雨の社で君と逢う

紗々匁ゆき

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一章 水底の光

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 目を開けると、見知らぬ天井が視界に飛び込んできた。
 天井は愚か、壁も、部屋も、そして今横たわっている寝具も、覚えのないものばかり。
(あれ、僕……確か池に落ちて……)
 死を覚悟して、水の底で意識を手放したはず。
 しかし、ここは天宮の屋敷でも、ましてや病院でもなさそうだ。
 いったい何が起きているのか。
 戸惑うあまり、紫苑がに動けずにいると、傍らから声を掛けられた。
「お目覚めになりましたか?」
 声が聞こえた方に視線を向けると、そこには一人の青年が立っていた。
 歳の頃は紫苑と同じか、少し上くらいだろうか。すらりとした細身を若葉色の衣装で覆い、長めの金髪を首の後ろで括っている。夜のように黒い瞳は、どこまでも穏やかな光を湛えていた。
「ご気分はいかがですか?」
 彼は優しい声色でそう訊ねてきた。
 特に問題はないため、ひとまず紫苑は頷き、上体を起こすことにする。
 そうしてようやく、紫苑は自分が広い寝台の上に寝かされていたことに気がついた。
 清潔な寝具に、広く整然とした部屋。大きな窓からは柔らかな光が差し、部屋中に行き届いている。
 四畳半しかない天宮家の自室とは何もかもがかけ離れている、あまりにも豪華な造りの部屋だった。
神依かみよりさま」
 紫苑が呆気に取られていると、金髪の彼は微笑んでから再び口を開いた。
「このたび、側近としてお仕えさせていただくことになりました、千草ちぐさと申します。ご不便のないよう、神依さまに精一杯お支えして参ります所存です」
 千草と名乗った彼は、紫苑に向かって恭しく一礼する。
 整った身なりの千草に礼を尽くされ、紫苑は戸惑ってしまう。
 側近? 仕える? いったいどういうことだろう。
 それに、聞き慣れない名前があった。神依、とはいったい。
「あの、差し支えなければ、神依さまのお名前をお聞きしてもよろしいでしょうか?」
 神依とはどうやら紫苑を指す名称らしい。
 その名称が意味するところはわからないが、とにかく質問された名前を答えようと、紫苑は周囲を見渡した。
 しかし、求めているものが見つからない。
 紫苑は千草に、書くものがほしいと身振り手振りで伝えてみた。
「紙と筆、でございますか?」
 戸惑ったように問い返す千草に、紫苑は頷いた。
「かしこまりました。あちらにご用意致しますね」
 千草が示したのは、窓辺にある机と椅子だった。
 早速準備してくれている千草を追いかけるように、紫苑は寝台から降りる。そのとき初めて、紫苑は浴衣に似た長衣に着替えさせられていることに気がついた。
 本当に、いったい何が起きているのだろう。
 困惑を抱えたまま、紫苑は千草の待つ机に向かう。
 机の上には、墨を溜めた硯と紙が置かれていた。
「こちらをお使いください」
 千草から手渡された小筆を受け取ると、紫苑は椅子に腰掛け、その毛先を硯の墨に浸ける。筆を使うなんて、学校の書道の授業以来だ。
 辿々しい手つきで、紙に名前を書いていく。
「紫苑さま……天宮紫苑さま、でございますね?」
 読み上げて確認する千草に紫苑は頷く。紫苑が書いたのは下の名前だけなのに、姓まで言い当てられた。
「花の紫苑と同じお名前なのですね。とても美しい名前です」
 初対面の人に名前を褒められ、途端に照れ臭くなって何も言えなくなる。
 千草がどうして天宮の姓を知っているのかは気になったが、ひとまず気になる質問を書き連ねていく。
[僕を助けてくれたんですか?]
