百万の契約

青いピアノ

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第5章 契約と誓約の戦

第265話 消えた芋探し

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朝日のやわらかな光が、薄いカーテンの隙間から静かに差し込んでいた。小鳥のさえずりも遠く、まだ街は眠っているようだ。

椿は、かすかにまぶたを震わせながら目を開けた。寝起きの身体が布団のぬくもりに沈む中、「うーん」と小さく唸って、隣に目を向ける。

そこには、百合がいた。柔らかそうな栗色の髪が枕に散り、胸元まで落ちた毛布の下には、丸みを帯びた豊かな胸。その胸のふくらみの中心に位置する、桃色がかった小さな丸い肌と白い滑らかな肌のコントラストが、朝の光を浴びていっそう神秘的に見えた。

その一瞬で、椿の目がぱっちりと開き、心臓がどくん、と音を立てた。喉がからからになり、思わずつばを飲み込む。

その気配に気づいたのか、百合がゆっくりと目を覚ます。そして、まだ寝ぼけた声で言った。

「椿のエッチ」

からかうように笑いながら、百合は椿を抱きしめた。その腕のぬくもりに、椿は苦笑しながら身を預けた。

昼過ぎになると、ようやく二人は宿を出た。

「初めて菜の花の国に来たけど、静かな国だね」

百合がぽつりと呟く。道沿いに並ぶのは、低い石造りの家々と、咲き残る黄色い花の群れ。だがその静けさは、心安らぐものではなかった。

「うん。でも、ほら、百合……あそこ見て」

椿が指差した先。舗装の割れた道の隅に、何人もの人々が横たわっていた。誰もが痩せ細り、目を閉じたまま動かない。

「ほ、本当だ……なんだか、胸が苦しくなるよ」

百合は涙を浮かべ、声を震わせながら言った。
二人は、近くの役所へと足を向ける。そこは赤茶けた煉瓦で組まれた、朽ちかけの小さな建物だった。豪奢な看板もなく、窓のガラスにはひびが入り、周囲の空気には沈黙と焦燥が漂っていた。

菜の花の国――ここは、戦乱の絶えない世界において、わずかに「国」という形式を保つ数少ない国民国家。内戦や周辺諸侯との戦争を回避してきたのは、契約と誓約の両方を巧みに組み合わせた統治があってこそだ。だがその一方で、数十年に一度訪れる猛烈な熱波やサイクロンにより、頻繁に飢饉に見舞われる、非常に貧しい国でもある。

この国と友好関係を持つ朝霧郷の軍師・玲子と連絡を取ることにした。

「久しぶり。玲子、涼子。元気にしてた?」

水晶通信の向こうで、玲子が微笑む。彼女は前年、第一子を出産し、その子に「涼子」と名付けていた。

「まあね。霧ノ都に占領されてた領土も取り返した。でも……夏希という奴、処刑されたって噂がある。あれ、本当?」

「夏希さんの行方は、まだ不明のまま。僕が都に囚われていた時に雷雨大名らしき人を見かけたけど、変わり身の可能性もある。少なくとも、最後に直接謁見してからは一度も会っていない」

