『北の大地のファーストペンギン2025~限界集落復興と結婚したい訳あり男女達の物語~』

M‐赤井翼

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第3部 エピソード2025

「決死の雪中行軍」

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「決死の雪中行軍」

 車内で繋がらないスマホを手に途方に暮れていたところ、突然、エンジンが止まった。「えっ、なんで?」と稀世がセルモーターを回すが全くかかる様子がない。ふと三朗がメーターパネルを覗き込むと燃料メーターが「Eエンプティー」を示していた。暖房の切れた車内の温度はどんどんと下がっていった。
「稀世先生、きっと脱輪して下を擦った際に燃料タンクに穴が開いちゃったんだと思います。ここは摩周湖第一展望台の手前ですから摩周温泉まで約8キロです。このまま、ここで夜を迎えたら凍死しかねません。とりあえず街に出れば休憩もできますし、電話も通じます。ここは腹をくくって歩きましょう。」
 三朗が現実的な意見を述べた。「サブちゃん、足は大丈夫なん?」と問う稀世に「小一時間冷やしましたのでだいぶまし・・になりました。完全に暗くなる前に少しでも進みましょう。」と荷室に置いた稀世のダウンジャケットと三朗のフード付きのベンチコートと防寒用オーバーパンツを取り、車を降りることにした。

 90分かけて摩周湖第一展望台を越えて約2キロ進んだ。すっかり日は落ちて辺りは微かな月明りだけになっている。道路の轍はふり続ける雪で既に埋まり、道路の幅を示す電柱の上の道幅表示の白赤の矢印を目安にふたりは歩いた。深い雪に足を取られた事と稀世は体力を使い切った事に昨日の徹夜の寝不足が重なり、足元がふらついた。
「あっ、稀世先生あまり左に寄っちゃダメです!」と三朗が手を伸ばしたが右足首の痛みで一歩が踏み出せなかった。「ずぼっ、ズブズブズブ」と稀世が融雪溝に沈み込んでいった。
 三朗は雪の上を這い、稀世の腕を掴み必死に持ち上げたが、稀世の下半身は雪の下の流水にすっかり浸かってしまっていた。三朗は稀世にズボンとタイツを脱ぎ、自分の履いているオーバーパンツに履き替えることを申し出たが「ここで脱ぐのはちょっと恥ずかしいやん…。」と受け入れられることは無かった。

 稀世の体温は濡れた下半身に吹き付ける吹雪で奪われ、そこから30分で1キロ歩くと動けなくなってしまった。唇は紫になり、小刻みに震えが来て、ろれつが回らなくなっているが多くの冷や汗をかいている事から「低体温症」であると三朗は確信した。
「稀世先生、失礼を承知で着替えさせてもらいますね。」と雪の上に稀世を寝かせ、凍りかかったジーンズとタイツを脱がせた。首に巻いたタオルで稀世の足先から太ももまで下半身を拭き上げるとオーバーパンツを脱いで稀世に履かせた。濡れたスノーブーツと靴下はその場に放棄し、オーバーパンツの裾を輪ゴムで閉じて足先が表に出ないようにした。三朗はポケットに入れていた使い捨てカイロを「稀世先生、失礼します。」と断ったうえで、稀世のへその下のガードルとショーツの間に差し込んだ。
「サブちゃん、恥ずかしいよ…。」と力なく言う稀世に「生きるか死ぬの境目なんです。すみません。」とだけ言い、ベンチコートを脱ぐと稀世のダウンジャケットに積もった雪を払い、上から着させた。

 三朗は稀世を背負うと、痛む右足を引きずりつつ、道道52号線の屈斜路摩周湖畔線を南西に向け摩周温泉を目指した。
「稀世先生、我慢してくださいね。車が来れば乗せてもらえますし、街まであと5キロです。どんなに寒くても寝ちゃだめですよ!ほら、声を出して下さい。」
 三朗の励ましに稀世は弱弱しく「ごめんね、私がまりあさんの注意をきちんと聞いていれば…。」、「ごめんね、私がサブちゃんをケガさせたばっかりに…。」、「ごめんね、私が運転を誤ったばっかりに…。」、「ごめんね、私が融雪溝にはまっちゃったりして…。」と謝りの言葉ばかりが出て来た。
「先生、もうお詫びの言葉はお腹いっぱいですから、先生の事を聞かせてくださいよ。子供の時の話でもいいですし、アイドル、プロレスラーの時の話でも…。僕の知らない先生のことを話してください。」
と三朗は稀世を寝させないために必死に声をかけつづけた。