「はい。突如神託が降り、おさと共にやしろに確認しに行ったところ、紫苑さまが倒れていらっしゃいました」
(神託? 社? それに長って……)
 いろいろと不明なことが多いが、とにかく千草に助けられたことは事実のようだ。
[助けてくれて ありがとうございます]
「……あの、紫苑さま」
 千草が何か言いたげにこちらの様子を伺っている。
 彼が何を言いたいのか、紫苑も察しはついていた。
「不躾を承知でお訊ねします。紫苑さまは、その、声が……」
 千草の問いにもう一度頷き、紙に筆を走らせた。
[声が出せないんです]
 いつからかはもう思い出せない。
 気づいたときには、痛いと言うことも、悲鳴を上げることもできなくなっていた。まるで凍りついてしまったかのように。
 すると、千草が慌てたように頭を下げてきた。
「知らなかったとはいえ、大変失礼なことを伺いました。ご無礼をお許しください」
 まさか謝られるとは思わず、今度は紫苑が慌てる番だった。
 千草は何も悪くない。出会ってまだ短い時間だが、彼は見ず知らずの紫苑にとても親切にしてくれている。
 顔を上げてほしくて、紫苑は千草の顔を覗き込む。
 どうか謝らないでほしい。そう思いながら、紫苑は左右に首を振った。
「紫苑さま……」
 千草の黒いの瞳が、今にも零れ落ちそうなほどに潤んでいる。
[大丈夫だから、泣かないでください]
 慌ててそのように走り書きすると、千草は服の袖で目元を拭った。
「……見苦しい姿お見せし、大変申し訳ございません」
 本当に気にしなくてもいいのにと思いつつ、千草が立ち直ってくれたことにひとまず安堵した。
 とにかく、今は聞きたいことが山程ある。まずはどこから質問していこうか。
「紫苑さま。もしお身体の具合がよろしければ、湯を使われませんか?」
 再び筆を走らせる前に、今度はそう提案された。
「水に浸かって冷えていらっしゃるかと存じます。その間に新しいお召し物をご用意致しますので」
 確かに身体は冷えている。しかし、
(どうしてこんなに僕のことを気にかけてくれるんだろう……)
 もしや、誰かと勘違いしているのではないだろうか。やはり人違いだったと、後になって追い出されるのではないだろうか。
 だからといって、千草が紫苑を誰かと間違えているという確証も、今のところない。
 唯一頼れる存在である千草に、紫苑は従うほかないのだった。


 千草に案内された湯殿はとても広々としており、湯船には蓮の花が浮かんでいた。
 手伝うと言って千草も一緒に入ってこようとしてきたのだが、それはさすがに遠慮した。ただでさえ他人からの親切に慣れていない身である上、出逢ったばかりの彼に裸を見せるのはあまりにも敷居が高すぎた。
 千草には随分と食い下がられたが、紫苑も押し切る形で一人になる時間を捥ぎ取った。
 蓮の香りを含んだ湯は、紫苑の身体をじんわりと温めてくれた。やはり滝壷に落ちて、身体の芯が冷え切っていたらしい。
 湯殿から上がると、真新しい肌着を用意して千草が待っていた。紫苑がゆっくりと湯を使っていた間も、千草は忙しく手を回していたらしい。
「紫苑さま、こちらへお掛けください」
 手早く肌着を着せられ、鏡台の前にある椅子に案内された。鏡台の上には紙と、棒状の筆記具が置かれている。
「こちらのほうが使い勝手がよろしいかと思い、お持ち致しました」
 千草が示した筆記具で試し書きしてみると、まさしく鉛筆の書き心地そのものだった。
 筆よりも遥かに扱いやすいそれに、紫苑の筆致も軽くなる。
[ありがとう。こっちのほうがいい]
「お気に召していただけてよかったです」
 湯殿に案内される道すがら、千草に対して敬語は不要だと伝えられた。紫苑としては少し気が引けたが、千草と仲良くなりたいという思いから、思い切ってみることにした。
 千草が紫苑の髪を整えてくれている間に、紫苑は気になっていたことを訊いてみることにした。
[ここはいったいどこ?]
 文字にしてみると実に荒唐無稽な話だが、このように質問する以外思いつかなかった。
 紫苑の質問を見た千草は、少し困った顔をしながら、鏡越しに紫苑と目を合わせた。
「そうですよね。わからないことばかりですよね」
 わかりましたと言って、千草は手を動かしながら少しずつ教えてくれた。
「まずここは、我々〈神使しんし〉が暮らしている世界です」
 また新しい言葉が出てきた。
「神の使いと書いて神使と呼びます。神々と人間とを繋ぐ存在、とご認識いただければ十分です。今はこうして人間の姿をしておりますが、本来は動物の姿をしております」
[動物?]
「わかりやすいところで申し上げると、稲荷さまの狐ですとか、八幡さまの鳩、といったところでしょうか」
 そういえば、東京に住んでいた頃に神社で見た気がする。もしやあれが神使だったのだろうか。
[千草は何の動物?]
