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第3章
31話
しおりを挟む「お、王妃殿下!?」
背後から聞こえた自分を呼び止めるニクスの声を振り切り、サクラは地面を踏み込む。切り揃えられた木々が立ち並ぶ石畳の道を駆け抜け、背中を震わせて一人苦しむ夫の元へ。
「……ヴィクトール」
ベンチで項垂れたままのヴィクトールは、もちろんサクラには気が付かない。すまないすまない、とひたすら掠れた声で懺悔していて。サクラが城から逃げ出したあの日、礼拝堂の前で見かけた彼の姿が脳裏に駆け巡った。
一つ違うのは、今はサクラの名を何度も呼んでいるということ。あのとき届かなかった彼の声は、今のサクラには、はっきりと聞こえる。
元の世界にいた頃、ヴィクトールがこんなふうに苦しんでいる姿を一度も目にしたことがなかった。
心身ともに弱りきっていたサクラに、不安を煽るような姿を見せたくなかったのかもしれない。サクラは、そんな彼の脆くなりかけた張りぼての強さを見て、たった一人の愛する夫が他の美しい妻と子供に恵まれて幸せになっているのだと思い込んでしまった。自分は見捨てられたのだとはき違えてしまった。
(……私は自分のことばかりだった。自分ばかりが苦しいと主張して、ヴィクトールのことを知ろうとしなかった)
俯くヴィクトールの前に踞り、そっと手を伸ばす。月の光に照らされる彼の髪を、子供にするように優しく梳かす。
ここは魔法によって見せられている記憶の世界。どんなに話しかけたところで、触れたところで、気づかれないことは分かっている。それでも、ヴィクトールに謝りたい。触れてあげたい。ずっと彼のそばにいてあげたい。そばにいてあげたかった。
「……ごめんね。ヴィクトール」
サクラは自分よりも大きな彼の身体を、細い腕でぎゅっと抱き締める。
記憶の中の世界なのに、温かく感じられる。愛しい人の息遣いが耳朶に触れる。誰よりも愛しい人の、かけがえのない人の温もり。
元の世界にもどってしまってからも。記憶がすべて消え去ってしまってからも。愛する家族の温かさを知ってからも。
サクラの胸の奥底に眠っていた気持ちが、消えることはなかった。
初めて出会ったときから変わらず、ヴィクトールを愛している。暗闇から救い出してくれた彼を、今度は自分が救いたい。
「……私があなたを助ける。絶対に」
芯の通った声で、サクラは言葉を紡ぐ。心に宿した誓いが胸の奥に熱を齎し、自然と涙腺が熱くなっていく。じわりと溢れた涙が重力の赴くままに落ちていき──
触れられるはずのないヴィクトールの肩を濡らした。
「……サクラ?」
ドクン、と心臓が弾む。
透明な雫が飾られた睫毛を震わせて。サクラは息を潜めながら、ゆっくりと身体を離した。
「……サクラ。いるのか?」
目の前のヴィクトールの瞳が泳いでいる。
おそらくサクラの姿は見えていないはずだが、わずかな気配に勘づいているのか、視線がなにかを探すように動いている。
「……サクラ。どこだ、サクラ」
ヴィクトールの手が宙を彷徨する。髪に触れそうで触れないその指先を、サクラは触れられない両手で包み込んだ。
確かに感じる彼の温もりを。
「絶対に、あなたのそばへ行く」
助けに行くから、待ってて。そう声にした瞬間、サクラの胸元で小さな輝きを見せていた桜色の宝石が目映い煌めきを放ち──
──サクラの一双の明眸は真っ白な光に覆われていった。
✿ ❀ ✿ ❀ ✿ ❀ ✿ ❀ ✿❀✿❀
「……んっ」
眩しさに耐えるようにサクラは身を捩らせ、映り出す世界の色彩に馴れようと鈍い動きで視界を広げていく。
露になった黒水晶の瞳に映ったのは、元いたアルテリア城の部屋の景色。サクラの目の前には、息を切らしながらぐったりとソファーに凭れるセドリックの姿があった。
「セ……セドリック殿下!?」
サクラは狼狽しつつも立ち上がり、青褪めているセドリックに駆け寄る。同じく記憶の世界から目覚めたニクスも、慌てて後をついた。
彼の父──ウィレム譲りの翡翠の瞳はサクラ達の姿を捉え、緩やかに狭まっていく。
「……すまない、サクラ。途中で魔力に限界が来たみたいだ。前はこんなことにはならなかったのに……」
「いいえ、大丈夫です。ありがとうございます、セドリック殿下」
こんな状態になってまで、真実を見せようと力の限りを尽くしてくれたセドリックには頭が上がらない。苦しさに蝕まれた記憶の糸によって雁字搦めにされたサクラの心が、彼の手によって解放されたような気がした。
あとは、ヴィクトールの元に行くだけ。
サクラの中に、もう迷いはない。
「……殿下。わたし、あの……」
ヴィクトールを今すぐにでも助けに行きたい。何よりも望んでいることを言葉にしようとした刹那、木板が蹴破られるような音が奥の間に鳴り響いた。
「──セドリック! 話がある!」
静寂を打ち破った甲高い男の声。サクラ達は同時に顔を見合わせ、けたたましい音が聞こえた扉へと視線を向けた。
──そこにいたのは、第二騎士団の衛兵を引き連れたウィレムだった。
鼻息を荒々しくさせながら土足で部屋に踏み込み、大股でセドリックに迫り来る。気が立って冷静さを欠いているのか、サクラがいることに気付いていないようだ。
「おまえ、また勝手に地下牢に出入りしたのか! 兄さ……罪人ヴィクトールには近寄るなと言っただろう! 拷問がやりにくくな……る……」
ウィレムの瞳がふと、サクラへと向いた。彼の兄と同じ宝石のように光輝く翡翠の瞳。かつて、サクラに蔑んだ眼差しを放った瞳。実の兄が王位から引き摺り下ろされ、牢に閉じ込められているにも関わらず、平然と王座に居座る愚か者の瞳。
愛する夫を傷付けた、卑劣な男の瞳だ。
「ひ……ひぃっ!」
ウィレムはまるで死者の魂でも見たかのように、情けない悲鳴を上げて腰を抜かす。それも、仕方ないのかもしれない。五年前に姿を消したはずの聖女が、忌み嫌ってきた王妃が、若かりし頃の姿で目の前に立っているのだから。
「な、なん、なんで、なんでお前が、ここに」
じわりじわりとにじり寄るサクラに、ウィレムは尻を床に滑らせながら後退る。
分かりやすいほど動揺するこの男を前にしても、サクラは無表情を保ったまま、眉一つ動かさない。唇を閉じた彼女の背後から、目に見えない静かな憤りが漂う。
漆黒に染まりきった瞳が、ウィレムの恐怖心を射抜いた。
「……あなたが、ヴィクトールを拷問にかけたのね」
「ひっ……ご、ごめんなさっ」
サクラがその場に屈んだのと同時に、ウィレムは再び悲鳴を漏らす。王としての尊意は微塵も感じられないその姿は、怒りを通り越して辟易としたが、今のサクラにはそんなことはどうでもよかった。
彼女がこの腑抜けな王に望むものは、ただ一つ。
「……ウィレム国王陛下」
「な、なんだっ」
視線を一切合わせようとはせず、ウィレムは震えた声で聞き返す。
サクラはしばらく沈黙に身を委ねたあと、ウィレムの頬を強引に鷲掴みにし、無理やり視線を交じらわせて。重く閉ざされた唇をゆっくりと開いた。
「──ヴィクトールに会わせて。今すぐに」
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