「そっか……。でも、動きづらいな。朝霧としては今後一切手を出さないという契約と誓約を結んで、雫の国の復興に協力した夏希には本当は力を貸したいんだが……」

「うん。それに、最近機構の動きがどんどん過激になってきてる。嫌な方向に向かってる感じがするんだ」

「……そうか。なら、夏希の生存調査はこっちでやろうか?」

「お願い。僕はもう、あまり自由に動けない。都も機構も、いまや過激な契約派が主流になってきてる。このままだと、夏希にはますます協力できなくなる」

「わかった。任せて。……こっちに来る予定は?」

「しばらくは難しいと思う。でも、休暇が取れれば一度くらいは戻れるよ」

「そう。じゃあ、今の任務が終わるまでそっちにいるなら、また連絡するね」

「うん。またね」

水晶通信の光がすっと消えた。

「……あ、あの……執行官様。どうか少しだけでもいいので、水や飲み物を分けてはくださいませんかね?」

声をかけてきたのは、役所の役員と思しき初老の男だった。顔色は悪く、袖口はすり切れ、靴には泥がこびりついていた。

椿は静かにうなずくと、異空間から竹製の水筒と干した黄金トマトを取り出し、手渡した。

「……あ、ありがとうございます」

男は一礼すると、ふらつきながら去っていった。

「役員でも、苦しい生活なんだね……」

百合がつぶやいた。

「うん。菜の花の国は数十年おきに大飢饉を経験している貧しい国なんだ。国内には誓約の力で支持を集めて、国外には朝霧郷以外には契約と誓約の両方で対話してる。上手く立ち回ってはいるけど、自然災害にはさすがに敵わないよ」

「選挙もあるって聞いたことある!人々の意見に耳を傾けるなんて、素敵だよね。……機構は、どんどん独裁っぽくなってきたからなあ……」

「そうだね」

二人は、菜の花の国の市場に余計な打撃を与えぬよう、慎重に行動を始めた。ペッパー商人の芋がこの地に届くまでの間、椿の異空間魔法を使って、食料と飲み物を一時的に供給することになった。

行政と協力しながら、極めて慎重に。そして、支援のための資金のほとんどは――椿の懐から支払われた。

一週間後、椿と百合は再びペッパー商人の倉庫を訪れた。だが、倉庫の中は依然としてがらんどうだった。

そこに立っていたのは、ペッパー商人本人。
彼は身長こそ高くはないが、分厚い胴回りとがっしりした肩をしており、全体的に丸太のような印象を与える男だった。濃い茶色の革の上着は年季が入って皺だらけで、袖の継ぎ目には何度も修繕の跡がある。鼻の下には短く整えた髭。眼は小さく鋭く、まるで常に計算をしているかのように落ち着きなく動いていた。

突然、背後から風を裂く音。百合が瞬時に反応し、杖を構えて魔障壁を展開。飛んできた毒塗りの吹き矢は、ガラスのように砕け散った。
背後に立っていたのは、商人に雇われたらしき殺し屋だった。

「ど、どうしろってんだよ!俺だって困ってるんだ!下請けがトンズラしやがったからよ!芋が届けられないのは俺のせいじゃねえ!」

ペッパー商人は慌てた様子で両手を広げ、汗を拭う。

「でも、契約は契約だよ?」

百合が鋭く睨みつけながら言うと、商人は一歩引き、鼻を鳴らした。

「だ、だから!どうにもできねえって言ってるだろ!俺のせいじゃねえ!全部下請けが悪いんだ!……だがよ、どうせあれだろ!?機構って強大な力を盾にして、俺を契約違反として処罰するつもりなんだろ!?くそったれが!だから俺は機構ってやつが大っ嫌いなんだ!」

殺気立った空気の中、椿は一歩前へ出て、静かな声で言った。

「下請けを使ったのはペッパー商人の判断。それに裏切られたのは気の毒だけど、菜の花の国は大金をかけて依頼した。……もし、金を返せるなら、罰を受ける必要はないんじゃないかな?」

