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第3章
32話
しおりを挟む捌け口のない空間に、緊張の糸が張り詰める。
静かな怒りがゆらゆらと燃え上がるサクラの瞳。ウィレムは渇ききった喉に唾を流し、浅い呼吸を繰り返した。誰に対しても物腰が柔らかかった王妃としての影は、今では露聊も感じられない。
「に、兄さ……罪人ヴィクトールに会ってどうするつもりだ!」
「いいから、早く会わせて」
滑稽に声を上擦らせながら尋ねるウィレムに、サクラは更に圧力を掛ける。瞬き一つせず、恐れ戦くウィレムに突き刺すような眼差しを放つ。
判断力を失ってしまったのか、ウィレムは流されるまま頷きそうになった──が、不意に横から差し込まれた鋭い刃がそれを防いだ。
「陛下から離れろ! 無礼者!」
雄々しい声が頭上から落ち、サクラの首に凶器が宛がわれる。サクラが徐々に視線を持ち上げると、第二騎士団の一人が剣を掲げて彼女を蔑視していた。異世界人だと揶揄した人々と同じ瞳。
あの頃はこの目を向けられるたびに恐怖を感じていた。
でも、今は違う。今のサクラに、そんな負の感情は持ち合わせていない。大多数の意見こそが正義だと信じて止まず、力なき相手を卑下するような人間には屈したくない。
「……な、なんだ、その目は!」
白く透き通った肌に先端がぐっと押し込まれ、サクラの首筋に小さな痛みが走る。しかし、サクラは動じない。肌から血の糸が伝おうと、兵士を睨むことを止めなかった。
「く、くそ、元王妃だか聖女だかなんだか知らないが、無礼者は首を刎ねてやる!」
兵士は剣の先端を天井に翳し、目にも止まらぬ速さで振り落とす。
少し離れたところで憔悴していたセドリックは、サクラを助けようとソファーから転がるように落ち、彼女に手を伸ばそうとした。
「お、王妃殿下!」
状況を逸早く察知したニクスが床を踏み込み、倒れたセドリックの代わりに剣を抜こうとした瞬間──
鮮やかな血飛沫が大理石の床を汚した。
サクラの前に立ち塞がっていた兵士の身体がどしゃりと崩れ落ち、血の海が広がっていく。突然の出来事に呆然としつつもサクラは真っ赤な波の行く先を視線で辿り、薄汚れた革靴が目に飛び込んだところで身体を硬直させた。
まさか、そんな。
またあの男が自分の前に。
「──そうかそうか、そんなに会いたいか。愛しの旦那に会いたくて堪らねぇんだな」
不気味な笑い声と雑音混じりの声が、耳の神経に蝟集する。サクラは咄嗟にその場から立ち上がろうとしたものの、巻き付くように腰を掴まれて。
逃げようとしていた反対方向に、サクラは蹌踉めいてしまった。
「…………っ!」
「なんだよ。さっきも会ったんだから、そんなにビビるなっつーの」
ケラケラと声に出して笑いながら、その男はサクラの身体をぐっと抱き寄せる。
──視線を持ち上げた先にいたのは、案の定グレンだった。
どうして。どうしてこの男は、いつも忽然と現れるのだろうか。サクラが城の中庭でヴィクトールを待っていたあの日も、地下牢へ向かったあの時も、記憶の世界でも、そして今、この時も。
「さ、サクラ!」
「王妃殿下!」
再び捕らえらたサクラを助けようとセドリック達が駆け寄ろうとしたものの、周囲に待機していた第二騎士団の兵士達に阻まれてしまった。
返り血を髪と頬に浴びたグレンは不敵な笑いを浮かべ、血のこびりついた親指でサクラの頬をぐっと押し込むように擦り付けた。
「……いいぜ、サクラ。会わせてやるよ。俺についてこい」
✿ ❀ ✿ ❀ ✿ ❀ ✿ ❀ ✿❀❀❀
セドリック達を人質同然の状態にとられてしまったサクラは、グレンの言葉を拒むことができなかった。
それにグレンに逆らえば、セドリック達だけでなく、ヴィクトールも危険な目に晒してしまうかもしれない。彼を救い出すまでは──そばに行くまでは、グレンに従わなければ。
