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2話 side律
しおりを挟む「……繋がらない」
突然、上司に呼び出されて突き付けられた仕事。システムの管理上在宅では処理できない仕事と言われ、半日以上拘束されてしまった。
結果、終電に間に合わず、始発で帰る羽目に。
本当なら、兎柚と二人でゆっくりと夜を過ごすはずだったのに。限られた貴重な兎柚との時間を削られてしまったことに、苛立ちを覚えてしまう。それは一万歩譲って仕方ないとしても──だ。
なぜ、兎柚に電話が繋がらないのだろうか。
「とーゆー」
一秒でも時間が惜しいとバスを使わずに乗車したタクシーの中で、律はスマホを弄る。万が一にとこっそり持たせたGPS発信機の位置を見る限り、兎柚は自宅付近をうろうろとしている。家に入ればセンサーが反応して通知が来るはずなのに、なんの音沙汰もない。
いてもたってもいられず、自宅のマンションの前に着くなり律は運転手に一万円札を握らせた。「お客様、お釣り!」と背後から運転手の声が聞こえたものの、無視してタクシーから飛び出す。
ただのGPSの不具合だろう。きっと兎柚は家に帰っているはず──そんな浅はかな考えは、すぐに打ち砕かれた。
「……えっ」
兎柚は、いた。
部屋の扉の前でしゃがみ込みながら、ぐずぐずに泣いていた。なぜか片手には缶ビールが握られている。
律がおそるおそる呼び掛けると、化粧が落ちかけていた兎柚の顔がより崩れた。
「あっ、あぁ、うぅっ」
「あらあら。どうしたの、おいで。兎柚」
立ち上がるなりふらりと蹌踉けてしまった兎柚の身体を抱き止めて、よしよしと頭を撫でる。兎柚は背中をぷるぷると震わせながら、声にならない声を漏らして吃逆を繰り返した。
「が、がえっでぎだ、よがっだ、ででごないがら、あ、あうっ、ずでられだがどおもっだ」
「仕事で外に抜けるよって電話したよね? どうして家の中に入らなかったの?」
「がぎわずれだ……」
「あらあら」
不憫さを通り越してどうしようもない愛おしさが込み上げ、兎柚の額に唇をちゅっと押し付ける。こんな場所でやけ酒なんかして、誰かに襲われたらどうするつもりだったのか。
律はしっかりと記憶に捉えている。
数年前の大学サークルの新歓飲み会で、無理に酒を呑まされて泥酔しきった彼女の姿を。人目につかないところで兎柚を襲おうとした愚かな先輩を自主退学まで追い込むのにどれだけ苦労したことか。
正直、今も気が気ではない。
大学のときはなるべく同じ講義をとって兎柚との時間をつくるようにしてきたが、仕事場が違う今はそれが叶わない。
兎柚が他の男から狙われていないか、会社のどこでなにをしているのか、なにを考えているのか、誰と会話をしているのか、気になって気になって考えるたびに膓が抉られるような痛みに襲われる。
兎柚さえよければ、仕事を今すぐにでも辞めてもらいたいくらいだ。
自分の手でだけで養って、自分が作った料理だけを食べさせて、自分なしでは生きていくことができない身体にしてやりたい。
たった一人の男の愛に縋って生きる、可愛い子兎に。
「……兎柚。今日は会社、休みだよね? とりあえず、中に入ろうか」
汗とアルコールの匂いが滲む彼女の首筋に鼻先を擦り付け、肩を抱き直す。兎柚は真っ赤になった鼻をずずっと啜ると、大きく頷いた。
可愛い子兎に向けられる憂いに満ちた眼差し。
兎柚の視線が足元へ向いたのと同時に、律の目尻はわずかに歪み、薄く開いた唇から真っ赤な舌がゆらりと蠢く。
兎柚はそんな狼の密かな変貌には気がつかない。彼女を逃がすまいと、律は兎柚の腰に滑らせ、音を立てないように家の扉をゆっくりと閉じた。
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