富士見の丘で

らー

文字の大きさ
4 / 35

4.少年

しおりを挟む
 尾根に沿った緩やかな坂道を下っていくと、仔猫がいた場所に男の子が立っていた。

 年齢は5、6歳くらいだろうか。青いTシャツにデニムのハーフパンツ、野球帽を被っている。ヒョロヒョロと手足が長くて細身だが、日に焼けているせいか軟弱な感じはしない。

 何とはなしに様子を伺っていると、男の子がパッとこちらに顔を向けた。
「あっ!」と言って近づいてくる。

「おばちゃん、ありがとう! みーちゃん飼ってくれるんだね」
「え?」
 いきなりお礼を言われて千勢は面食らってしまった。
「いや、ち、ちょっと……。これは」
 しどろもどろになった。飼うと決めた訳じゃなくて……。

 男の子の黒目がちの瞳が真っ直ぐで、真っ直ぐ過ぎて、仔猫を戻しに来たとは言えなくなってしまった。

 先に「ありがとう」と言われると「違う」なんて否定が出来なくなる。
 例えば、公衆トイレで「きれいに使ってくれてありがとう」というポスターがあると、汚してはいけないと思ってしまう心理と一緒だ。

 抱えていた仔猫を降ろすと、ヨタヨタと男の子のほうに近づいていく。
 男の子は「触っていい?」と言いながら、仔猫をなで始めた。

 とりあえず、仔猫を飼うかどうかは置いておいて。

「えっと、この猫は君が捨てたの?」
「違うよ! 僕はみーちゃんを飼いたかったんだ」

 男の子は立ち上がって力強く言った。そして一呼吸おいて続ける。

「でも、母ちゃんが猫アレルギーだから駄目だって。かゆくなってじんましんができて、もしかしたら死んじゃうって言うんだ。僕、母ちゃんが大好きだから……」

 途中からは何とも悔しそうな悲しそうな顔になった。本当に飼いたかったのだろう。

「そう、猫アレルギーじゃあ、仕方ないかもしれないね。ねぇ、みーちゃんって名前、君がつけたの?」

「ミィーミィー鳴くからみーちゃんって呼んでる」
 ぶっきらぼうに言うが、あまりに単純な由来なので思わず笑ってしまった。

「ふふ。みーちゃん、さっきミルクをいっぱい飲んだのよ。だからミルクのみーちゃんね」

「ミルク! ミルクのみーちゃん! かわいい!」
 男の子の顔が弾けるようにパァーッと明るくなった。そして男の子は地べたに胡坐をかいて、ミルクを抱きかかえた。

「みーちゃん、みーちゃん」
 仔猫が可愛くて仕方ないという様子の男の子を見ていると、千勢も温かな気持ちになってきた。

「ねぇ、おばちゃん。またみーちゃんに会いに来てもいい?」
 こんなキラキラした瞳で見つめられたら嫌と言える訳がない。

「いつでも、いらっしゃい」
 まだ飼うかどうかも決めていないのに。何を言っているんだ、千勢。内心で自分に突っ込みを入れていたが、男の子には笑顔を向けた。

 頼まれると断れないお人よしの性格はイヤというほど自覚しているのに、いくら年を重ねても直せない。

「おばちゃん、〝突きあたり〟に越してきた人でしょ?」
「え? 突きあたり?」
 確かに新居は車道の突きあたりになっていて、その先は登山道が続いている。

「うん。大きな木がある家」
「そうね。今日、引っ越してきたんだよ」

「おばちゃんって、キテレツな人なんでしょ?」
 キテレツって、奇天烈? 初対面なのに何なんだろうと不思議に思った。

「よくそんな難しい言葉、知っているね」
「母ちゃんと石田のじいちゃんが言ってた。キテレツってテレビに出てるんでしょ?」
「ううん、アニメには出てないよ」

 ちょっと勘違いがあるようだが、確かに周りの人から見たら珍妙なのだろう。60歳の女性が一人でこんな山奥へ越してくるなんて。

「しょーたぁー」
 遠くで女性の声がした。

