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第3章
33話
しおりを挟む魂を吹き込まれた人形のようにゆったりと動き始めたヴィクトールに、サクラはごくりと息を呑み込む。耳を覆う熱い吐息と、優しく擦れ合う肌から伝わる温もり。
グレンに向けていた視線を持ち上げると、眠っていたはずのヴィクトールが翡翠の瞳を覗かせていた。
「……ヴィクトール?」
自然とサクラの声が震える。
光を灯した瞳から、涙の雫がこぼれ落ちる。
ヴィクトールは穏やかな眼差しをサクラに向けて、血の滲んだ唇をサクラの唇に近付けた。
「サク、ラ」
掠れた声がサクラの可憐な唇に触れる。そのまま唇が重なり合い、サクラの頬を一粒の露が伝った。
愛しい人の温もり。記憶から完全に消すことが叶わなかった愛する人の温かさ。
サクラはヴィクトールの体温を求めるように、唇を強く押し付けて。彼の後頭部に両腕を回した。
「……あぁ、ヴィクトール……ヴィクトール……」
「サクラ……」
甘い口づけに身を委ねながら、互いの名を口ずさむ。
一度は断腸の思いで突き放したサクラを、ヴィクトールが再び拒むことはなかった。小さく柔らかなサクラの唇を自らの体温で包み、愛おしむように彼女の名を呼ぶ。
「……サクラ。どうしてここにいる。逃げろ、早く逃げてくれ」
ヴィクトールはわずかに唇を離し、柔らかい口調で諌める。けれども、サクラは首を縦に振らない。愛する夫の首にしがみついたまま、泣きながら口づけをせがんだ。
「行かない。もうどこにも行かない。ずっとそばにいる」
「サクラ……」
吐息のような声が、地下の冷たい空気に溶けていく。ヴィクトールが苦悶を滲ませた顔をサクラの髪に埋め、顔を擦り寄せたそのとき、ガシャンと枷の外れる音が響き渡った。
「……えっ」
ヴィクトールの手足が、鉄の鎖から解放されている。
どうして急に鎖が外れたのだろうか。サクラは戸惑いつつも、自由の身となったヴィクトールと熱い抱擁を交わした。
やっと、こうして抱き合うことができた。触れ合うことができた。儚い幸せにサクラは悦びの涙を流す。
「ごめんなさい、好きなの。愛しているわ、ヴィクトール……」
「サクラ……」
鬱血を起こしたヴィクトールの両腕が、サクラの細い背中にきつく絡まった瞬間、感情を失った抑揚のない声が二人の肌をぞっと粟立たせた。
「……残念だ、サクラ。お前はこっち側の人間かと思ったよ」
濁りのある声にサクラ達が振り返ったのと同時に、足がふわりと宙に浮く。グレンの姿が見えたのはほんの一瞬で、足場を失ったサクラ達は底抜けになった地面の奥へと沈んでいった。
「や……っ!」
「サクラ!」
ヴィクトールの体温に包まれた状態で、サクラは瞼をぎゅっと閉じる。胃がすっと持ち上がるような浮遊感に見舞われ、サクラは必死にヴィクトールにしがみついた。
「じゃあな、サクラ。二人で無様に死んでいけ」
天から降りそそいたグレンの声は、あっという間に遠ざかる。ヴィクトールに抱かれたサクラは地下の更なる奥底へと落ちていき、か細い悲鳴は暗闇へと吸い込まれていった。
✿ ❀ ✿ ❀ ✿ ❀ ✿ ❀ ❀❀❀❀
パシャン、と肌を打ち付けるような衝撃とともに、水飛沫が勢いよく飛び散る。
不幸中の幸いか、硬い地面ではなく水路に落ちたヴィクトールはサクラを抱きかかえたまま、水路を這い上がった。
「さ、サクラ……こっち、だ……」
痛みすら覚えるほど冷たい水の感触に耐えながら、虚ろな目を泳がせるサクラを腕の中に引き込む。
寒さのせいで酷く震える身体を抱き締め、頬に唇を宛がう。服はもちろん、髪もずぶ濡れ。加えて、ここは地下の奥深くだ。このままではサクラが風邪をひいてしまう。命の危険に晒される可能性だって有り得る。
一刻も早く、この場所から脱出しなければ。
「くそ……出口は……」
ヴィクトールは蒼白い唇を震わせながら、周囲を見渡す。
しかし、どこを見ても岩壁に阻まれていて、脱け出せるような道はない。果てしなく長い水路を泳いでいけばどこかに辿り着けるかもしれないが、こんな状態のサクラを水に浸からすわけにはいかない。
「……ヴィクトール」
サクラが両腕を伸ばす。悴んだ指先がヴィクトールの頬に触れ、潤んだ瞳から地下水ではない雫がこぼれ落ちた。
「さむ、い、ヴィクトール」
震える声が、ヴィクトールの唇に迫る。
ヴィクトールはサクラの細い腰に左腕を回したまま、彼女の濡れた頬に掌で触れた。
──温かい。
冷えきった肌の奥から、じんわりと熱が伝わる。この数年間、薄れることなくずっと愛してきた温もりが。
一度は自分から手離したのに、辛い想いをさせたのに、サクラは戻ってきた。暗闇に囚われたヴィクトールを助けに来てくれた。
「サクラ……っ」
ヴィクトールは深緑の瞳から溢れそうになる涙を隠すように、サクラの唇を奪う。サクラも瞼を閉じ、両腕をヴィクトールの首に回してそれを受け入れた。
「サクラ、サクラ……」
「ヴィクトール……」
唇の皮が擦り剥けてしまうほどの深く口づけ、舌を絡め合う。次第に二人の唇の隙間から漏れていく、くちゅ、ちゅぱっ、と脳の奥を痺れさせるような水音。ヴィクトールはサクラの身体を岩肌の地面に押し倒し、混ざりあった唾液を舌でかき乱した。
「はっ、サクラ、んんっ」
「あぁ、あっ」
温もりを遮るものを取り払おうと、ヴィクトールは水を吸ったサクラの服を脱がしていく。サクラは素肌を密着させるようにヴィクトールの傷だらけの背中に腕を滑らせ、情熱的な口づけに応える。
水流の音に紛れるようにして、二つの呼吸と艶かしい声が冷気の立ち込めた地下に響き渡っていった。
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