「はっ、やけに素直についてくるじゃねぇか。最初からそうしておけって言ってんだよ」
誘導されるがままに魔導装置で地下へ降り、果てしなく長い地下道を通り抜ける。最初の一言を発してからは終始無言を貫いていたグレンだったが、巨大な鉄扉を前にしてふと足を止めた。
(さっきヴィクトールと会った場所とは違う……)
ヴィクトールが閉じ込められていた場所はもっと狭い檻の中だった。地下への入り口が異なっていた時点で疑念を抱いてはいたが、更なる不安が込み上げる。
本当に、ヴィクトールがここにいるのだろうか。
サクラの胸中に一抹の不安が過る。
「よーし。ご対面だ」
表情を曇らせるサクラを他所に、グレンは扉のすぐそばにあった鎖を片腕で引き込む。錆び付いた金属が擦れるような音を立てながら、ゆっくりとゆっくりと扉は開き──
「……ヴィクトール!」
サクラは一心不乱に駆け出した。
不気味なほどに広すぎるその地下牢の中央に、天井から吊るされた鎖で繋がれた白銀の髪の男──ヴィクトールの姿がある。
息を切らしながら彼の名を呼び、走り続けて。生気を抜かれたように全身を弛緩させたヴィクトールの頬を両手で包み込んだ。
「ヴィクトール、しっかり、ヴィクトール……!」
銀に眩く睫毛を伏せた夫に、震えた声で何度も呼び掛ける。
グレンの手によって引き離されてから、酷い拷問を受けたのだろうか。傷と痣が更に増えている。かすかな呼吸音が漏れる唇からは、生臭い血の匂いがした。
「……よく、も……こんな酷いこと……」
サクラは後ろを振り返り、涙目でグレンを睨み付ける。
ヴィクトールをこんな目に合わせた男を、絶対に許すわけにはいかない。
「……はっ、そんな目で見るなよ。サクラ」
グレンは吐き捨てるように笑い、一歩足を踏み出す。そのまま自分達へ近付こうとする悪魔を前に、サクラはヴィクトールを守るようにして抱き締めた。
「こっちに来ないで!」
地下牢に谺するサクラの叫び声。
グレンは片瞼をピクリと痙攣させ、怒りに震えるサクラをじっと見つめた。普段のようにふざけて嗤うような真似事はせず、ただまっすぐと眼差しを向けている。
立ち止まったままのグレンに不信感を抱きながらも、サクラは腕を回す力を強めた。もう、二度と大切な人を手離さないようにと。
「……サクラ。一度は言ったはずだ、馬鹿な人間には縋るなと。裏切られれば虚しくなるだけだ。お前は嫌と言うほどその苦しみを知っているだろう」
「……っ」
「俺の元に来れば、お前が望む物をすべて与えてやろう。王妃の座だってもう一度つかせてやるよ。聖女として崇められたいなら、俺がそうなるように仕向けてやる。だから──」
──その愚かな男は、お前を苦しめた男は一刻も早く捨てろ。
グレンは重々しい声でそう告げ、サクラに向けてそっと片手を差し出した。
湿った空気が漂う空間に、ひたすら森閑とした時間が過ぎていく。サクラは赤く色づいた唇をきゅっと結び、無表情を保つグレンを見つめ返した。
「──私は、あなたの元には行かない」
サクラの声が、静寂な地下に響き渡る。
グレンはそんなサクラを見据えたまま、瞳を徐々に細めた。
「……なぜだ。その男が原因で苦しい想いをしたのに、どうして」
「私はなにがあってもヴィクトールのそばにいる。たとえ身を引き裂かれるような苦しい想いをしたとしても、ヴィクトールから離れない。あなたみたいな人に何を言われたって、私の心は揺れ動かない」
腕の力を緩めることなく、サクラはヴィクトールに寄り添う。
グレンの瞳が更に狭まり、踏み止まっていた足が動きそうになった刹那──サクラの腕に包まれていたヴィクトールの身体がわずかに動いた。
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