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第2章
20話
しおりを挟むビルの屋上から身を投げたにも関わらず、奇跡的に一命を取り留めた桜は、老舗の旅館を営んでいる母方の祖母の家に引き取られた。
父親が『桜は俺の子だ! 親権は誰にも渡さない!』と血眼になりながら叫び訴えたらしいが、桜が撮った覚えのない父親の暴力紛いの行為を振るっている映像が公になり、すぐに接近禁止命令が下された。祖母の話によると、祖父が今まで目にしたことのないような恐ろしい形相で『接近禁止令の効力が切れた以降も、桜に一歩でも近付けば全力で叩きのめす。肝に銘じておけ』と父に灸を据えたらしい。
その言葉を聞いた桜は、自分を守ってくれる存在がこんなにも身近にいたのだと、安堵の涙を流した。
今まで闇に染められていたはずの桜の人生は、彼女が命を絶とうとした日を境に靄が綺麗に取り払われ、雲一つない空のように澄み渡っていった。
「大学、行ってきます!」
桜は一つに纏めた黒い髪を揺らし、慌ただしく廊下を駆け抜ける。スニーカーの踵を踏んだ状態で足早に飛び出す桜に、旅館で古くから働いている仲居達は微笑ましく彼女を見送った。
桜が旅館の子となってから五年。誰に対しても怯えたような態度をとっていた内気な少女の面影はなく、桜は誰もが認める天真爛漫な性格へと変わっていた。
「おおっ、桜ちゃん。気を付けてなぁ」
「勉強がんばってくるのよ」
「山中さん、春瀬さん、ありがとう!」
桜は屈託のない笑みを浮かべ、敷石の連なった地面の上を軽やかな足取りで走る。背筋を大きく伸ばして天を仰げば、淡青く晴れ渡った空が視界を覆い尽くした。
「いい天気」
朝の冷えきった空気を肺いっぱいに吸い込み、早起きをして祖母と一緒に作ったお弁当をきゅっと握り直す。
今日は大学の友人と図書館で勉強をする約束をしている。講義で出た課題を早く終わらせて、祖母の手伝いをしなければ。そんなことを考えながら、桜は急な下り坂を駆け足で進もうとしたそのときだった。
「桜」
たった一言。
風に乗って運ばれてきた自分の名前を呼ぶ声に、桜の背筋が大きく震え上がった。
五年経った今でも、忘れたことなんて一度もなかった。この声に暴言を浴びせられ、傷つけられて、追い詰められて、自ら死を選ぼうとした。
もう二度と会うことはないと思っていたのに。どうして。
「……桜。こっちを向いてくれ」
声が、どんどん近付いてくる。
首筋に熱のこもった吐息が吹きかかるほど、距離が迫ってくる。
早く逃げなければ、捕まってしまう。また暴力を振るわれてしまう。
本能で危機を察知した桜は、地面を踏み出して全力で走り出した。
「いっ、いやっ……っ……!」
祖母の家に引き取られてから、一度足りとも桜があの人に会うことはなかった。祖父が念のためにと高校を卒業するまでは送り迎えを欠かさず付けてくれていたのに。まさか、五年経った今になって。
「どうしよう、どうしよ、う……」
後方から近寄られたせいで、家がある方向に逃れることができなかった。そして、不運なことにここは人通りも少ない。
どうにか人の多い大通りまで逃げ切って、あの人を振り切らなければ。
「こ、この先に進め……ば、交番……っ!」
陽の光に照らされて水面が揺れる小川の側を、桜は息を切らしながら死に物狂いで走る。視線の先に見える突き当たりの曲がり道へ進もうとしたそのとき。桜の首を優しく包んでいたマフラーが、勢い良く喉元を絞り上げた。
「っ、あっ……!」
助けを求めるように伸ばした手は、虚しくも誰にも届かず。
太陽の光すら届かない薄暗い路地裏へと、桜は一瞬で引き摺り込まれた。
「っ!」
外壁に乱暴に身体を押し付けられ、指を食い込ませるようにして肩を掴まれる。込み上げる恐ろしさに唇を震わせて、瞼をゆっくり開くと──
そこには、五年振りに目にする父親の姿があった。
あの頃と比較して、別人のように変わっている。綺麗に切り揃えていた髪は、頭垢を散らばして無造作に伸び、無精髭に囲まれた唇からは鼻を突くような匂いが漂う。
それなりに身なりを整えていた父の面影は、まったくと言っていいほどになくなっていた。
「はぁ……っ、さく、ら……」
反射的に閉じてしまった瞼に、湿気混じりの生暖かな息が吹き掛かる。恐怖のあまり悲鳴すら出すことができず、距離を詰めてくる父親の身体をひたすら押し退けようとした。
「や……っ、ど、して……いやっ……」
「桜。俺が悪かった。もう寂しい想いなんてさせないから、また一緒に暮らそう。俺達は、唯一無二の親子だろう。家族じゃないか」
「い……や……っ! かぞくじゃな、い。あなたは、かぞく、じゃ、な、い……!」
荒々しい呼吸を繰り返しながら、いとも簡単に桜の抵抗を捩じ伏せる父親。ざらりと撫でるように頬を触れられ、桜の首筋に鳥肌が立つ。
藁にもすがる思いで周囲を見渡せど、こちらに気付く人間は疎か、人の気配すら感じられない。
(誰か助けて──)
心の中で叫んだそのとき、握り潰すほどの力で圧迫されていた桜の肩が、すっと痛みから解放された。
「っ、うぐっ……!?」
先ほどまで近すぎる距離にいたはずの父親が、数歩離れたところで苦しそうに呻き声をあげている。目の前には人の形をした白い靄が桜を庇うように佇んでいて、父の首を鷲掴みにしていた。
「あ……っ、あぁっ、やめ、ぐるじ……」
顔を歪めながら、泡を噴き出す父。しばらくの間、呆然とその光景を見つめていた──が、靄から視線のようなものを感じ、はっと我に返った。
(今のうちに逃げなきゃ……!)
ふと胸の奥に感じた切なさと苦しさに違和感を覚えながらも、桜は元来た道を引き返す。人がいる道を目指して必死に走る中、桜は無意識に胸元のネックレスを握り締めていることには気が付かなかった。
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