「金なんかあるかよ!他の事業に使っちまったよ!」

「じゃあ、やっぱり連行かな?」と百合が静かに杖を構える。

だが、椿は彼女の前に手を伸ばして制した。

「いや、下請けを探し出そう」

「……椿、それ、私たちの任務じゃないよ?」

「知ってる。下請けとの契約は個人間契約だ。機構の管理下にあるものでもない。でもやろう」

百合は一拍置いてから、肩をすくめた。

「うん、別にいいけど。……下請けにも何か事情があるのかもね。場所はわかるの?」

ペッパー商人は少し戸惑ったが、やがて懐から皺だらけの地図を取り出し、指で一か所をなぞった。

「この一週間、何もしてなかったわけじゃねえ。部下が見つけたらしいんだ。ここから西に百キロほど離れた“無法者の町”で、芋やら何やらが取引されてるって話だ」

「よし、そこに行こう」

百合は少し頬を染めて、椿に寄り添いながら微笑んだ。

「うーん……まあ、椿と一緒にいられるなら行くかなあ。命令違反でもないし」

ペッパー商人も小さく頷いた。そのとき、全身を黒い布で覆った小柄な人間が倉庫の隅から声を発した。

「行くのは勝手だが、俺への報酬はどうした?失敗しても金貨一枚は受け取る契約だったはずだ」

ペッパー商人は不満そうに舌打ちしつつも、懐から金貨を取り出し、暗殺者に投げた。暗殺者はそれを器用にキャッチすると、闇に溶けるように走り去っていった。

その後、ペッパー商人は倉庫の外に出て、上着の内ポケットから小指ほどの大きさの古びた笛を取り出すと、「ピィ」と鋭く吹いた。

やがて、地面が低く唸りを上げ、地中から巨大な魔獣が姿を現した。

全長二十メートルにも及ぶ土掘り大蜥蜴だ。その身体はぬるりとした粘膜に覆われ、軟体動物のように柔らかい。前肢には鋭い爪、目は小さく光を反射している。

「こいつが俺の相棒、名はピリピリだ。さあ、乗れ。無法者たちの町へ行こうぜ」

椿と百合はその背に飛び乗り、ぐらりと揺れながら体を支え合った。乗り心地は最悪だったが、椿は時折大きく揺れるたびに、百合の胸が自分の体に押し当てられるのを感じ、思わず鼻の下を伸ばした。

旅は二日間にわたった。途中でテントを張り、星空の下で焚き火を囲んでの野宿が続いた。砂混じりの風が吹き、乾いた地表には草もまばらにしか生えていない。静けさの中、火のはぜる音だけが響く。

ペッパー商人が木の枝を削りながらぼそりと呟いた。

「俺は、元雫の国の支配地域や周辺で商売してた。いつもならうまく儲けるんだが……ここ数ヶ月、やたら失敗が多くてな」

彼の表情には苦々しさがにじんでいた。

「この間なんてよ、売り物の奴隷に逃げられて、西の荒れ地へ行ったら奴隷が全然見つからなかったんだ」

「うげ……西の荒れ地かぁ、思い出したくないなあ」と百合が渋い顔をする。

椿が興味を持ったように問いかけた。

「西の荒れ地って……危なくないですか?」

「危ねえよ。命を落とすのが当たり前だ。脱走した奴隷どもが群れてる巣窟だからな。でも、ピリピリがいりゃあ大丈夫だ。地中移動ができて人に懐く魔獣はそうそういねえ。魔法で地中を移動する“潜伏”ってのも、上位魔法だし、奴隷が使えるようになるもんじゃねえ」

「一昨年になりますが、西の荒れ地に行ったことがあります。大変でした……」

「二年前か。…じゃあ、わからねえな」

「何がです?」

「先月、またあそこに行ったんだよ。でもな、変なんだ。奴隷たちの姿が一人もなかった。その理由を誰も知らなくてよ…」

椿と百合は顔を見合わせた。

「……消えた?」

「そうだ。突然、人が消えたようにいなくなった。あそこにいるのは、大抵が商品価値の高い奴隷たちだ。あの場所ごと消えちまったって話もあるが、確証はねえ」

「人を“商品”って……そういう言い方、やめてよ」

百合が低く怒りをにじませると、ペッパー商人は眉をひそめた。

「うるせえな、俺の商売だ」

火が小さくなり、風が冷えてきた。
椿は空を見上げ、星々の瞬きを見つめながら呟いた。

「……それにしても、本当に何があったんだろう」

「さあな……ま、無法者の町で手がかりが見つかればいいんだが」

そうして、夜が静かにふけていった。
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