 約2時間程経っただろうか、小休止を入れスマホを確認したが相変わらずの悪天候の影響で「圏外」のままである。(母さんも直さんも心配してるやろな…。僕がついていながら稀世先生をこんな目に遭わせてきっと怒られるんだろうな…。)と思い、稀世の顔を見ると三朗の腕に頭を寄せ眠りかけていた。
「稀世先生、起きてください。ここで寝たら本当に死んじゃいますよ。ここから街まであと3キロです。必死に歩きますから寝ないでください!」
 三朗は稀世の冷え切った頬を両手でこすった。
「あっ、ごめん。サブちゃん…、今、寝かかってたわ…。サブちゃんの足は大丈夫なん?」
と気遣う稀世の目の焦点は全く合っていなかった。三朗は稀世の顔に自分のマフラーを巻きつけ、唯一のカイロを稀世の首の後ろに差し込むと「よっこらしょ!」と気合を入れて稀世を背負い、もう感覚のない足を引きずり稀世に声をかけ続けた。
「落ちないようにしっかりと捕まっててくださいね。さあ、稀世さんのプロレスラー引退までは聞きましたから、続きを聞かせてください。さて、出発しますよ。」

 三朗の背の上で稀世はハピネスフード時代の話に入った。楽しかった仕事の話が一息つくと、「ふーん、そんなに楽しかったのに何でやめちゃったんですか?まあ、そのおかげで今のアグリ神標津がある訳なんですけど、ちょっと興味あります。」と事情を知らない三朗は尋ねた。
 稀世の口から「私、そこの専務と婚約してたんよ…。でも、仕事が忙しすぎて、単身での長期海外出張に行っててな…、」と退社する原因となった武藤兼良の浮気事件が語られた。意識朦朧で話し続ける稀世の言葉を遮ろうとも考えたが、疲労と寒さで三朗の思考も固まって、嫌な思い出を止める言葉が出てこなかった。
 心亜に寝取られ、失意の底、神標津にやってきたことが語られた。意識の途切れかかった稀世は「次に男の人とつきあうんやったら、サブちゃんみたいに誠実で真面目で頑張ってくれる人がええな…。ってこんな年上のおデブに言われても困ってしまうよな…。」と言った後、いくら三朗が話しかけても稀世は答えることは無かった。マフラー越しに三朗の首筋にかかる冷たい吐息で呼吸をしている事はわかるが、立ち止まってそれを確認する余裕は無かった。
 (1分、1秒でも早く、摩周温泉の街に稀世さんを連れて行ってすぐに病院に連れて行かないと…。)と最後の力を振り絞って、三朗は足を前に出し続けた。

 「摩周温泉2キロ」の道路標識を超え、「摩周温泉1キロ」の看板の前でついに三朗の足が止まった。「くそっ!動け!俺の足!」と自らに活を入れ足を前に出そうとするが右足は動かず引きずるだけの重石となり、左足だけで数ミリずつ進むしかできなくなっていた。
 「この糞ったれの右足!動かないんだったらこの場でちぎって焼いて食ってしまうぞ!」と三朗とは思えない汚い言葉の大声に背の上で稀世がふと目を覚ました。
「サブちゃんでもそんな大きな声が出るんや。やっぱり男の子やな…。いや、立派な男の人やな…。私は、去年の秋からサブちゃんの事を認めてたんやで。いつも「僕は一番の新入りですから…」って遠慮するけど、アグリ神標津には絶対的に必要な人になってるんやで…。春の総会でサブちゃんを役員に推すつもりで居ったんやけど、もう、私には無理みたいやわ。
 もう、ここで私は捨てて、サブちゃんだけでも助かって…。サブちゃん、これからもアグリ神標津の為に頑張ってな。今までありがとう…。そして、さよなら…。」
と呟いた瞬間、目の前で強い光を感じた。
 (あぁ、天使が迎えに来たんや…。)と思い、稀世の意識は暗闇の中に落ち込んでいった。

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