「あ、母ちゃんだ。僕、帰らないと」
 男の子が懐で撫でていたミルクを地面に下ろした。

「みーちゃん、またね。そうだ、僕、山崎将太です。小学1年生です。おばちゃんは?」
「私は楠木千勢です。将太君、よろしくね」

「じゃあ、ちーちゃんだね。じゃあ、みーちゃん、ちーちゃん、また明日ね」
「じゃあね」

 将太に手を振りながら、千勢は胸が張り裂けそうだった。ちーちゃん。小さな男の子に仔猫と同じような感じで呼ばれたからではない。

 ちーちゃん。稔の声が聞こえる。
 ちーちゃん。稔の笑顔が見える。

「稔さん……」
 千勢はたまらずしゃがみこんだ。ミィーと寄ってきたミルクを両手で抱きしめる。苦しかったのか、暴れて千勢の腕から逃げ出した。

「どこにも行かないで……」
 壊れそうな気持ちをどうすることもできず、千勢は膝に顔を埋めた。



 結局、仔猫は飼えないとは言えなかった。

「さて、仔猫ちゃん。どうしよっか?」
 千勢は立ち上がって、切り替えるように声を出した。しばらく座っていたせいで足がしびれている。

 ミィー。草むらで遊んでいた仔猫が、こちらに顔を向けた。
「あ、みーちゃんだったね。みーちゃん、ウチくる?」
 ミィー。
「そうね。一緒に行こうか」

 そうだと思って、段ボール箱の中を見た。先ほどは気づかなかったが、バスタオルが敷かれている。

「とりあえず、これがみーちゃんのお家ね」
 ひょいっとミルクを段ボール箱に入れる。箱を抱えながら千勢はゆっくりと歩きだした。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

夫が妹を第二夫人に迎えたので、英雄の妻の座を捨てます。

Nao*
恋愛
夫が英雄の称号を授かり、私は英雄の妻となった。 そして英雄は、何でも一つ願いを叶える事が出来る。 そんな夫が願ったのは、私の妹を第二夫人に迎えると言う信じられないものだった。 これまで夫の為に祈りを捧げて来たと言うのに、私は彼に手酷く裏切られたのだ──。 (1万字以上と少し長いので、短編集とは別にしてあります。)

靴屋の娘と三人のお兄様

こじまき
恋愛
靴屋の看板娘だったデイジーは、母親の再婚によってホークボロー伯爵令嬢になった。ホークボロー伯爵家の三兄弟、長男でいかにも堅物な軍人のアレン、次男でほとんど喋らない魔法使いのイーライ、三男でチャラい画家のカラバスはいずれ劣らぬキラッキラのイケメン揃い。平民出身のにわか伯爵令嬢とお兄様たちとのひとつ屋根の下生活。何も起こらないはずがない!? ※小説家になろうにも投稿しています。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

15年目のホンネ ~今も愛していると言えますか?~

深冬 芽以
恋愛
 交際2年、結婚15年の柚葉《ゆずは》と和輝《かずき》。  2人の子供に恵まれて、どこにでもある普通の家族の普通の毎日を過ごしていた。  愚痴は言い切れないほどあるけれど、それなりに幸せ……のはずだった。 「その時計、気に入ってるのね」 「ああ、初ボーナスで買ったから思い出深くて」 『お揃いで』ね?  夫は知らない。  私が知っていることを。  結婚指輪はしないのに、その時計はつけるのね?  私の名前は呼ばないのに、あの女の名前は呼ぶのね?  今も私を好きですか?  後悔していませんか?  私は今もあなたが好きです。  だから、ずっと、後悔しているの……。  妻になり、強くなった。  母になり、逞しくなった。  だけど、傷つかないわけじゃない。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

処理中です...