっすぐに目を見て告げられた言葉。
あまりにも愚直で心に突き刺さるような願いに、ヴィクトールはサクラから目を逸らせなくなる。
『故郷に、家族はいないのか』
自然とこぼれ落ちる問いかけ。サクラは目元を引き攣らせると「分からないです」と一言だけ答えた。
今にも壊れてしまいそうなサクラの張りぼての笑顔。気付けばヴィクトールは、衝動的にサクラの震える身体を抱き締めていた。
『……で、殿下……』
『無理して帰る必要はない。辛ければ、ここにいればいい』
ぐっ、と骨が軋むほどに抱きしめる力を強める。
どこにも居場所がない彼女のそばにいたい。王としてではなく、一人の人間として彼女を守りたい。心の奥底に根付くような想いが、じわじわと膨れ上がった。
『……殿下』
サクラの腕がゆっくりとヴィクトールの背中に回る。
満天の星空の下、綺麗に重なる二つの影。ヴィクトールは初めて愛した少女に、心の中で誓いを立てた。この先なにがあっても彼女を守ると。
そう誓ったはずなのに、結局は傷つけてしまった。
王としての責務は疎か、たった一人の少女すら守れていなかった。
この先、つまらない柵に囚われるくらいなら。サクラを守るためだけに──
「────ヴィクトール」
頭上から降りそそいだ羽根のように軽やかな声。
それに導かれるように瞼を開くと、憂いに満ちた表情を浮かべるサクラの顔が瞳に映し出された。
「……サク、ラ?」
さっきまで眠っていたはずの妻が、自分を見つめている。手を握ってくれている。声に出して自分の名を呼んでくれている。
ヴィクトールは睫毛をはたりと伏せ、夢か幻かと彼女の頬に触れた。
「……目が、覚めたのか」
「ええ。さっき起きたの」
「ほんもの、か」
「……どうしたの、ヴィクトール。本物……あっ」
淡い吐息となって消えるサクラの声。
ヴィクトールは彼女の窶れた身体を抱き寄せ、色彩の失われた髪に何度も口づけをし、涙に声を詰まらせながらサクラの名を何度も呼んだ。
「サクラ。すまなかった、すまない、すまない、許してくれ」
「……ヴィク……ト……」
突然の抱擁に身体を強張らせるサクラ。しかし、なにかを悟ったように、彼女の腕はヴィクトールの震える背中に回って。
赤子を慰めるようにサクラは白銀の髪をそっと撫で、慟哭する夫を優しく包み込んだ。
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