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第2章

21話

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 父の襲来事件が起こったあと、すぐに警察が現場へ向かったものの、父の姿は跡形もなく消えていた。
 また孫が危険な目に遭う可能性があると危惧した祖父は、大学の送り迎えを再び始め、桜の身辺警護を強化した。

 一方の桜は、父との不本意な再会におののきはしたものの、それよりもあの靄の正体が気になっていた。どうして自分を助けてくれたのだろうか。どうして──苦しみと切なさが胸を締めつけるのか。

 心の中を蝕んでいく存在に、桜は眠れない日々が続いていた。







「……はぁ……」

 別邸にある離れの間にて。その日も眠りにつくことができなかった桜は、窓際に凭れながら外の景色をぼんやりと眺めていた。
 燈籠の灯火が照らす中庭で、樹木が夜風に吹かれてざわめいている。飛び石を辿るように庭の奥へ視線を移すと、鮮やかな緑に囲まれた池が大きな波紋を広げていて。雨でも降っているのだろうかと、桜はカラリと窓を開き、空を見上げた。

「……あっ」

 絹を纏ったような月が朧気に夜の空を照らしている。
 どうしてなのだろうか、その光がなにかに似ているような気がする。桜は庭に降り立ってゆっくりと月へ手を伸ばした。どんなに頑張っても、届くはずがないのに。つま先立ちをして、桜はただただ月の光を求める。
 しかし、彼女の叶うはずもない小さな願いはあっという間に厚い雲に覆われて、視界から消え去ってしまった。

「……なにしているんだろう、わたし」

 虚しさのような感情に襲われ、桜は哀しげに瞳を細めて自嘲する。
 なぜかは分からない。ただ五年前に桜が命を絶とうとしたあの日から、会いたくて堪らない人がいる。名前も分からない誰かの影を、無意識のうちに追い求めてしまっている。

 誰よりもその人に抱き締めてほしい。
 たくさん触れてほしい。

 その人に、深く愛されたい。

「……っ!」

 こぼれ落ちそうになった涙を拭おうとしたそのとき、静寂な庭に強い風が吹き付けた。思わず片手で顔を庇い、桜は瞼をぎゅっと閉じる。
 息苦しさに溺れそうになった唇を開き、瞼をおそるおそる持ち上げ──

 息を呑み込んだ。

「……あ、なた、は……」

 彼女の視線の先にいたのは、いつしか目にした白い靄。あの日と変わらず人の形をしたそれは、まっすぐに桜を見つめているように感じられる。

 ──カツン、カツン。

 下駄が地面を掠り、木々が揺れる音にまぎれて消えていく。桜は気付けば靄の前に立っていて、震える手をおそるおそる伸ばしていた。

「あっ」

 靄に触れる寸前、両腕で抱き締められるようにして桜の身体が温もりに包まれた。想定外の行為に動揺する暇もなく、靄は優しく桜の髪を梳かすように撫でる。
 
 懐かしく感じられる温かさに、触れ方に。桜の瞳がじわりと滲み出す。涙がぼろぼろと頬を伝ってこぼれていく。心の奥底に封じ込まれていた感情が溢れだし、桜は嗚咽を漏らして泣いた。

「ねぇ……あなたは、誰なの……?」

 靄はなにも答えない。
 ただ桜を優しく抱き締めたままだった。

「わっ、わたし、あなたに会いたい、会いたくてたまらない。あなたが誰なのか、知りたい」

 桜の両腕がゆっくりと靄の背中に回る。
 いつしか包まれた温もりを求めて、ぎゅっと掌を握り締める。

「おねがい、苦しいの、あなたのことを思い出させてっ、あなたが、わたしはあなたのことを──」


 あなたのことを、愛しているの。



 そう言葉にした刹那、桜の身体が目映い光に包み込まれた。







✿ ❀ ✿ ❀  ✿  ❀  ✿ ✿ ✿✿✿✿








『──っ!』

 中庭の景色は一瞬にして消え去り、光の空間に投げ込まれた桜は、散りばめられた無数の欠片に囲まれていた。大きい欠片もあれば、小さいものもある。それぞれに自分と誰かの姿が描かれていた。

 誰かとお喋りをして、嬉しそうに微笑んでいる自分。
 誰かに頭を撫でられて、頬を赤らめている自分。
 誰かに抱き締められて、涙を流している自分。

 幸せな姿ばかりが目に映り、桜の心に記憶の欠片となってゆっくりと流れ込む。

 ──そして。ずっと頭の中でぼやけてはっきりと見えなかったの姿が。誰よりも愛おしい彼の笑顔が、記憶の欠片が繋がってはっきりと見えた。


『──ヴィクトール!』


 桜は迷わずその名を叫ぶ。胸が張り裂けそうになるのを必死に抑えながら、誰よりも愛していた彼の名を口にする。

 すると、桜の声に反応するように光の中から誰かの手が現れて。宙に泳いだ桜の小さな手に、そっと重ねられた。

 何度もこの手に触れられた。
 この手に守られた。
 この大きな手が、大好きだった。

『おねがい……ヴィクトールに、会わせて。彼に、会いたい』

 桜の頬を伝った一粒の涙が、差し出された手の甲に落ちていく。
 それまで桜に触れているだけだった大きな手は、桜の──サクラの言葉に反応するように。優しくも強い力で彼女の手を掴んだ。

『ヴィクト……ル……』

 サクラは唇をきゅっと結び、しっかりとその手を握り直す。彼女の心に、迷いはなかった。

『おねがい。連れていって』

 心に宿した言葉が、サクラの唇から紡ぎ出される。
 手はサクラの小さな手を引っ張ると、更に眩しい光の世界へと彼女を誘い──



 サクラの身体は光の中へと消えていった。




 
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