「私は蛇にございます」
 千草と蛇の印象がなかなか結びつかないが、きっと綺麗な蛇なのだろうな、と千草は漠然と思う。
 千草の話は続く。
「我々神使の長として、この雨の宮に住まうのが、清藍せいらんさま。龍の姿をした神使にございます」
 雨の宮という呼称に思わずどきりとする。
 天宮の名前と、響きがとても似ている。
 これははたして偶然なのだろうか。
 すると、鏡越しに目が合った千草が、まっすぐに紫苑を見据えて伝えてくる。
「今宵、紫苑さまには清藍さまに会っていただきます」
 立て続けの展開で、紫苑の中に微かな緊張が走る。
 同時に、えもいわれぬ安堵感が湧いてくる。
 顔も知らない神使の長と会うというのに、緊張よりも安堵のほうが強い。
 やっと会える。何故かそういった気持ちがあった。
(どうしてだろう……でも、早く会いたい)
「緊張なさらずとも、長は優しい方です。紫苑さまにお会いすることを、とても楽しみにしておいでですよ」
 紫苑が何も書かないことを、緊張していると思ったらしい。千草は柔らかな声色で言った。
 気を取り直して、紫苑は続きの質問を重ねていく。
[僕はどうしてここに来たの?]
 そう書いた途端に、鏡に映る千草が今度は困ったような顔をした。
「それについては、お教えできないのです」
[どうして?]
「長からの命令なのです。それを明かすには、まだ早すぎるから、と」
 申し訳ございませんと、千草は陳謝する。
 何も悪くない千草を謝らせてしまい、紫苑は居た堪れない気持ちになった。
[いつか教えてくれる?]
「はい。そのときが来ましたら、必ず」
[わかった]
 本当は気になるが、千草が口を閉ざしている以上引き下がる他ない。
 そのときがいつになるかは、わからないが。 
「紫苑さま、差し出がましいことを申し上げますが、お髪を整えるために、鋏を入れてもよろしいでしょうか?」
 千草に問われ、紫苑は改めて鏡に映る自らの姿を見つめる。
 念入りに手入れをされ、ある程度の艶が出ているからこそ、傷んだ毛先が悪目立ちしている。適当に切っていたことがよくわかるほどに、全体的に不揃いで野暮ったい印象だった。
 長に会うために相応しい姿とは、自分でも到底思えない。
[大丈夫。お願いします]
「畏まりました。手入れに長けた者をお呼びしますね」
 千草が近くの壁に下がっていた紐を引くと、ほどなくして、一人の女性が現れた。
 一見祖母と年齢が変わらなそうなこの人も神使なのだろうかと思っていると、千草が「彼女の本来の姿は蟹なのですよ」と教えてくれた。
 蟹だから鋏の扱いが上手なのかな、などとと頭の片隅で考えているうちに、髪に鋏が入れられた。髪を切ってもらうなんて、子どもの頃に母にやってもらって以来だった。
 小気味良い鋏の音と、指示を出す千草の声を交互に聞いていると、二人が前に回り込んできた。
「前髪を切りますので、目を閉じていただけますか?」
 千草に言われるがまま、紫苑は目を閉じる。視界が閉じて、鋏の音が先よりも際立って聞こえてくる。
「……!」
 鋏の音に混じって、千草が息を呑む気配が伝わってきた。何かあったのだろうか。
 暫くそうしているうちに、鋏の音が止んだ。
「……目を開けていただいて結構ですよ」
 神妙さを帯びた千草の声に、そっと目を開ける。
 鏡に映った自身の姿を見るなり、紫苑は目を見張った。
(別人みたい……)
 不揃いでぼさぼさだった髪は整えられ、うなじにかかる程度に残された後ろ髪も、耳の位置で切り揃えられた後れ毛も、輪郭に沿って自然に流れている。
 整えられたその姿は、幼い記憶の中にいる母にどこか似ている気がした。
 しかし、どうにも見慣れない。変ではないだろうか。
 そう思って千草を見遣ると、彼は紫苑を見つめたまま硬直していた。
 やはり変なのだろうか。不安になって千草を見つめると、彼は慌てたようにして取り繕った。
「失礼致しました。その、あまりにもお美しく……つい見惚れてしまいました」
 千草の隣で、髪を整えてくれた女性も頷いていた。
「お部屋に戻りましょうか。少し休んでから、お召し替えを致しましょう」
 促されるままに、紫苑は立ち上がった。
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